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無音の行軍


夜明け前の眠り羊亭は、しんと静まり返っていた。

女将さんも、ほかの泊まり客も、まだ眠っている。

俺とネルは、軋む階段を一段ずつ、息を殺して下りた。


「ミリアさんに、言わなくてよかったのかな」


宿の裏口を抜けたところで、俺は小声で呟いた。


「言えるわけないでしょ。また泣かせちゃうわよ」


ネルは、新しい籠の代わりに、小さな荷袋だけを背負っていた。

腰には、ばあちゃんのナイフ。

胸元には、針と糸の入った革袋。


「それに、今日のあたしたちは、ギルドにも、森にも、いないことになってるんでしょ」


「そうだな」


――明日。夜明け前。森の入り口で。


昨夜、シェイラはそう言った。

けれど、東の森の正面の入り口には、今頃、討伐隊の本隊が陣を張っているはずだ。

そこに、Fランクの俺たちがのこのこ現れたら、それこそ、一番目立つ。


(あの人の言う『入り口』は、きっと、あっちじゃない)


俺たちが知っている入り口は、もう一つある。

石切り場の裏から、沢へ抜ける、ネルしか知らない細い道。

あの夜、『銀の猟犬』を追いかけて駆け抜けた道だ。


東門を抜け、街道を外れ、獣道へ入る。

月は、もう西の空に傾きかけていた。

足元が、ほとんど見えない。


「リト」

「ああ」


俺は、右手の人差し指を、そっと立てた。


「【プチフレイム】」


――ぽっ。


指先に、小さな、小さな火が灯る。

ロウソクよりも、まだ小さな灯。

それでも、闇の中では、足元の木の根を、ちゃんと照らしてくれた。


「やっぱり、便利ね。それ」


ネルが、ほんの少しだけ、口元をゆるめた。


「暗いとこなら、ちゃんと見えるもん」


小さな灯を頼りに、俺たちは、石切り場へと続く獣道を進んでいった。




◇


同じ頃。

東の森の、正面の入り口。


夜明け前の冷たい空気の中に、いくつもの天幕が張られていた。

焚き火が、あちこちで赤く揺れている。

集まった冒険者は、五十人を超えていた。

武器を研ぐ者。鎧の留め具を確かめる者。黙って森の奥を睨みつけている者。

その中心に、岩を削り出したような大男――ギルドマスターが、腕を組んで立っていた。


「……来たか」


ギルドマスターが、低く呟いた。

冒険者たちのざわめきが、ぴたりと止まる。

焚き火の明かりの中を、銀髪のダークエルフが、音もなく歩いてきた。


「シェイラ。準備は」


「できてる」


シェイラは、森の奥を見つめたまま、淡々と答えた。


「入るのは、私」


「……一人か? ギルドでは、一人じゃ足りんと言っていただろう」


「うん」


シェイラは、小さく頷いた。


「手は、もう借りてある」


ざわっ、と冒険者たちがどよめいた。


「借りてある……? 誰のだ」


「言わない」


ギルドマスターの問いに、シェイラは、即答した。

それきり、何も付け加えなかった。

ギルドマスターは、しばらく彼女を見下ろしていた。

やがて、ふん、と小さく鼻を鳴らす。


「……S級が自分で決めたことに、口を挟む気はない」


その一言で、話は終わった。

シェイラが森へ向かって歩き出すと、背後で、冒険者たちがひそひそと囁き合い始める。


「おい、聞いたか。手を借りてある、だとよ」


「どこかの街から、腕利きの知り合いでも呼んだんだろ。S級の知り合いなら、A級か、それ以上か……」


「とっくに森の中で待ってるってわけか。さすがだな」


そのときだった。


「――待ってください!」


白銀の鎧の少年が、人垣をかき分けて飛び出してきた。

陽の光を集めたような金髪が、焚き火に照らされて揺れている。

レオンハルトだった。


「手が足りないなら、俺も連れていってください! 剣なら、誰にも負けません!」


シェイラは、足を止めて、振り返った。

紫の瞳が、レオンハルトの頭のてっぺんから、足の先まで、ゆっくりと下りていく。

磨き上げられた、白銀の鎧。

ほんの少し身じろぎするだけで、がちゃ、がちゃ、と留め具が鳴る。


「君は、うるさい」


「…………は?」


「鎧。がちゃがちゃ、鳴る」


それだけ言うと、シェイラは、もう一度背を向けた。

そして――瞬きを、ひとつ。

その間に、銀髪の後ろ姿は、森の闇の中へと溶けて、消えていた。


後には、ぽかんと口を開けたまま固まる、白銀の鎧の少年だけが残された。


「……ぷっ」


どこかで、誰かが吹き出した。

レオンハルトの顔が、焚き火よりも赤くなっていた。


ギルドマスターは、笑わなかった。

ただ、シェイラが消えていった森の闇を、黙って見つめていた。

それから、ふと、何かを思い出したように、天幕の並ぶ陣を見渡した。

集まった冒険者たちの顔を、一人、また一人と、確かめるように。


「……」


けれど、太い指で顎を撫でただけで、何も言わなかった。


◇


石切り場を抜け、裏手の森へ。

沢のせせらぎが近づいてくる頃には、東の空が、うっすらと白み始めていた。

俺は、指先の灯を、ふっと吹き消した。


「……来たね」


すぐ後ろで、声がした。


「――っ」


跳び上がりそうになるのを、どうにか堪える。

振り返ると、苔むした岩の上に、シェイラが立っていた。

朝靄の中で、紫の瞳が、静かに俺たちを見下ろしている。


「やっぱり、こっちだったんですね」


「うん。正面は、人が多い」


シェイラは、ふわりと岩から下りて、俺たちの前に立った。


「中に入ったら、声も、音も、消える。私の【静寂】の中だから」


「……声も?」


ネルが、不安げに狐耳を伏せた。


「うん。合図は、手で」


シェイラは、細い指で、いくつかの形を作ってみせた。

止まれ。進め。下がれ。こっち。危ない。


「それから」


シェイラの声が、少しだけ低くなった。


「糸には、触らないで。音は消せても、糸の震えは、消せない」


あの夜のことを思い出す。

炎を消した泡が、糸に触れて。

そのかすかな震えで、毒牙蜘蛛に、居場所を気づかれた。


「……わかりました」


「行こう」


シェイラが、沢の奥へと、一歩踏み出した。

その瞬間――。


世界から、音が、消えた。



◇


最初は、耳がおかしくなったのかと思った。

さっきまで聞こえていた、沢のせせらぎが、聞こえない。

朝の鳥の声も。風が葉を揺らす音も。

自分の足が、落ち葉を踏んだはずなのに、何の音もしない。


(……なんだ、これ)


自分の呼吸の音すら、聞こえなかった。

心臓が、どくどくと脈打っているのがわかるのに、その音が、どこにもない。

まるで、分厚い綿の中に、頭から沈められたようだった。


隣を見ると、ネルが、両手で狐耳を押さえていた。

琥珀色の瞳が、大きく見開かれている。

口が、何かを言うように動いた。

けれど、声は、聞こえなかった。


(……ネルの耳でも、聞こえないのか)


人間よりずっといい、狐の耳。

小さな足音も、紙の擦れる音も、聞き逃さない耳。

その耳が、今、何ひとつ拾えない。

ネルの尻尾が、怯えたように、きゅっと足の間に巻き込まれていた。


俺は、ネルの肩に、そっと手を置いた。

ネルが、はっとしたように俺を見る。

大丈夫だ、と。

声の代わりに、小さく頷いてみせた。

ネルは、しばらく俺を見つめていたけれど、やがて、こくりと頷き返した。

巻き込まれていた尻尾が、ほんの少しだけ、ほどけた。


前を歩くシェイラが、振り返った。

細い指で、形を作る。


――進め。



◇


森は、奥へ進むほど、暗く、深くなっていった。

木々が密集し、頭上を覆う枝葉が、朝の光を遮っていく。

そして――糸が、増えていった。


最初は、一本、二本。

木の幹から幹へ、細く張られた、白い糸。

それが、奥へ進むにつれて、少しずつ、少しずつ、数を増していく。

足首の高さに。腰の高さに。首の高さに。

まるで、見えない網の目の中を、歩かされているようだった。


(……こんなの、全部避けられるのか?)


薄暗い森の中で、細い糸は、ほとんど見えなかった。

目を凝らしても、葉の影と区別がつかない。

気づかずに触れたら、その震えが、巣の奥へ――。


ぐい、と。

袖が引かれた。

ネルだった。

琥珀色の瞳が、細められている。

針に糸を通すときのような、張りつめた集中の目。

ネルの指が、すっと、前方の何もない空間を指した。


――危ない。


手の形で、そう伝えてくる。

目を凝らすと、そこに、髪の毛ほどの細い糸が、一本、張られていた。

俺には、言われるまで、まったく見えなかった。


(……見えてるんだ。ネルには)


綻びを見る目。

ほんのかすかな糸の一本さえ、見逃さない目。

音が消えても、この目だけは、何も失っていなかった。


ネルが、先頭に立った。

糸をくぐる場所を指し、またぐ場所を指し、身をかがめる場所を指す。

シェイラが、その合図に従って、音もなく糸の間をすり抜けていく。

俺も、息を殺して、その後に続いた。


音を消す、シェイラ。

糸を見つける、ネル。

声のない森の中で、二人の力が、ぴたりと噛み合っていた。



◇


どれくらい進んだだろう。

不意に、先頭のネルが、ぴたりと足を止めた。

シェイラも、同時に止まる。

細い指が、上を指した。


見上げると――。

頭上の太い枝に、それは、逆さに張りついていた。

黒紫の甲殻。赤い斑紋。八つの赤い目。

毒牙蜘蛛だった。

あの夜、俺とネルが三十を数え、ようやく倒した相手。


八つの目が、ぎょろりと、こちらを向いた。

巨体が、枝を蹴る。

音もなく、真上から、降ってくる――。


(――っ!)


俺の指先が、反射的に泡を作りかけた。

けれど、それより早く。


シェイラの姿が、ぶれた。


本当に、それしか見えなかった。

曲刀を抜いた瞬間も。振った瞬間も。

何ひとつ、目に映らなかった。

ただ、シェイラが、いつの間にか一歩前に出ていて。


いつの間にか、曲刀が、鞘に収まっていて。


降ってきた毒牙蜘蛛が、空中で、二つに分かれていた。


ぼとり、と。

二つの塊が、苔の上に落ちる。

音は、しなかった。

落ちた残骸の断面から、黒い体液が、じわりとにじみ出す。

それは、地面の苔に吸い込まれていくだけで、周りの糸には、一滴も飛んでいなかった。


(……斬る角度まで、計算してたのか)


糸に体液が飛べば、その重みで、糸が揺れる。

その震えが、巣に伝わる。

シェイラは、それすら許さないように、斬る向きを選んでいたのだ。

一瞬のうちに。


俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。

あの夜、俺たちが、全力でやっと倒した相手。

それを、この人は、瞬きひとつで。


(……これが、S級)


シェイラは、振り返りもしなかった。

ただ、細い指で、また形を作る。


――進め。


隣で、ネルが、ぽかんと口を開けていた。

尻尾の毛が、全部逆立っていた。


◇


それから、さらに奥へ。

木々が、不意に、途切れた。


その先にあった光景に、俺は、息をするのを忘れた。


巣、だった。


あの夜、沢で見た巣なんかとは、比べものにならない。

何本もの大木が、白い糸に、丸ごと飲み込まれていた。


幹も、枝も、葉も、すべてが分厚い糸に覆われて、まるで真っ白な柱のように立ち並んでいる。


その柱と柱の間に、幾重にも、幾重にも、糸が張り巡らされて。

巨大な、白い天幕を作っていた。


朝の光が、糸の天幕を透かして、ぼんやりと青白く滲んでいる。

まるで、白い大聖堂のようだった。


そして、その天幕の中ほどに。

いくつもの白い塊が、ぶら下がっていた。

獣の形をしたもの。鳥の形をしたもの。

その中に――。


人の形をした繭が、四つ。


(……『鋼の誓い』)


白い糸に、ぐるぐると巻かれて。

宙に吊るされて、ぴくりとも動かない。


そして、巣の一番奥の、暗がり。

糸の天幕の、さらに向こう側で。

何か、とてつもなく巨大なものが、ゆっくりと、上下していた。

まるで、眠りながら、呼吸をするように。

膨らんで。縮んで。また、膨らんで。

そのたびに、巣全体の糸が、かすかに、たわむ。


――アラクネ・クイーン。


背筋を、冷たいものが這い上がった。

ネルの手が、俺の袖を、ぎゅっと握りしめる。

その指が、震えていた。


シェイラは、何も言わなかった。

音のない世界で、紫の瞳だけが、静かに、巣の奥の暗がりを見据えていた。


そのとき。


四つの繭のうちの、一つが。

ほんのかすかに、ぴくり、と動いた。


(――生きてる)


俺は、拳を、強く握りしめた。




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