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いつもの朝と、変わった噂


――コン、コン、コンッ。


「リト! 起きなさいよ! 麦粥、冷めるわよ!」


薄い扉の向こうから、遠慮のない声が飛んでくる。

眠り羊亭に移ってから、すっかりおなじみになった朝の合図だった。


「起きてる。起きてるって……」


硬いベッドから這い出して扉を開けると、ネルが湯気の立つ椀を二つ持って、仁王立ちしていた。

赤茶の髪には、今朝も寝癖がぴょこんと跳ねている。

本人は、まったく気にしていないらしい。


「遅い。女将さん、もう三回もあんたの名前呼んでたわよ」


「……昨日、遅くまで泡の練習してたから」


「知ってる。壁、薄いもん。ぽこぽこ、ぽこぽこ、ずっとうるさかった」


「泡の音、聞こえてたの!?」


「狐の耳を舐めないでよね」


ネルは、ふん、と鼻を鳴らして、俺の部屋の窓枠に腰かけた。

毒牙蜘蛛の一件から、もう数日が経っていた。

目の疲れもすっかり取れたらしく、ネルは今朝も元気だ。


「それより、聞いてよ」


麦粥をすすりながら、ネルが懐から小さな布袋を取り出した。

中身を、窓枠の上にじゃらじゃらと広げる。


「ガロの銀貨と、今までの貯金と、ウサギの分を合わせて……銀貨が、十二枚」


「おお、結構貯まったな」


「でしょ!?」


ネルの尻尾が、ぶんっと大きく振れた。

それから、指を折って、何かを数え始める。


「金貨一枚が、銀貨百枚でしょ。金貨十枚だから、銀貨千枚。そこから十二枚引いて……」


指が、止まった。


「…………あと、九百八十八枚」


「…………」


「…………」


ネルの尻尾が、へにゃりと垂れた。

狐耳も、ぺたんと伏せられる。

窓の外を、遠い目で眺めていた。


「…い、一年前は、ゼロだったし」


「そうだな」


「昨日より、増えてるし」


「そうだな」


「あんた、さっきから『そうだな』しか言ってないわよ」


「ほかに何て言えばいいんだよ」


ネルは、むすっと頬を膨らませて、麦粥をかき込んだ。

けれど、伏せられていた尻尾は、いつの間にか、また小さく揺れ始めていた。



◇


ギルド本部のホールは、朝からいつも以上にざわついていた。


「聞いたか? 『銀の猟犬』が、毒牙蜘蛛を仕留めたって話!」


「Eランクが、Cランクをだぞ!? しかも夜の森で!」


「追い詰められた獣は強ぇってやつか。いやぁ、見直したぜ」


あちこちで、その噂ばかりが飛び交っている。

ホールの隅のテーブルでは、当の『銀の猟犬』の四人が、冒険者たちに囲まれていた。


肩を叩かれ、酒をおごられ、英雄のようにもてはやされている。

なのに――四人とも、ひどく居心地が悪そうだった。

ガロにいたっては、杯を握りしめたまま、さっきから一度も顔を上げていない。


(……そりゃ、そうだよな)


自分たちが倒していない手柄で、褒められ続けるのだ。

欲深い男だと思っていたけれど、少なくとも、平気な顔で胸を張れるほど、図太くはなかったらしい。


「――おっ、チビ種火じゃねぇか!」


依頼書を探していると、ホールの一角から、からかう声が飛んできた。

見れば、顔なじみになりつつある、口の悪い冒険者の一団だった。


「聞いたぜ。お前らも、あの夜、現場にいたんだって?」


「どうせ、腰抜かして見てただけなんだろ? ハハッ!」


どっと、笑いが起きる。

いつものことだ。

俺は愛想笑いを浮かべて、聞き流そうとした――そのとき。


「おい」


ホールの隅から、低い声が響いた。

ガロだった。

いつの間にか顔を上げて、からかっていた冒険者たちを、じっと睨みつけている。


「……そいつらを、笑うな」


ホールが、しん、と静まり返った。

からかっていた冒険者たちが、ぽかんと口を開ける。


「な、なんだよ、ガロ。急に……」


「…別に。うるせぇから、やめとけって言っただけだ」


ガロはそれだけ言うと、杯を置いて、仲間たちと一緒に、さっさとホールを出ていってしまった。

残された冒険者たちが、「なんだ、あいつ?」「英雄様は、機嫌でも悪いのか?」と首をひねっている。


(いや、それ、逆に目立つやつ……!)


俺は、背中に冷や汗をかいていた。

あんなふうに庇われたら、「なんで『銀の猟犬』が、チビ種火を?」と怪しまれかねない。

隣を見ると、ネルが、俯いていた。

狐耳の先が、ほんのりと赤い。


「…ばっかじゃないの、あいつ」


小さな声で、そう呟いて。

ネルは、ぷいっと掲示板のほうへ顔を背けた。


◇


掲示板の真ん中に、見慣れない大きな張り紙が貼られていた。


『東の森への立ち入りを、当面の間、禁止とする。――冒険者ギルド本部』


赤い封蝋まで押された、物々しい張り紙だった。

その周りでは、冒険者たちが不安げに囁き交わしている。


「アラクネ・クイーンが出たって、本当なのか……?」


「Aランクだぞ。王都のすぐそばに……」


あの朝、教官が口にした名前は、もうギルドじゅうに広まっているらしい。

ホール全体が、どこかぴりぴりと張りつめていた。


「リトさん、ネルさん」


受付に依頼書を出すと、ミリアさんが、小声で呼びかけてきた。

栗色の髪を後ろでひとつにまとめた、頬にうっすらとそばかすの残る受付嬢だ。

俺が冒険者登録をした日から、ずっと俺たちの受付を担当してくれている。

ホールの誰もが『チビ種火』と笑う中で、この人だけは、最初から一度も俺を笑わなかった。

ミリアさんは、周りに聞こえないように、少しだけ身を乗り出した。


「お二人とも、無事に帰ってきてくれて、本当によかったです」


「あ……はい。おかげさまで」


「私、あの夜、ずっと眠れなかったんですからね」


ミリアさんは、そう言って、少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。

それから、いつもの明るい笑顔に戻る。


「依頼、承りました。今日も、お気をつけて」


あの夜、俺たちが森へ向かったことを知っているのは、この人だけだ。

それでも、誰にも言わずに、こうして笑ってくれている。


(味方って、こういう人のことを言うんだろうな)


◇


その日の依頼を早めに片付けたあと、ネルに引っ張られて、王都の市場へ向かった。


「新しい籠、買うの。ガロの銀貨で」


「前の籠、紐を直したばっかりじゃなかったか?」


「直したけど、あちこちボロボロなのよ。……それに、せっかくもらったんだし」


市場は、いつ来ても、目が回るほど賑やかだった。


石畳の通りの両側に、色とりどりの露店がずらりと並んでいる。

ずんぐりとしたドワーフが、鍋やナイフを山積みにした金物屋で、客を相手に大声で値段を張り上げている。


犬の耳を生やした獣人の果物売りが、見たこともない、星の形をした赤い果実を籠いっぱいに並べている。

その隣では、尖った耳のエルフが、乾かした薬草の束を吊るした店の奥で、静かに乳鉢を擦っていた。


甘い果実の香り。香辛料の匂い。鉄と油の匂い。

前世のどんな商店街とも違う、この世界の匂いだった。


「…ん、これ」


籠屋の前で、ネルが一つの籠を手に取った。

丈夫な蔓で、目を詰めて編まれた、背負い籠。

ネルの指先が、編み目をすっと撫でる。

一瞬、その琥珀色の瞳が、細められた。


「…うん。綻び、ない。いい籠」


「その目、買い物にも使えるのか……」


「当たり前でしょ。悪い品を掴まされたら、銅貨の無駄よ」


ネルは、値札を見て、店主と三回ほど値切り合ったあと、満足げに籠を背負った。

それから、少しだけ、隣の露店に目をやる。

織物屋だった。色とりどりの襟巻きが、風に揺れている。


「……」


ネルは、黙ってその店の前に立つと、一番地味な、くすんだ灰色の襟巻きを一本、手に取った。

銅貨を何枚か払って、受け取る。

それから――くるりと振り返って、その襟巻きを、俺の首にぐるぐると巻きつけた。


「わっ、ちょ、ネル?」


「…あんた、最近、朝晩くしゃみしてるでしょ。うるさいのよ、壁越しに」


「え、あ……」


「べ、別に、あんたのために買ったんじゃないし! 代金は、次の依頼の取り分から引いとくから!」


早口でまくし立てて、ネルはさっさと歩き出してしまった。

首に巻かれた襟巻きは、少しだけちくちくしたけれど――温かかった。


「…ありがと、ネル」


「聞こえない!」


前を歩く狐耳が、ぴくぴくと動いていた。

……たぶん、ちゃんと聞こえている。



◇


市場の通りを歩いていると、ネルの耳が、また別の動き方をした。

ぴくり、と後ろを向く。


「リト」


「ああ。わかってる」


振り返らなくても、わかった。

さっきから、通りの樽の陰や、露店の天幕の裏で、白銀の何かがちらちらと陽の光を弾いている。


「あいつ、隠れる気あんの?」


ネルが、心の底から呆れたように言った。

レオンハルトだった。


毒牙蜘蛛の一件から、あいつは事あるごとに、俺の後をつけてくるようになっていた。

本人は隠れているつもりらしいが、あの目立つ鎧と金髪では、市場のどこにいても丸わかりだ。


(…泡は、絶対に使えないな)


俺は、ネルに目配せをした。

そして――わざと、のんびりと市場を歩き回り始めた。

八百屋で、玉ねぎを三つ買う。

金物屋で、ドワーフの店主と、小鍋の値段を交渉する。


薬草店の前で、エルフの店員に、乾燥ハーブの使い道を延々と質問する。

また八百屋に戻って、人参を二本買う。


物陰の白銀は、そのたびに、律儀についてきた。

樽の陰から、天幕の裏へ。天幕の裏から、荷車の陰へ。

四軒目の店を出たところで、とうとう、我慢の限界が来たらしい。


「――おいッ!」


荷車の陰から、レオンハルトが飛び出してきた。

金髪を振り乱し、青い瞳でまっすぐに俺を睨みつける。


「チビ種火! お前、今日は何を隠してる!」


市場の人たちが、何事かと振り返る。

俺は、両手いっぱいの買い物袋を、そっと持ち上げてみせた。


「……玉ねぎと、人参と、小鍋を買いました」


「…………」


「あと、籠。ネルが」


「…………」


レオンハルトは、口を開けたまま、固まっていた。

その視線が、俺の買い物袋と、ネルの背負った新しい籠と、首に巻かれた灰色の襟巻きを、順番に行き来する。


「…っ、覚えてろよ!」


意味のわからない捨て台詞を残して、レオンハルトは、白銀の鎧をがしゃがしゃと鳴らしながら、人混みの中へ消えていった。


「……ぷっ」


ネルが、口元を押さえて、肩を震わせた。


「何を覚えてればいいのよ、あれ……!」


「…玉ねぎかな」


二人して、市場の真ん中で吹き出した。



◇


夕暮れの帰り道。

大通りに面した、小さな菓子屋の前で、ネルがぴたりと足を止めた。

甘い焼き菓子の匂いが、ふわりと通りに漂ってくる。

王都で一番の評判だという、行列の絶えない店だった。

その扉に、一枚の張り紙が貼られていた。


『明朝、限定の蜂蜜焼き菓子、数量限定にて販売いたします』


「……」


ネルの琥珀色の瞳が、きらりと光った。

尻尾が、ゆっくりと、大きく揺れ始める。


「リト」


「並ぶのか?」


「明日、朝一で並ぶわよ」


「銅貨一枚も無駄にできないんじゃなかったのか」


「こ、これは無駄じゃないの! 限定なのよ、限定!」


ネルは、真っ赤な顔で張り紙を指さして、それから、ずんずんと歩き出した。

俺は苦笑いしながら、その後を追った。


二人の背中が、夕暮れの人混みに紛れて、見えなくなった頃。

菓子屋の前に、いつの間にか、一つの人影が立っていた。


足音は、しなかった。

銀の髪が、夕風に、音もなく揺れる。

紫の瞳が、じっと、扉の張り紙を見つめていた。


それから、ほんの一瞬だけ。

二人が去っていった通りの先へと、視線が向けられた。



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