取引
夜の石切り場は、昼間とはまるで別の場所だった。
切り立った岩肌が、月明かりを白く跳ね返している。
四角く切り出された岩の塊が、あちこちに、墓標のような影を落としていた。
崖の湧き水が池に落ちる、ちょろちょろという音だけが、やけに大きく聞こえる。
「ほんとに、いるのかしら」
隣で、ネルが小声で呟いた。
狐耳が、さっきから落ち着きなく、あちこちへ向きを変えている。
「足音も、息の音も、何にも聞こえないんだけど」
「あの人の周りは、音がしないからな」
言いながら、俺も、石切り場の底をぐるりと見渡した。
池のほとり。崖の下。切り出された岩の陰。
どこにも、人影は――。
「こっち」
声は、頭の上から降ってきた。
「――っ!?」
二人して、弾かれたように見上げる。
石切り場の真ん中に、ひときわ大きな、四角い岩が転がっていた。
その上に、銀髪のダークエルフが、膝を抱えるようにして、ちょこんと腰かけていた。
膝の上には、見覚えのある紙袋。
月明かりの中で、紫の瞳が、静かに俺たちを見下ろしている。
S級冒険者、シェイラ。
ギルドのホールで、何度も耳にした名前だった。
けれど、その名前を胸の中で呼びながら、こうして真正面から向き合うのは、初めてだった。
「……来てくれたね」
シェイラは、紙袋の中から、焼き菓子を一つ取り出した。
それを、ネルのほうへ、すっと差し出す。
「食べる?」
「い、いらない!」
ネルは、ぷいっとそっぽを向いた。
けれど、その尻尾は、焼き菓子のほうへ、ゆらりと揺れていた。
「……そう」
シェイラは、少しだけ残念そうに、その焼き菓子を自分でかじった。
さく、という小さな音が、夜の石切り場に、やけに大きく響いた。
◇
「……それで」
俺は、岩の下から、シェイラを見上げた。
「話って、なんですか」
シェイラは、焼き菓子を食べ終えると、指先についた粉を丁寧に払った。
それから、ふわりと、音もなく岩から飛び降りる。
俺たちの目の前に、すとん、と着地した。
足音は、やはり、しなかった。
「確かめたいことが、あった」
紫の瞳が、まっすぐに俺を見た。
そして、淡々と、指を折り始めた。
「交易町ルクスの、街道。外に傷ひとつないのに、内側から焼かれた熊」
一本。
「君がギルドに登録したのは、その熊が見つかった、すぐあと。ルクスから、王都へ来た」
二本。
「東の沢の、焦げた糸。燃え広がった火が、きれいに、丸く止まってた」
三本。
「その丸い焦げ跡に、張りついてた。七色に光る、薄い膜。触ったら、ぱちんって弾けて、指が濡れた」
四本。
「毒牙蜘蛛の、切り口。斬った跡じゃない。縫い目を、ほどいたみたいだった」
五本。
片手の指が、全部、折られた。
シェイラは、もう片方の手に移る。
「ギルドの記録。【泡生成】」
六本。
「食堂の、スープの鍋。指が、動きかけた。……それを、隠すみたいに、手で止めた」
七本。
「それから」
シェイラの視線が、すっと、俺の隣へ移った。
「狐の子の、正直な尻尾」
八本。
「……っ!」
ネルが、慌てて両手で尻尾を押さえ込んだ。
けれど、押さえた指の隙間から、もう、ふさふさの毛が膨らみ始めていた。
シェイラは、折った指をゆっくりとほどいた。
そして、静かに、言った。
「二人、いる。火を止めた子と、ほどいた子」
紫の瞳が、俺と、ネルを、順番に見る。
「……君たちでしょ」
夜の石切り場が、しんと静まり返った。
湧き水の音だけが、遠くで鳴り続けている。
心臓が、うるさいほど鳴っていた。
全部、見られていた。
全部、繋がっていた。
ギルドの誰も気づかなかったことを、この人は、たった一人で、ここまで辿ってきたのだ。
それでも。
「…偶然ですよ」
俺は、自分でも驚くほど、静かな声で答えていた。
「全部、偶然です。俺は、ロウソク以下の火しか出せない、チビ種火で。ネルは、荷物持ちの狐で。……それだけです」
「嘘」
即答だった。
「顔に書いてある」
「それでも、偶然です」
俺は、一歩も引かなかった。
ここで認めたら、終わりだ。
この力が知られたら、国に、貴族に、どこかの誰かに、いいように使われる。
父さんと母さんが教えてくれた、自由な生き方も。
未開の地へ行くという、夢も。
ネルの、あの力も。
全部、誰かのものにされてしまう。
だから、認めない。
たとえ、相手がS級でも。
シェイラは、しばらく、黙って俺を見つめていた。
責めるような目では、なかった。
ただ、静かに、何かを確かめるような目だった。
やがて、シェイラは、ふっと視線を外した。
「……いいよ。認めなくて」
「……え?」
「認めさせに来たんじゃ、ない」
シェイラは、池のほとりへ、ゆっくりと歩いていった。
月明かりが、水面に、白く揺れている。
その背中が、ぽつりと言った。
「森の奥に、繭が四つある。たぶん、まだ、生きてる」
「……」
「燃やせない。壊せない。音を立てたら、女王が起きる」
シェイラは、振り返らなかった。
「繭の糸を、静かに止めて。中の人を傷つけないように、ほどいて。……それを、全部やらなきゃいけない」
「S級なんだから、一人でも――」
「私は、強すぎる」
淡々とした声だった。
けれど、どこか、自嘲するような響きがあった。
「私が本気で剣を振れば、巣ごと斬れる。でも、繭の中の人も、一緒に斬れる。魔法を使えば、森ごと吹き飛ぶ。……守りたいものまで、壊してしまう」
シェイラは、水面に映る月を、じっと見下ろしていた。
「昔、仲間がいた」
小さな、小さな声だった。
「みんな、帰ってこなかった。私だけ、生きて戻った」
風が、池の水面を、さざ波立たせた。
月の影が、ゆらゆらと崩れていく。
「……もう、誰も、置いていきたくない」
その一言だけ。
ずっと平らだった声が、ほんのかすかに、揺れた気がした。
俺も、ネルも、何も言えなかった。
石切り場に、湧き水の音だけが響いている。
◇
やがて、シェイラは、こちらに向き直った。
もう、いつもの、無表情に戻っていた。
「だから、取引」
紫の瞳が、まっすぐに俺を見る。
「隠すのは、手伝う。代わりに、手を貸して」
「……隠すのを、手伝う?」
「巣の中で見たことは、誰にも言わない。女王を倒したのも、繭をほどいたのも、全部、私がやったことにする。本隊は、森の外から動かさない。……誰にも、見せない」
一つひとつ、確かめるように、条件を並べていく。
俺は、思わず聞き返していた。
「……なんで、そこまで」
「なにが」
「なんで、俺たちが隠したいことまで、手伝ってくれるんですか。S級なら、無理やり連れていくことだって――」
「隠したいんでしょ」
シェイラは、首を傾げた。
「顔に、書いてある」
「……」
それから、ほんの少しだけ、間を置いて。
シェイラは、視線を、夜空へと逸らした。
「……目立つのは、面倒」
ぽつりと、そう言った。
「私も、そう」
足音も、息の音も、剣を抜く音さえも消して。
誰にも気づかれないように、静かに、一人で生きてきた人。
『無音』。
その呼び名の意味が、少しだけ、わかった気がした。
◇
俺は、隣を見た。
ネルが、俺を見上げていた。
尻尾は、もう膨らんでいなかった。
ただ、琥珀色の瞳が、まっすぐに、俺の答えを待っていた。
「ネル」
「見つけちゃったんでしょ」
ネルが、小さな声で言った。
「あたしたちが。……森の奥に、繭があるって」
あの夜、ギルドのカウンターで。
ばあちゃんの言葉を思い出しながら、ネルが言った言葉。
綻びは、見つけたら、すぐに繕え。
ほっといたら、広がるだけだから。
「……そうだな」
俺は、深く、長い息を吐いた。
それから、シェイラのほうへ、向き直る。
「……俺たちは、ただの道案内です」
シェイラの瞳が、わずかに細められた。
「石切り場から、沢までの道を知ってるから。巣の近くまで、案内するだけです。……それだけです」
認めては、いない。
何ひとつ。
でも――行く。
シェイラは、しばらく黙って俺を見つめていた。
それから、小さく、頷いた。
「……うん。それでいい」
「あたしも行く」
ネルが、一歩前に出た。
狐耳を、ぴんと立てて。
「リトの、相棒だから」
シェイラは、ネルを見下ろして、ほんの少しだけ、口元をゆるめた。
「知ってる」
◇
話が終わると、シェイラは、膝の上に置いていた紙袋を、ひょいと持ち上げた。
そして、何の前触れもなく、ネルのほうへ、ぽいっと放った。
「わっ、ちょ……!?」
ネルが、慌てて両手で受け止める。
紙袋の中から、ふわりと、甘い蜂蜜の香りが立ちのぼった。
中には、焼き菓子が二つ。
あの日、最後の一つを取り合った、限定の蜂蜜焼き菓子だった。
「この前の、お礼」
「お、お礼って……」
ネルは、紙袋の中身と、シェイラの顔を、交互に見比べた。
それから、疑わしげに眉を寄せる。
「……ど、毒とか、入ってないでしょうね」
「入ってない」
シェイラは、首を傾げて、言った。
「……美味しいよ」
ネルは、しばらく紙袋を睨みつけていた。
それから、恐る恐る、焼き菓子を一つ取り出して、小さくかじる。
さく、と。
「…………」
琥珀色の瞳が、まんまるに見開かれた。
「…美味しい」
ぽつりと、ネルが呟いた。
その背中で、赤茶の尻尾が、ぱたぱたと、元気よく揺れ始めていた。
「……でしょ」
シェイラの声が、ほんの少しだけ、やわらかくなった。
「もう一つは、リトの分」
「え、俺のも?」
「うん。……二人とも、細いから」
それだけ言うと、シェイラは、くるりと背を向けた。
「明日。夜明け前。森の入り口で」
月明かりの中で、銀の髪が、ふわりと揺れて。
瞬きを、ひとつ。
その間に、彼女の姿は、石切り場のどこにもなくなっていた。
◇
「…………」
「…………」
しばらく、二人とも、黙っていた。
湧き水の音が、ちょろちょろと、夜の石切り場に響いている。
「あの人、思ってたより、悪い人じゃないかも」
焼き菓子をもぐもぐと頬張りながら、ネルが、ぼそりと言った。
「焼き菓子もらったからだろ」
「ち、違うわよ! そ、それだけじゃ、ないし……!」
真っ赤になったネルの隣で、俺は、紙袋に残った、もう一つの焼き菓子を取り出した。
かじってみる。
蜂蜜の甘さが、口いっぱいに広がった。
……確かに、美味しかった。
夜空を見上げる。
雲の切れ間から、月が、静かにこちらを見下ろしていた。
目立ちたくない。
誰にも、この力を知られたくない。
そのために、ずっと隠してきた。
そして明日、俺は、この国で一番目立つ人と一緒に、この国で一番危ない場所へ行く。
(……矛盾だらけだな、俺の人生)
蜂蜜の甘さが、まだ、口の中に残っていた。




