戻らない調査隊
ホールのざわめきは、昼が近づいても、まったく収まる気配がなかった。
「『鋼の誓い』だろ? あいつら、Bランクの中でも指折りだぞ」
「リーダーの斧使い、オーガを一人で仕留めたって話だ。そんな連中が、三日も……」
「森の奥に、何がいるってんだよ……」
あちこちで交わされる声は、どれも低く、どこか怯えていた。
いつもなら俺を見つけるなり「チビ種火!」と笑いかけてくる冒険者たちも、今日ばかりは、誰もこちらを見ていなかった。
東の森の調査に出たのは、Bランクパーティ『鋼の誓い』の四人。
アラクネ・クイーンの巣の、外縁を探るためだった。
出発してから、もう六日。
三日で戻るはずだったのに、誰一人、帰ってこない。
「……リト」
隣で、ネルが小さく俺の袖を引いた。
その尻尾は、膨らんでいるのではなく、力なく、だらりと垂れ下がっていた。
「あの沢の、繭。覚えてる?」
「ああ」
忘れるはずがなかった。
ぐるぐると糸に巻かれて、宙に吊るされていた、『銀の猟犬』の盾役と弓使い。
あと少し遅れていたら、あの二人は――。
そのときだった。
ギィ、と。
ホールの奥の、大階段の上で、扉が開く音がした。
ざわめきが、ぴたりと止まる。
ゆっくりと、重い足音が、階段を下りてくる。
一段、一段。
そのたびに、古い木の階段が、軋んだ。
現れたのは、岩を削り出したような、強面の大男だった。
太い腕。分厚い胸板。
顔には、いくつもの古い傷跡が刻まれている。
いつもは二階の回廊から、黙ってホールを見下ろしているだけの人。
「ギルドマスターだ」
誰かが、息を呑むように呟いた。
この人がホールまで下りてくるのを、俺は、初めて見た。
大男は、ホールの真ん中まで歩み出ると、ゆっくりと周囲を見渡した。
それだけで、ホールの空気が、ずしりと重くなった。
「――聞け」
低く、腹の底に響くような声だった。
「東の森の奥に、アラクネ・クイーンが巣を張っている。調査に出た『鋼の誓い』が、予定を過ぎても戻らん」
誰も、口を開かなかった。
「これ以上、放ってはおけん。討伐隊を組む」
ギルドマスターは、太い指で、ホールの冒険者たちを順に指していった。
「動けるAランクのパーティは、全員。Bランク以下も、手の空いている者は後詰めに回れ。数で巣を囲み――」
一拍。
「――巣ごと、焼き払う」
おお、と、ホールにどよめきが走った。
数で押し、火で焼く。
いかにも冒険者らしい、力強い作戦だった。
あちこちで、拳を握りしめる者がいる。武器の柄に手をかける者がいる。
けれど、俺の背中には、冷たい汗が流れていた。
(……焼いたら、だめだ)
あの夜の光景が、まぶたの裏によみがえる。
魔法使いが放った火の玉。
糸を伝って、一瞬で燃え広がった炎。
その先に吊るされていた、繭。
――あと、腕一本分のところだった。
(もし、『鋼の誓い』が、まだ生きているなら)
そのときだった。
「……それ、だめ」
静かな声が、ホールに落ちた。
大きな声ではなかった。
それなのに、ホールの誰もが、一斉に振り返った。
人垣が、音もなく割れる。
その真ん中を、銀髪のダークエルフが、ゆっくりと歩いてきた。
足音は、やはり、しなかった。
「『無音』……!」
「S級の、シェイラだ……」
ざわめきの中、女は、ギルドマスターの正面で足を止めた。
見上げるほどの大男を前にしても、その表情は、少しも変わらなかった。
「……シェイラ。何が、だめだ」
ギルドマスターが、低く問う。
「調査隊は、たぶん、まだ生きてる」
女は、淡々と言った。
「蜘蛛は、獲物をすぐには食べない。糸で巻いて、繭にして、とっておく」
ホールが、しんと静まり返った。
「大勢で行けば、気づかれる。気づかれたら、繭の中の人たちから、先に食べられる」
紫の瞳が、まっすぐにギルドマスターを見上げる。
「焼けば、繭ごと燃える。……全部、死ぬ」
淡々とした声だった。
けれど、その言葉の一つひとつが、ホールの冒険者たちの胸に、重く沈んでいくのがわかった。
さっきまで拳を握りしめていた者たちが、顔を見合わせている。
(……その通りだ)
俺は、心の中で、強く頷いていた。
火は、だめなんだ。
あの夜、それを、この目で見た。
ギルドマスターは、しばらく黙って、女を見下ろしていた。
やがて、太い腕を組む。
「……なら、どうする」
「少人数で、静かに入る」
女は、少しも迷わずに答えた。
「繭を、ひとつずつほどく。全員、外に出してから、女王を討つ」
「お前一人でか」
「……一人じゃ、足りない」
ほんの、一瞬だった。
紫の瞳が、ギルドマスターから外れて、ホールの人垣の中を、すっとかすめた。
俺のいるほうへ。
俺と、ネルのいるほうへ。
瞬きよりも、短い時間。
周りの誰も、気づいていなかった。
けれど、俺には、わかった。
今、確かに、目が合った。
(――っ)
背筋が、凍りついた。
隣で、ネルが、俺の袖をぎゅっと握りしめる。
その尻尾が、また、ぶわりと膨らみかけていた。
「……一人じゃ足りん、か」
ギルドマスターが、低く唸った。
S級が、自分の口から、そう言ったのだ。
ホールの空気が、さらに重くなる。
「……いいだろう」
やがて、ギルドマスターは、組んでいた腕をほどいた。
「巣への突入は、シェイラに任せる。人選も、お前に任せる。本隊は森の外で待機し、後詰めに回れ。何かあれば、すぐに突入できるようにしておけ」
「……うん」
女が、小さく頷いた。
「――ギルドマスター!」
張りのある声が、ホールに響いた。
人垣をかき分けて、白銀の鎧の少年が、前に進み出る。
レオンハルトだった。
「俺も、行かせてください! 巣の中へ!」
ギルドマスターは、じろりとレオンハルトを見下ろした。
「……ヴァイスベルクの三男坊か。Eランクだったな」
「ランクは関係ありません! 剣なら、誰にも負けません!」
「剣の腕は、聞いている」
ギルドマスターは、静かに首を振った。
「だが、巣の中は、剣の腕だけでどうにかなる場所じゃない。お前は後詰めだ。森の外で、溢れてくる魔物を斬れ」
「……っ」
レオンハルトは、悔しそうに唇を噛んだ。
それでも、それ以上は食い下がらずに、一礼して下がった。
その青い瞳が、一瞬だけ、俺のほうを向いた気がした。
「……後詰め、俺たちも、出ます」
今度は、低い声だった。
ホールの隅のテーブルから、四人の男たちが立ち上がっていた。
『銀の猟犬』だった。
ガロが、まっすぐにギルドマスターを見ている。
「毒牙蜘蛛とは、一度やり合ってる。……役には、立てるはずだ」
ホールが、どよめいた。
Cランクを倒した、英雄の名乗り。
周りの冒険者たちには、そう見えたのだろう。
けれど、俺には、わかった。
ガロの目は、英雄の目じゃなかった。
借りを、返そうとしている男の目だった。
「……いいだろう。後詰めに入れ」
ギルドマスターが頷く。
そして、ホールじゅうを見渡して、もう一度、低く言った。
「準備ができ次第、出る。――以上だ」
◇
ギルドを出て、眠り羊亭へ戻る帰り道。
夕暮れの路地を歩きながら、ネルが、ぽつりと言った。
「……あの人、こっち見てたわよね」
「……見てたな」
「……一人じゃ足りないって言ったとき」
「……ああ」
それ以上、言葉が続かなかった。
二人とも、わかっていた。
あの視線の意味を。
一人じゃ、足りない。
繭を、ひとつずつ、ほどかなきゃいけない。
燃やさずに。音も立てずに。中の人を傷つけずに。
――凍らせて、ほどく。
それができるのが、誰なのか。
あの人は、たぶん、もう気づいている。
「……リト」
ネルが、足を止めた。
夕日に照らされた横顔が、俺を見上げている。
「あんた、どうするの」
「……わからない」
正直な、答えだった。
目立ちたくない。
誰にも、この力を知られたくない。
S級と一緒に、Aランクの怪物の巣に入るなんて――それこそ、一番目立つ場所に、自分から飛び込むようなものだ。
でも。
あの夜、沢で助け出した、盾役の大男の顔が浮かぶ。
糸の繭から引きずり出したとき、かすかに開いた目。
まだ、生きていた目。
今、森の奥には、同じ繭が、四つぶら下がっている。
「……わからないんだ、ネル」
ネルは、何も言わなかった。
ただ、俺の外套の裾を、ぎゅっと握って、黙って隣を歩いてくれた。
◇
眠り羊亭の部屋に戻った頃には、外はもう、すっかり暗くなっていた。
ランプに火を入れようとして――俺は、手を止めた。
窓枠に、何かが挟まっていた。
くしゃりと丸められた、薄い紙。
広げてみると、それは、あの菓子屋の焼き菓子の包み紙だった。
ほんのりと、蜂蜜の甘い匂いが残っている。
その裏に、細い字で、一行だけ。
『今夜。石切り場で』
「…………」
俺は、包み紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
石切り場。
ネルと二人で、こっそり稽古をしていた場所。
誰も知らないはずの、俺たちだけの場所。
(……あそこまで、知られてたのか)
背中に、冷たい汗が伝う。
薄い壁の向こうから、ネルの声が聞こえた。
「リト。今の、何?」
紙の擦れる音すら、狐の耳は聞き逃さないらしい。
俺は、深く、長い息を吐いた。
「ネル。出かけよう」
窓の外では、月が、雲の切れ間から、静かに顔を出していた。




