↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/100

焼き菓子と、無音の人


夜明け前の王都は、吐く息が白くなるほど冷えていた。


「……ねむい」


「我慢しなさいよ。限定なのよ、限定」


まだ空が群青色のうちに叩き起こされて、俺はネルに引きずられるようにして、大通りの菓子屋の前に立っていた。

店の扉は、まだ固く閉ざされている。

なのに、その前には、もう十人ほどの列ができていた。


眠そうな顔の主婦。使いに出されたらしい、どこかの屋敷の小間使い。腕を組んで仁王立ちしている、恰幅のいいおじさん。


「……みんな、本気だな」


「当たり前でしょ。ここの蜂蜜焼き菓子、普段は貴族のお屋敷にしか卸してないんだから。街の人が買えるのは、限定の日だけなの」


ネルは、そう言って胸を張った。

赤茶の尻尾が、待ちきれないとばかりに、ぶんぶんと左右に揺れている。

俺は、昨日ネルに巻いてもらった灰色の襟巻きに、鼻先まで顔を埋めた。

ちくちくするけれど、確かに温かい。


「……それ、ちゃんと巻いてるのね」


「ん? ああ。あったかいよ、これ」


「……ふーん」


ネルは、ぷいっと前を向いた。

尻尾の振れ幅が、さっきよりも少しだけ大きくなっていた。


◇


空が白み始めた頃。

ふと、背中に、ひやりとしたものを感じた。

寒さのせいじゃない。

もっと、こう――首筋の産毛が、一本残らず逆立つような。


(…なんだ?)


振り返る。

俺とネルの、すぐ後ろ。

いつの間にか、一人の女が、列に並んでいた。


褐色の肌に、腰まで届く銀の髪。

尖った長い耳。黒を基調にした軽装に、腰には細身の曲刀。

切れ長の紫の瞳が、まっすぐに、店の扉を見つめている。


(――っ)


心臓が、どくんと跳ねた。

足音は、しなかった。

気配も、まったくなかった。

すぐ後ろに立たれるまで、俺は、何ひとつ気づけなかったのだ。


「え、ちょ、ちょっと、リト……」


ネルが、俺の袖をぎゅっと掴んだ。

その尻尾が、見る見るうちに、倍の太さに膨らんでいく。


「あ、あれ……『無音』じゃないの……?」


ひそひそと、列の前のほうからも声が上がり始めた。


「おい、見ろよ……S級の……」


「なんで、菓子屋に……?」


並んでいた人たちが、ざわざわと振り返っては、慌てて目を逸らしていく。

けれど、当の本人は、そんな視線などまるで気にしていないようだった。

ただ、静かに、店の扉が開くのを待っている。


(ギルドで、すれ違った人だ)


あの日の寒気が、背骨によみがえる。

父さんの木剣と同じ、あの眼光。

そして――一瞬だけ、俺の腰のナイフに止まった、紫の瞳。

俺は、無意識のうちに、布を巻いたナイフの柄を、外套の陰に隠していた。


◇


がちゃり、と鍵の外れる音がして、菓子屋の扉が開いた。

甘い蜂蜜と、焼きたての生地の香りが、ぶわっと通りにあふれ出す。


「お待たせいたしました! 限定の蜂蜜焼き菓子、お一人様おひとつ限りです!」


列が、ゆっくりと前に進んでいく。

一人、また一人と、紙に包まれた焼き菓子を受け取っては、嬉しそうに帰っていく。

そして、俺たちの番が来たとき。

店主の前の木の盆には――焼き菓子が、ちょうどひとつだけ、残っていた。


「あっ、最後のひとつ……!」


ネルの目が、きらりと輝いた。

小さな手が、盆の上の焼き菓子へと伸びる。

その指先が、焼き菓子に触れた、その瞬間。


――すっ。


横から、もう一本の手が伸びてきた。

褐色の、細く長い指。

その指先が、ネルとまったく同じ焼き菓子を、ちょこんとつまんでいた。


「…………」

「…………」


ネルと、銀髪の女が、焼き菓子をつまんだまま、無言で見つめ合う。

店主の笑顔が、ぴしりと凍りついた。


「それ、ちょうだい」


先に口を開いたのは、女のほうだった。

抑揚のない、静かな声。

まるで、明日の天気でも尋ねるような調子だった。


「はぁ!?」


ネルの尻尾が、さらにぶわっと膨らんだ。

相手がS級だということも、一瞬で頭から吹き飛んだらしい。


「な、何言ってんのよ! あたしが先でしょ! 見てたでしょ、あたしが先に掴んだの!」


「……うん。君が先」


女は、あっさりと頷いた。


「でも、ちょうだい」


「話、聞いてた!?」


まったく悪びれていない。

意地悪をしているわけでも、威張っているわけでもない。

ただ、欲しいから、欲しいと言っている。

それだけの顔だった。


「あ、あの、お客様……っ」


店主が、おろおろと両手を揉み合わせている。

S級冒険者と、狐の獣人の少女。

どちらの機嫌も損ねたくない、という顔がありありと浮かんでいた。

すると、女は、空いているほうの手を懐に入れた。

取り出したのは――一枚の、銀貨だった。


「これと、交換」


焼き菓子ひとつの値段は、大銅貨一枚。

銀貨なら、その十倍だ。


「――っ」


ネルの動きが、止まった。

琥珀色の瞳が、焼き菓子と、銀貨を、交互に行き来する。

尻尾が、右へ、左へ。右へ、左へ。

まるで、天秤のように激しく揺れていた。


(揺れてる。めちゃくちゃ揺れてる……)


銀貨一枚。

ネルにとっては、店の買い戻しまでの道のりの、千分の一。

けれど、目の前には、何日も楽しみにしていた、限定の焼き菓子。


「…………っ」


長い、長い葛藤の末。

ネルは、ぎりぎりと奥歯を鳴らしながら、絞り出すように言った。


「は、半分なら、いいわよ」


「…半分」


「は、半分こ! あたしと、あんたで、半分ずつ! その銀貨は、いらない! これは、あたしが並んで買ったんだから!」


銀貨は、受け取らない。

でも、半分は、分けてあげる。

……どうやらそれが、ネルなりの、精一杯の折り合いのつけ方らしかった。


店主が、ほっとしたように胸を撫で下ろした。

ネルは、焼き菓子の代金の大銅貨を一枚払って包みを受け取ると、その場で、焼き菓子を二つに割った。

ふわりと、蜂蜜の甘い香りが立ちのぼる。

大きいほうを、自分の手に。

ほんの少しだけ小さいほうを、女のほうへ、ぐいっと突き出す。


「…はい」


女は、差し出された半分を、じっと見つめた。

それから、ネルの顔を見る。


「…ただで、いいの?」


「いいって言ってるでしょ! 銀貨なんか受け取ったら、なんか、負けた気がするの!」


女は、少しだけ考えるように、首を傾げた。

それから、銀貨を懐にしまい、代わりに、小さな銅貨を何枚か取り出した。

ネルの手のひらに、一枚ずつ、丁寧に乗せていく。

一枚。二枚。三枚。四枚。五枚。


「…なによ、これ」


「半分の、お代」


女は、淡々と言った。


「並んだのは、君。私は、並んでない。でも、半分食べる。だから、半分払う」


大銅貨一枚の、ちょうど半分。銅貨、五枚。

ネルは、手のひらの銅貨と、女の顔を、交互に見比べた。

それから、ぎゅっと、銅貨を握りしめる。


「…ご、五枚なら、もらっとく」


ネルの尻尾が、ぱたん、と一度だけ、小さく揺れた。

女は、ようやく、差し出された半分を両手で受け取った。

そして、ほんの小さく、さく、とかじった。

紫の瞳が、ゆっくりと、細められる。


「……ん。美味しいね」


その声は、さっきまでとは、まるで違っていた。

抑揚のなかった声の端が、ほんの少しだけ、ほどけるようにやわらかくなって。

無表情のはずの横顔に、ほんのかすかな、満ち足りた色が浮かんでいた。


「…………」


ネルが、焼き菓子をくわえたまま、ぽかんと口を開けていた。


「あんた、ほんとに、S級……?」


「うん」


女は、残りの焼き菓子を大事そうに、さく、さく、と食べ進めていた。

俺も、ネルも、その光景を、呆然と見つめるしかなかった。


(……この人が、『無音』?)


ギルドのホールを、一瞬で静まり返らせたS級冒険者。

目を合わせるな、死にたくなければ――と、冒険者たちが震えていた相手。

それが今、狐の獣人の少女から半分もらった焼き菓子を、両手で抱えて、幸せそうに食べている。


◇


最後のひと口を食べ終えた女は、指先についた蜂蜜を、丁寧に包み紙で拭った。

それから――ふと、俺のほうを見た。

いや。

俺の、腰を。

外套の陰に隠したはずの、布を巻いたナイフを。


「その布の下、見せて」


さっきまでのやわらかさが、嘘のように消えていた。

静かで、まっすぐで、逃げ場のない声。


「…ただの、安物のナイフですよ」


俺は、できるだけ平然とした顔で答えた。

父さんに鍛えられた五年間で、表情を作るのだけは、少しは上手くなったつもりだ。


「嘘」


即答だった。


「顔に書いてある」


「……っ」


一歩も引かない、紫の瞳。

何もかも見透かされているような気がして、俺は、思わず視線を逸らしかけた。

女は、それ以上ナイフには触れなかった。

代わりに、首をわずかに傾げる。


「少年。名前は」


「……リト、です」


「リト」


女は、確かめるように、その名前を口の中で一度だけ転がした。


「……そう」


そして、まるで天気の話の続きでもするように、何気ない調子で、言った。


「東の沢の、焦げた糸。……火が、丸く止まってた」


――心臓が、止まりかけた。

あの夜。

燃え広がる炎を、泡で包んで、空気を断った。

その跡を、この人は、見ていた。


(顔に出すな。絶対に)


俺は、奥歯を噛みしめて、何の話かわからない、という顔を作り続けた。

眉ひとつ、動かさない。指先ひとつ、震わせない。

完璧だった。

俺だけは。


――ぶわっ。


隣で、何かが、大きく膨らむ気配がした。

見なくても、わかった。

ネルの尻尾が、全身の毛を逆立てた猫みたいに、倍の太さに膨れ上がっていた。


「…………」


女の紫の瞳が、ゆっくりと、下へ移った。

俺の顔から、ネルの顔へ。

そして、ネルの背後で、ぱんぱんに膨らんだ赤茶の尻尾へ。


「…狐の子は、正直だね」


「ち、ちがっ……! これは、その、寒いから……っ!」


ネルが、慌てて両手で尻尾を押さえ込む。

けれど、押さえれば押さえるほど、指の隙間から、ふさふさの毛があふれ出していた。


女は、それ以上、何も言わなかった。

ただ、ほんの一瞬だけ。

その口元が、かすかに、笑ったように見えた。


「また来る」


そう言って、女は、くるりと背を向けた。

銀の髪が、朝の光の中で、ふわりと揺れる。

そして――。

瞬きを、ひとつ。


その間に、女の姿は、通りのどこにもなくなっていた。

足音も。気配も。

何ひとつ、残さずに。


◇


「……っ、はぁぁぁぁ……」


二人同時に、その場にへたり込んだ。

通りを行き交う人たちが、何事かとこちらを見ている。

けれど、今の俺たちに、それを気にする余裕はなかった。


「あ、あたしの尻尾のせいじゃないから!」


ネルが、真っ赤な顔で、まだ膨らんだままの尻尾を抱きしめていた。


「あれは、その、寒かったの! 朝だし! 冷えるし!」


「……うん。寒かったな」


「そうよ!」


「……尻尾、隠す練習しような。今度から」


「うっさい!!」


ネルの叫び声が、朝の大通りに響き渡った。

俺は、首の襟巻きに顔を埋めて、深く、長い息を吐いた。


――東の沢の、焦げた糸。火が、丸く止まってた。


あの人は、あの夜の痕跡を、見ていた。

そして、俺の名前を、知ってしまった。


(目立ちたくない、俺の人生で)


ギルドの冒険者たちに笑われても、剣聖に疑われても、どうにかやり過ごしてきた。

でも、今度ばかりは、わけが違う。


(一番厄介な人に、目をつけられた)


朝の光が、王都の石畳を、ゆっくりと照らし始めていた。

蜂蜜の甘い香りだけが、まだ、ほんのりと通りに残っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。