どこにでもいる
あの人の「また来る」は、どうやら、言葉通りの意味だったらしい。
◇
翌朝。
ギルド本部の掲示板の前で、俺はいつものように、Fランクの欄の依頼書を眺めていた。
「ホーンラビットの駆除は、もう取られちゃったか。じゃあ、こっちの――」
「それより、こっちのほうがいい」
すぐ耳元で、静かな声がした。
「うわああっ!?」
俺は、文字通り跳び上がった。
振り返ると、真後ろに、銀髪のダークエルフが立っていた。
紫の瞳で、俺の肩越しに、掲示板をじっと覗き込んでいる。
「い、いつから、そこに……!?」
「さっきから」
足音は、やっぱりしなかった。
周りの冒険者たちが、ぎょっとした顔でこちらを見ている。
『無音』のS級が、なぜかチビ種火の真後ろに立っている――そんな光景に、ホールじゅうが静まり返っていた。
「…な、なんで、ここに……?」
「依頼、見に来た」
「S級の依頼は、あっちですけど……」
「知ってる」
それきり、女は何も言わずに、俺の後ろから掲示板を眺め続けていた。
隣で、ネルの尻尾が、ぱんぱんに膨らんでいた。
◇
その日の昼。
眠り羊亭の食堂で、遅めの昼食に麦粥をすすっていると、女将さんが、上機嫌で俺たちのテーブルにやってきた。
「あんたたち、いいお友達ができたじゃないか。あんなに綺麗なお嬢さんが、うちの麦粥を三杯もおかわりしてくれるなんてねぇ」
「……お友達?」
嫌な予感がして、顔を上げる。
向かいの席に、いつの間にか、銀髪のダークエルフが座っていた。
大盛りの麦粥を、木の匙で、静かに口に運んでいる。
「…………」
「…………」
「……うん。美味しい」
女は、女将さんに向かって、ほんの少しだけ声をやわらげた。
女将さんは「あらまあ、嬉しいねぇ!」と、大喜びで四杯目をよそいに戻っていく。
「あんた、なんでここにいんのよ!」
ネルが、匙を握りしめたまま、低い声で唸った。
尻尾は、もう倍の太さだ。
「お腹、すいたから」
「王都に食堂なんていくらでもあるでしょ!?」
「ここの麦粥、美味しい」
「理由になってない!」
女は、ネルの剣幕などまるで気にせず、四杯目の麦粥を受け取って、また静かに匙を動かし始めた。
俺は、黙って自分の麦粥を見下ろした。
……味が、まったくしなかった。
◇
午後の依頼は、王都の北の農村からの、ちょっとした頼みごとだった。
『逃げ出した疾走鳥の捕獲。報酬:大銅貨六枚』
疾走鳥は、飛べない代わりに、足が異常に速い大きな鳥だ。
農家で卵を産ませるために飼われていたのが、柵を壊して逃げ出したらしい。
「…いつもなら、楽な依頼なんだけどな」
畑の真ん中を、ものすごい速さで駆け回る疾走鳥を眺めながら、俺はぼそりと呟いた。
いつもなら、足元にスリップバブルを敷いて、すっ転んだところを捕まえれば、それで終わりだ。
けれど――。
ちらりと、畑の柵のほうを見る。
柵の上に、銀髪のダークエルフが、ちょこんと腰かけていた。
膝の上で頬杖をついて、紫の瞳で、じっとこちらを見ている。
「…見てるわね」
「…見てるな」
あの人の前で、泡は使えない。
ネルの【綻び】も、もちろん使えない。
つまり。
「…普通に、追いかけるしかない」
「…最悪」
それから半刻。
俺とネルは、畑じゅうを走り回った。
疾走鳥は、本当に速かった。
追いかければ逃げられ、回り込めば跳び越えられ、ようやく追い詰めたと思ったら、蹴り飛ばされた。
「ぐえっ!」
腹に、鳥の足がめり込む。
地味に、痛い。
ネルも、何度も泥の中に転がっていた。
「こ、このっ……! 大人しく、捕まりなさいよ……っ!」
「ギョエエエッ!」
「鳴き声までムカつくぅぅ!」
最後は、二人がかりで畑の隅に追い詰め、俺が飛びついて、ネルが上から外套をかぶせて、ようやく取り押さえた。
二人とも、頭のてっぺんから足の先まで、泥だらけだった。
「はぁ、はぁ……つ、捕まえた……」
「あたし、もう、一歩も動けない……」
ぜえぜえと息を切らせる俺たちの頭上から、静かな声が降ってきた。
「……手伝う?」
柵の上から、女が、首を傾げてこちらを見下ろしていた。
「「いりません!!」」
二人の声が、きれいに重なった。
◇
泥を落とし、依頼主の農家に疾走鳥を引き渡したあと。
帰り道の畦道で、女が、すっと俺の前に立った。
「リト」
「……な、なんですか」
「【泡生成】」
心臓が、跳ねた。
「君のスキル。ギルドの記録で、見た」
女は、何も言わずに、俺の手首をひょいと掴んだ。
細い指なのに、振りほどけないほど、しっかりとした力だった。
そのまま、俺の手を持ち上げて、指先を、じっと見つめる。
「……泡。この指から、出るんでしょ」
「出ますけど。ただの、シャボン玉みたいなものですよ」
「ふうん」
紫の瞳が、俺の指の一本一本を、確かめるように辿っていく。
まるで、あの夜の沢に残った何かと、同じものを探しているみたいに。
「――ちょっと!!」
横から、ネルが割り込んできた。
俺の手首を掴む女の手を、ぐいっと引き剥がす。
「触んないでよ!」
女は、きょとんとした顔で、ネルを見下ろした。
「……どうして?」
「ど、どうしてって……っ」
ネルは、一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、尻尾を逆立てたまま、叫ぶように言い放つ。
「あ、あたしの相棒だからよ!!」
畦道に、ネルの声が響き渡った。
言い終えてから、ネルは、はっとしたように口をつぐんだ。
狐耳の先から、みるみるうちに、真っ赤に染まっていく。
「……ふうん」
女は、首を傾げたまま、ネルと俺を見比べた。
それ以上は、何も言わなかった。
ただ、その口元が、ほんのかすかに、ゆるんだように見えた。
「…………」
「…………」
俺も、ネルも、しばらく、何も言えなかった。
◇
その日の夕方。
眠り羊亭の食堂は、仕事帰りの客で賑わっていた。
もちろん、向かいの席には、今日も銀髪のダークエルフが座っている。
もう、驚く気力も残っていなかった。
「はいはい、熱いから気をつけてねぇ!」
女将さんが、湯気の立つスープの大鍋を両手で抱えて、テーブルの間を運んでくる。
その足が、床の段差に、つまずいた。
「あっ――」
大鍋が、傾いた。
煮え立ったスープが、鍋の縁から、ネルの背中のほうへ――。
(――ッ!)
指先が、勝手に動いた。
魔力が、指の先に集まる。
泡で包めば。鍋ごと、受け止めれば――。
(――ダメだ!)
寸前で、指を握り込んだ。
代わりに、手を伸ばした。
傾いた鍋の縁を、素手で、がしっと押さえ込む。
「っ、つ……!」
熱い。
手のひらが、じゅっと焼けるような痛みに包まれた。
それでも、鍋は止まった。
スープは、一滴も、ネルにかからなかった。
「あらやだ、ごめんよぉ! 坊や、大丈夫かい!?」
「だ、大丈夫です……ちょっと、熱かっただけで……」
女将さんが、慌てて鍋を引き取っていく。
ネルが、振り返って、俺の手を見た。
「ちょっと、リト! 手、真っ赤じゃない! 見せなさいよ!」
「平気だって。ちょっとだけ――」
「平気じゃないでしょ、バカ!」
ネルは、俺の手をひったくると、水差しの水で冷やした布を、手のひらにぎゅっと押し当てた。
ひんやりとして、気持ちよかった。
その間、ずっと。
向かいの席から、紫の瞳が、俺を見ていた。
誰も気づかなかった。
女将さんも、周りの客も、ネルでさえも。
けれど、その人だけは、見ていた。
「……今、指が動いた」
小さな、小さな声だった。
俺は、布を押し当てられた手を、ぎゅっと握りしめた。
何も、答えられなかった。
◇
それから、数日。
あの人は、本当に、どこにでもいた。
朝のギルドにも。昼の食堂にも。依頼先の草原にも。
いつも少し離れた場所から、何も言わずに、じっと俺を見ている。
そんなある日の昼下がり。
市場からの帰り道で、ネルが、ぴたりと足を止めた。
狐耳が、ぴくぴくと、路地のほうへ向いている。
「……リト。あっちの路地。誰か、二人いる」
「二人?」
ネルは、しばらく耳を澄ませていた。
それから、なんとも言えない顔で、こちらを振り返った。
「剣聖の坊ちゃんと、あの人。並んで、あんたのこと見張ってる」
「…………は?」
そっと、路地の角を覗き込む。
建物の陰に、白銀の鎧と、黒い軽装が、ぴったりと並んでしゃがみ込んでいた。
レオンハルトと、銀髪のダークエルフ。
二人とも、まったく同じ姿勢で、俺たちのいたほうをじっと見つめている。
ネルの耳が、その会話を、ひそひそと拾い上げてくれた。
『――なっ、む、『無音』!? な、なぜ、ここに……!?』
『……君も、あの子を見てるの?』
『べ、別に、見てなど……! た、たまたま、ここを通りかかっただけだ!』
『……ふうん』
『そ、そっちこそ、なぜS級がFランクの――』
『興味、ない』
『……は?』
『君には、興味ない』
ネルが、そこまで伝えて、口元を押さえた。
肩が、小刻みに震えている。
路地の陰では、銀髪の人影が、すっと立ち上がって、音もなく消えていくところだった。
残された白銀の鎧が、ぽつんと、呆然としゃがみ込んでいる。
「……剣聖…かわいそうに」
ネルが、笑いを堪えながら呟いた。
俺は、少しだけ、レオンハルトに同情した。
◇
その夜。
泥のように疲れきって、眠り羊亭の部屋に戻った俺は、ふと、窓の外に目をやった。
向かいの建物の屋根の上。
月明かりの下に、銀髪の人影が、腰を下ろしていた。
膝の上の紙袋から焼き菓子を取り出して、さく、さく、とかじっている。
「…………」
俺は、無言で、カーテンを閉めた。
薄い壁の向こうから、ネルの声が聞こえてきた。
「……まだ、いる?」
「……いる…」
「……寝れない」
「……俺も」
壁越しに、二人分の、深い溜息が重なった。
◇
翌朝。
寝不足の目をこすりながら、ギルド本部の扉を押し開けた瞬間――ホールの空気が、いつもと違うことに気づいた。
ざわついている。
けれど、いつもの騒がしさとは違う。
誰もが、低い声で、不安そうに囁き合っていた。
「……リトさん! ネルさん!」
受付から、ミリアさんが駆け寄ってきた。
いつもの明るい笑顔は、どこにもなかった。
そばかすの浮いた頬から、血の気が引いている。
「どうしたんですか、ミリアさん」
「東の森へ、調査に出ていたパーティがいるんです。Bランクの、腕利きの人たちで……」
ミリアさんは、震える声で、続けた。
「その人たちが――予定を三日過ぎても、戻ってこないんです」
ホールのざわめきが、一瞬、遠くなった気がした。
東の森の、奥。
あの夜、闇の向こうから響いてきた、何か巨大なものが、糸を揺らす音。
――アラクネ・クイーン。
俺は、無意識のうちに、まだ少しだけひりつく手のひらを、握りしめていた。




