焼き菓子と、無音の人
夜明け前の王都は、吐く息が白くなるほど冷えていた。
「……ねむい」
「我慢しなさいよ。限定なのよ、限定」
まだ空が群青色のうちに叩き起こされて、俺はネルに引きずられるようにして、大通りの菓子屋の前に立っていた。
店の扉は、まだ固く閉ざされている。
なのに、その前には、もう十人ほどの列ができていた。
眠そうな顔の主婦。使いに出されたらしい、どこかの屋敷の小間使い。腕を組んで仁王立ちしている、恰幅のいいおじさん。
「……みんな、本気だな」
「当たり前でしょ。ここの蜂蜜焼き菓子、普段は貴族のお屋敷にしか卸してないんだから。街の人が買えるのは、限定の日だけなの」
ネルは、そう言って胸を張った。
赤茶の尻尾が、待ちきれないとばかりに、ぶんぶんと左右に揺れている。
俺は、昨日ネルに巻いてもらった灰色の襟巻きに、鼻先まで顔を埋めた。
ちくちくするけれど、確かに温かい。
「……それ、ちゃんと巻いてるのね」
「ん? ああ。あったかいよ、これ」
「……ふーん」
ネルは、ぷいっと前を向いた。
尻尾の振れ幅が、さっきよりも少しだけ大きくなっていた。
◇
空が白み始めた頃。
ふと、背中に、ひやりとしたものを感じた。
寒さのせいじゃない。
もっと、こう――首筋の産毛が、一本残らず逆立つような。
(…なんだ?)
振り返る。
俺とネルの、すぐ後ろ。
いつの間にか、一人の女が、列に並んでいた。
褐色の肌に、腰まで届く銀の髪。
尖った長い耳。黒を基調にした軽装に、腰には細身の曲刀。
切れ長の紫の瞳が、まっすぐに、店の扉を見つめている。
(――っ)
心臓が、どくんと跳ねた。
足音は、しなかった。
気配も、まったくなかった。
すぐ後ろに立たれるまで、俺は、何ひとつ気づけなかったのだ。
「え、ちょ、ちょっと、リト……」
ネルが、俺の袖をぎゅっと掴んだ。
その尻尾が、見る見るうちに、倍の太さに膨らんでいく。
「あ、あれ……『無音』じゃないの……?」
ひそひそと、列の前のほうからも声が上がり始めた。
「おい、見ろよ……S級の……」
「なんで、菓子屋に……?」
並んでいた人たちが、ざわざわと振り返っては、慌てて目を逸らしていく。
けれど、当の本人は、そんな視線などまるで気にしていないようだった。
ただ、静かに、店の扉が開くのを待っている。
(ギルドで、すれ違った人だ)
あの日の寒気が、背骨によみがえる。
父さんの木剣と同じ、あの眼光。
そして――一瞬だけ、俺の腰のナイフに止まった、紫の瞳。
俺は、無意識のうちに、布を巻いたナイフの柄を、外套の陰に隠していた。
◇
がちゃり、と鍵の外れる音がして、菓子屋の扉が開いた。
甘い蜂蜜と、焼きたての生地の香りが、ぶわっと通りにあふれ出す。
「お待たせいたしました! 限定の蜂蜜焼き菓子、お一人様おひとつ限りです!」
列が、ゆっくりと前に進んでいく。
一人、また一人と、紙に包まれた焼き菓子を受け取っては、嬉しそうに帰っていく。
そして、俺たちの番が来たとき。
店主の前の木の盆には――焼き菓子が、ちょうどひとつだけ、残っていた。
「あっ、最後のひとつ……!」
ネルの目が、きらりと輝いた。
小さな手が、盆の上の焼き菓子へと伸びる。
その指先が、焼き菓子に触れた、その瞬間。
――すっ。
横から、もう一本の手が伸びてきた。
褐色の、細く長い指。
その指先が、ネルとまったく同じ焼き菓子を、ちょこんとつまんでいた。
「…………」
「…………」
ネルと、銀髪の女が、焼き菓子をつまんだまま、無言で見つめ合う。
店主の笑顔が、ぴしりと凍りついた。
「それ、ちょうだい」
先に口を開いたのは、女のほうだった。
抑揚のない、静かな声。
まるで、明日の天気でも尋ねるような調子だった。
「はぁ!?」
ネルの尻尾が、さらにぶわっと膨らんだ。
相手がS級だということも、一瞬で頭から吹き飛んだらしい。
「な、何言ってんのよ! あたしが先でしょ! 見てたでしょ、あたしが先に掴んだの!」
「……うん。君が先」
女は、あっさりと頷いた。
「でも、ちょうだい」
「話、聞いてた!?」
まったく悪びれていない。
意地悪をしているわけでも、威張っているわけでもない。
ただ、欲しいから、欲しいと言っている。
それだけの顔だった。
「あ、あの、お客様……っ」
店主が、おろおろと両手を揉み合わせている。
S級冒険者と、狐の獣人の少女。
どちらの機嫌も損ねたくない、という顔がありありと浮かんでいた。
すると、女は、空いているほうの手を懐に入れた。
取り出したのは――一枚の、銀貨だった。
「これと、交換」
焼き菓子ひとつの値段は、大銅貨一枚。
銀貨なら、その十倍だ。
「――っ」
ネルの動きが、止まった。
琥珀色の瞳が、焼き菓子と、銀貨を、交互に行き来する。
尻尾が、右へ、左へ。右へ、左へ。
まるで、天秤のように激しく揺れていた。
(揺れてる。めちゃくちゃ揺れてる……)
銀貨一枚。
ネルにとっては、店の買い戻しまでの道のりの、千分の一。
けれど、目の前には、何日も楽しみにしていた、限定の焼き菓子。
「…………っ」
長い、長い葛藤の末。
ネルは、ぎりぎりと奥歯を鳴らしながら、絞り出すように言った。
「は、半分なら、いいわよ」
「…半分」
「は、半分こ! あたしと、あんたで、半分ずつ! その銀貨は、いらない! これは、あたしが並んで買ったんだから!」
銀貨は、受け取らない。
でも、半分は、分けてあげる。
……どうやらそれが、ネルなりの、精一杯の折り合いのつけ方らしかった。
店主が、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
ネルは、焼き菓子の代金の大銅貨を一枚払って包みを受け取ると、その場で、焼き菓子を二つに割った。
ふわりと、蜂蜜の甘い香りが立ちのぼる。
大きいほうを、自分の手に。
ほんの少しだけ小さいほうを、女のほうへ、ぐいっと突き出す。
「…はい」
女は、差し出された半分を、じっと見つめた。
それから、ネルの顔を見る。
「…ただで、いいの?」
「いいって言ってるでしょ! 銀貨なんか受け取ったら、なんか、負けた気がするの!」
女は、少しだけ考えるように、首を傾げた。
それから、銀貨を懐にしまい、代わりに、小さな銅貨を何枚か取り出した。
ネルの手のひらに、一枚ずつ、丁寧に乗せていく。
一枚。二枚。三枚。四枚。五枚。
「…なによ、これ」
「半分の、お代」
女は、淡々と言った。
「並んだのは、君。私は、並んでない。でも、半分食べる。だから、半分払う」
大銅貨一枚の、ちょうど半分。銅貨、五枚。
ネルは、手のひらの銅貨と、女の顔を、交互に見比べた。
それから、ぎゅっと、銅貨を握りしめる。
「…ご、五枚なら、もらっとく」
ネルの尻尾が、ぱたん、と一度だけ、小さく揺れた。
女は、ようやく、差し出された半分を両手で受け取った。
そして、ほんの小さく、さく、とかじった。
紫の瞳が、ゆっくりと、細められる。
「……ん。美味しいね」
その声は、さっきまでとは、まるで違っていた。
抑揚のなかった声の端が、ほんの少しだけ、ほどけるようにやわらかくなって。
無表情のはずの横顔に、ほんのかすかな、満ち足りた色が浮かんでいた。
「…………」
ネルが、焼き菓子をくわえたまま、ぽかんと口を開けていた。
「あんた、ほんとに、S級……?」
「うん」
女は、残りの焼き菓子を大事そうに、さく、さく、と食べ進めていた。
俺も、ネルも、その光景を、呆然と見つめるしかなかった。
(……この人が、『無音』?)
ギルドのホールを、一瞬で静まり返らせたS級冒険者。
目を合わせるな、死にたくなければ――と、冒険者たちが震えていた相手。
それが今、狐の獣人の少女から半分もらった焼き菓子を、両手で抱えて、幸せそうに食べている。
◇
最後のひと口を食べ終えた女は、指先についた蜂蜜を、丁寧に包み紙で拭った。
それから――ふと、俺のほうを見た。
いや。
俺の、腰を。
外套の陰に隠したはずの、布を巻いたナイフを。
「その布の下、見せて」
さっきまでのやわらかさが、嘘のように消えていた。
静かで、まっすぐで、逃げ場のない声。
「…ただの、安物のナイフですよ」
俺は、できるだけ平然とした顔で答えた。
父さんに鍛えられた五年間で、表情を作るのだけは、少しは上手くなったつもりだ。
「嘘」
即答だった。
「顔に書いてある」
「……っ」
一歩も引かない、紫の瞳。
何もかも見透かされているような気がして、俺は、思わず視線を逸らしかけた。
女は、それ以上ナイフには触れなかった。
代わりに、首をわずかに傾げる。
「少年。名前は」
「……リト、です」
「リト」
女は、確かめるように、その名前を口の中で一度だけ転がした。
「……そう」
そして、まるで天気の話の続きでもするように、何気ない調子で、言った。
「東の沢の、焦げた糸。……火が、丸く止まってた」
――心臓が、止まりかけた。
あの夜。
燃え広がる炎を、泡で包んで、空気を断った。
その跡を、この人は、見ていた。
(顔に出すな。絶対に)
俺は、奥歯を噛みしめて、何の話かわからない、という顔を作り続けた。
眉ひとつ、動かさない。指先ひとつ、震わせない。
完璧だった。
俺だけは。
――ぶわっ。
隣で、何かが、大きく膨らむ気配がした。
見なくても、わかった。
ネルの尻尾が、全身の毛を逆立てた猫みたいに、倍の太さに膨れ上がっていた。
「…………」
女の紫の瞳が、ゆっくりと、下へ移った。
俺の顔から、ネルの顔へ。
そして、ネルの背後で、ぱんぱんに膨らんだ赤茶の尻尾へ。
「…狐の子は、正直だね」
「ち、ちがっ……! これは、その、寒いから……っ!」
ネルが、慌てて両手で尻尾を押さえ込む。
けれど、押さえれば押さえるほど、指の隙間から、ふさふさの毛があふれ出していた。
女は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ。
その口元が、かすかに、笑ったように見えた。
「また来る」
そう言って、女は、くるりと背を向けた。
銀の髪が、朝の光の中で、ふわりと揺れる。
そして――。
瞬きを、ひとつ。
その間に、女の姿は、通りのどこにもなくなっていた。
足音も。気配も。
何ひとつ、残さずに。
◇
「……っ、はぁぁぁぁ……」
二人同時に、その場にへたり込んだ。
通りを行き交う人たちが、何事かとこちらを見ている。
けれど、今の俺たちに、それを気にする余裕はなかった。
「あ、あたしの尻尾のせいじゃないから!」
ネルが、真っ赤な顔で、まだ膨らんだままの尻尾を抱きしめていた。
「あれは、その、寒かったの! 朝だし! 冷えるし!」
「……うん。寒かったな」
「そうよ!」
「……尻尾、隠す練習しような。今度から」
「うっさい!!」
ネルの叫び声が、朝の大通りに響き渡った。
俺は、首の襟巻きに顔を埋めて、深く、長い息を吐いた。
――東の沢の、焦げた糸。火が、丸く止まってた。
あの人は、あの夜の痕跡を、見ていた。
そして、俺の名前を、知ってしまった。
(目立ちたくない、俺の人生で)
ギルドの冒険者たちに笑われても、剣聖に疑われても、どうにかやり過ごしてきた。
でも、今度ばかりは、わけが違う。
(一番厄介な人に、目をつけられた)
朝の光が、王都の石畳を、ゆっくりと照らし始めていた。
蜂蜜の甘い香りだけが、まだ、ほんのりと通りに残っていた。




