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繭の回廊


音のない世界で、俺たちは、巣の縁にしゃがみ込んでいた。


目の前に広がる、白い天幕。

糸に飲み込まれた大木が、柱のように立ち並び、その間を、幾重もの糸が網の目のように走っている。

その網の中ほどに、人の形をした繭が、四つ。

そして、巣の一番奥の暗がりで、巨大な何かが、ゆっくりと呼吸を続けていた。


膨らんで。縮んで。また、膨らんで。

そのたびに、巣全体の糸が、かすかに、たわむ。


(……どうやって、外す)


繭は、それぞれ一本の太い糸で、上の網から吊るされていた。

その糸は、網の目を伝って、巣全体に――そして、奥の暗がりに眠る、あれへと繋がっている。

切れば、震える。

震えれば、伝わる。

伝われば、目を覚ます。


隣で、シェイラが、細い指を動かした。

声の代わりの、手の形。

その指が、繭を吊るす糸を、すっと指す。

それから、シェイラは俺を見て、ほんの少しだけ、首を傾げた。


――どうにか、できる?


紫の瞳が、そう問いかけていた。


(この人は、知らないんだ)


石切り場で、シェイラは「静かに止めて」と言った。

けれど、どうやって止めるのかは、一言も言わなかった。

この人が見たのは、丸く止まった火と、七色の膜と、ほどかれた切り口だけ。

俺の泡に、何ができるのか。

その本当のところは、まだ、知らない。


ここで、見せることになる。

この人の、目の前で。


(…ここまで来て、隠してる場合じゃない)


四つの繭が、静かに揺れている。

あの中に、まだ、生きている人がいる。


俺は、シェイラの目を見て、小さく、頷いた。


◇


繭を吊るす糸を、見上げる。

糸の付け根は、それぞれ、太い枝に、ぐるぐると巻きついていた。


(あの糸を、丸ごと凍らせてしまえば)


凍りついた糸は、もう、弦のようには揺れない。

枝に張りついた、ただの氷の柱になる。

その氷を断っても、震えは、凍った糸の中で止まって、網の目までは届かない。


問題は、繭が、四つあることだ。

一つずつやっていたら、三十を、四回。

その間ずっと、巣の奥のあれが、眠り続けてくれる保証はない。


(だったら、四つ、同時に)


俺は、ネルを見た。

ネルは、俺の目を見ただけで、わかったらしい。

一瞬だけ目を丸くして、それから、こくりと頷いた。

腰のナイフに、そっと手をかける。


俺は、両手を、胸の前にかざした。

指を三本立ててから、ゼロの形を作ってみせる。

――三十。

シェイラの目が、不思議そうに、わずかに細められた。


◇


指先から、泡が、一つ、生まれる。

二つ。三つ。四つ。

四つの泡が、俺の手のひらの上に、静かに浮かんだ。

その一つひとつに、【プチアクア】の水を、ひとしずくずつ。

それから、【プチフロスト】の冷気を、ほんの少しずつ、流し込んでいく。


(……一)


五歳の頃から、ずっとやってきたことだった。

何十もの泡を、同時に浮かべて、一つも割らずに留めておく。

膜の厚みも、中の圧も、一つひとつ、思い通りに。

十年かけて、指先に染み込ませた感覚。


けれど、今は、ただ浮かべておくだけじゃない。

四つの泡の中の水を、同時に、少しずつ冷やしていく。

一つでも揺らせば、その中の水は、その場で凍って終わる。

四つ分の、張りつめた糸を、同時に握っているような感覚だった。


息を止める。

心臓の鼓動さえ、指先に伝わってしまいそうで。


シェイラは、一番目の繭の真下で、じっと上を見上げていた。

ネルは、ナイフを抜いて、四本の糸を、順番に目で辿っていた。

誰も、動かない。

誰も、声を出さない。

ただ、巣の奥の影だけが、ゆっくりと、呼吸を続けている。


額に、汗がにじむ。

頭の芯が、じわりと重くなる。

四つ分の魔力を、針の先ほどに細く絞り続けるのは、思っていた以上に、きつかった。

それでも、数え続けた。

十を越え、二十を越えて――。


(……二十五)


――そのときだった。


巣の上のほうから、何かが、ぽとり、と落ちてきた。

手のひらほどの、小さな黒い影。

森蜘蛛だった。

それが、よりによって――四つ目の繭を吊るす糸の上に、着地した。

巣の中心から、奥の暗がりへとまっすぐに伸びる、ひときわ太い糸。

巣の背骨のような、その糸の上に。


糸が、ほんのかすかに、たわんだ。


(――ッ!)


心臓が、止まりかけた。

指先の泡が、揺れそうになる。

揺らすな。

揺らしたら、四つとも、終わる。


その寸前。


ネルの手が、動いていた。

ナイフの切っ先が、糸の上の森蜘蛛を、すくい上げるように、ぴんと弾く。

小さな黒い影が、糸から離れて、宙を舞った。

その先で、シェイラの指先が、音もなく、それを摘まみ取っていた。


糸の揺れは、ほんの、ひと揺れだけで止まった。

巣の奥の影は、まだ、膨らんで、縮んでいた。

――まだ、眠っている。


四つの泡は、ひとつも、揺れていなかった。

俺は、自分でも信じられないくらい、指先だけは、ぴくりとも動かしていなかった。


(……あと、三つ)


四つの泡の中の水が、同時に、しんと静まり返っていく。

凍るべき温度を、とうに過ぎて。

それでも、凍らずに、留まっている。


(――三十)


四つの泡を、指先から、同時に解き放った。


ふわりと。

四つの透明な泡が、音もなく宙を滑っていく。

それぞれの繭を吊るす、四本の糸の、付け根へ。


――ぱちん。


四つ、同時に、弾けた。


音は、しなかった。


弾けた水が、糸に触れた瞬間――白い霜が、走った。

付け根から、上へ。網の結び目まで、一気に。

付け根から、下へ。繭を吊るす糸を伝い、繭の表面の糸まで、一気に。

まるで、白い稲妻が、糸の上を駆け抜けたようだった。


四本の糸が、繭ごと、真っ白な氷に変わっていく。

きらきらと、細かな霜の粒が、宙に舞う。

青白く滲む巣の中に、四本の、真っ白な氷の柱が、音もなく立ち上がっていた。


(……できた)


視界の端で、何かが動いた。

シェイラだった。


紫の瞳が、大きく、見開かれていた。

いつも何の感情も映さない、静かな瞳が。

目の前に立ち上がった、四本の白い氷の柱を、まっすぐに見つめている。

その唇が、ほんの小さく、開いていた。


息を、呑んだのだと思う。

何かを、言おうとしたのかもしれない。

けれど、ここは、彼女自身の【静寂】の中だ。

声は、出なかった。

声にならない声のまま、シェイラは、ただ、白い氷の柱に見とれていた。


それは、ほんの、ひと呼吸の間だけだった。

シェイラは、すぐに、いつもの無表情に戻った。

それから、ネルに向かって、小さく頷く。


――今。


ネルの瞳が、一本目の氷の柱を捉えた。

凍りついた糸の、綻び。

二つ数えるほどの間に、それを見つけて――。

ナイフが、すっと走る。

氷の柱が、音もなく砕けて、繭が、ふわりと落ちた。

シェイラが、一歩踏み出して、それを受け止める。


二本目。

三本目。

四本目。


ネルが断ち、シェイラが受け止める。

凍った糸は、もう、ひとつも震えなかった。

四つの繭が、次々と、シェイラの腕の中へ下りていく。


最後の繭を受け止めたとき、俺は、巣の奥へ、目だけを向けた。

暗がりの中の影は、変わらず、ゆっくりと、膨らんで、縮んでいた。

何も、変わっていない。


(……届いて、ない)


三人とも、同時に、肩の力を抜いた。

声のない世界で、ネルが、ぎゅっと目を閉じて、それから、俺を見て、小さく笑った。


◇


巣の縁から少し離れた、大木の根元のくぼみ。

シェイラが、四つの繭を、音もなく、そこまで運んでいく。

並べて横たえた繭の糸に、ネルが、一つずつナイフを当てていった。

凍った表面の糸は、ネルが綻びをなぞるだけで、ぱりぱりと、薄い氷のように剥がれ落ちていく。


一つ目の繭から現れたのは、弓を背負った、細身の男だった。

二つ目は、大きな盾を抱えたままの、がっしりとした女の冒険者。

四つ目は、まだ若い、魔法使いらしい青年。

みんな、顔色は土気色で、唇は紫に変わっていた。

毒だ。

けれど、胸は、かすかに上下している。

――生きている。


三つ目の繭から現れたのは、大柄な男だった。

太い腕に、刃の欠けた大斧を、まだ握りしめたままだった。


(……この人が、『鋼の誓い』のリーダー)


オーガを一人で仕留めたという、Bランクの斧使い。

その人が、今、土気色の顔で、浅い息を繰り返している。


ふと。

男の瞼が、かすかに、震えた。

うっすらと、目が開く。

焦点の合わない瞳が、ぼんやりと、俺の顔を見上げた。

乾いた唇が、何かを言うように、ゆっくりと動く。


声は、聞こえなかった。

【静寂】の中では、何も。

けれど、その唇の形は、確かに――。


――ありがとう。


そう、言っているように見えた。

それから、男の瞼は、また、ゆっくりと閉じていった。

焦点の合わないままの目。

たぶん、目の前にいるのが誰なのかも、わかっていない。

目が覚めたときには、きっと、何も覚えていないだろう。


それで、いい。

俺は、男の手に握られたままの大斧を、そっと、その胸の上に置き直した。


◇


四人を、並べて横たえる。

シェイラが、その前に膝をついて、一人ひとりの顔を、確かめるように見下ろしていた。

無表情のままだった。

でも、その肩が、ほんのわずかに、下がった気がした。


それから、シェイラは、ゆっくりと顔を上げた。

紫の瞳が、俺を見た。

じっと。

何かを、確かめるように。

けれど、何も言わなかった。

……言えなかったのかもしれない。ここでは。


ネルが、ぺたりと、地面に座り込んだ。

目元を押さえながら、それでも、俺のほうを見て、小さく、親指を立ててみせた。

俺も、汗だくのまま、同じように親指を立て返した。


声のない世界で。

三人とも、同時に、ゆっくりと、息を吐いた。


――その、瞬間だった。


巣の奥で、ずっと続いていた、あの呼吸が。

ぴたりと、止まった。


膨らんで。縮んで。また、膨らんで。

その繰り返しが、途切れていた。


(……え?)


背筋を、冷たいものが這い上がる。

巣の奥の、暗がり。

糸の天幕の、さらに向こう側。


そこに、赤い光が、ひとつ、灯った。


ふたつ。

みっつ。

よっつ――。


八つでは、足りなかった。

暗がりの中に、赤い光が、次々と灯っていく。

数えきれないほどの、赤い目が。

ゆっくりと、こちらを、向いた。



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