…見つけた
月が、雲の切れ間から顔を出していた。
救援隊が引き揚げた東の森は、昨夜の騒ぎが嘘のように、静まり返っている。
その森の中を、一人の女が歩いていた。
褐色の肌に、腰まで届く銀の髪。
尖った長い耳。黒を基調にした軽装に、細身の曲刀が一本。
落ち葉を踏んでも、枝をかき分けても、音ひとつしない。
足音も、衣擦れも、呼吸の音さえも。
彼女のまわりだけ、世界から音が抜き取られているかのようだった。
S級冒険者、シェイラ。
人は彼女を、『無音』と呼ぶ。
その片手には、王都の菓子屋の紙袋が提げられていた。
シェイラは、無表情のまま袋に手を入れ、最後のひとつになった焼き菓子を取り出す。
さく、と小さくかじる。
音は、やはりしない。
紫の瞳が、ほんのわずかに細められた。
「うん、美味しい」
誰も聞いていない森の中で、ぽつりと呟く。
空になった紙袋を丁寧に畳んで懐にしまうと、シェイラは再び、森の奥へと歩き出した。
◇
――魔物が、本来の棲み処から押し出される。
いるはずのない場所に、いるはずのない魔物が現れる。
長く冒険者を続けてきたシェイラは、その意味を知っていた。
弱い魔物が棲み処を捨てて逃げ出すのは、もっと強い何かが、近くに棲みついたときだ。
ときにそれは、未開の地の奥から迷い出てきた、人の手に負えない怪物であることもある。
未開の地。
かつて、肩を並べて戦った仲間たちと、足を踏み入れた場所。
あの地に棲む魔物たちには、人の世界の常識が、何ひとつ通じなかった。
仲間たちは、帰ってこなかった。
自分だけが、生きて戻った。
だからこそ、わかる。
この異変の先にいるものは、放っておけば、いずれ必ず誰かを呑み込む。
シェイラは、ずっと一人で、この兆しを追っていた。
そして、追えば追うほど、奇妙なことに気がついた。
異変の現場には、なぜか、いつも誰かの痕跡がある。
交易町ルクスの街道。
討伐隊が見つけたファングベアの死骸は、外傷ひとつないまま、内側から焼き潰されていた。
誰が、どうやって仕留めたのか。
ルクスのギルドの誰も、答えを持っていなかった。
◇
沢のほとりに出た。
木々の間には、昨夜の戦いの名残が、そのまま残されていた。
黒く焼け焦げ、だらりと垂れ下がった、巨大な糸の天幕。
シェイラは、その焦げ跡を、ゆっくりと見上げていった。
炎は、糸を伝って、網の目を舐めるように燃え広がっている。
その焦げ跡を、目で辿っていって――。
ある一点で、シェイラの視線が止まった。
炎が、途切れていた。
燃え広がる勢いのまま、ある場所で、ぷつりと。
それも、ただ途切れているのではない。
焦げ跡の縁が、きれいな丸い形を描いていた。
まるで、見えない器をすっぽりとかぶせられて、そこで、息を止められたように。
「…………」
シェイラは、音もなく糸の天幕に近づいた。
焦げた糸の、丸い縁。
月明かりを透かして、そこに、何かが張りついているのが見えた。
石鹸の膜のような、ほとんど目に見えない、薄い薄い何か。
光の加減で、ほんの一瞬だけ、七色に揺らめいた。
(……魔力の、膜)
シェイラは、細い指先を、そっとそれに伸ばした。
触れた――瞬間。
膜は、ぱちん、と弾けて、消えた。
【静寂】の中で、それは、やはり音を立てなかった。
指先に、ほんのわずかな湿り気だけが残った。
◇
沢の真ん中に、毒牙蜘蛛の殻が、まだ残されていた。
ギルドが回収に来るのは、明日になるのだろう。
黒紫の巨体が、二つに分かれて、月明かりの下に横たわっている。
シェイラは、その傍らに膝をついた。
断面に、そっと指を這わせる。
甲殻の継ぎ目から、体の芯まで。一切の迷いなく、一直線に。
刃を叩きつけた跡も、力任せに引き裂いた跡も、どこにもない。
「…斬った跡じゃない」
低く、呟く。
「まるで…縫い目を、ほどいたみたい」
紫の瞳が、すっと細められた。
丸く止められた、炎。
弾けて消えた、魔力の膜。
縫い目をほどくように断たれた、殻。
(二人、いる)
火を止めた者と、ほどいた者。
これは、一人の仕業じゃない。
ルクスの、内側から焼かれた熊。
そして、この沢。
異変の現場に、いつも居合わせる、正体のわからない誰か。
シェイラの脳裏に、ひとつの光景が浮かんだ。
ギルド本部の、ホール。
騒がしい冒険者たちの間を通り抜けたときに、すれ違った少年。
黒い髪と、丸みのある目元。人畜無害そうな、どこにでもいる顔。
けれど――その腰に下げられていた、一本のナイフ。
柄の根元に刻まれた、二本の線が交わる、小さな刻印。
忘れるはずがなかった。
あれは、かつて、背中を預けたことのある男の――。
「…オーウェルの、刃」
月明かりの下で、シェイラは、ゆっくりと立ち上がった。
泡が消えた指先を、じっと見つめる。
ほんのわずかに残った湿り気が、夜風に冷えていく。
その唇が、かすかに、動いた。
「…見つけた」
◇
同じ頃。
王都の下層区、眠り羊亭。
硬いベッドの上で、泥のように眠っていたリトは――。
「……っくしゅん!」
盛大に、くしゃみをした。
「んー……誰か、俺の噂でもしてんのかな……」
寝ぼけ眼で鼻をすすり、毛布を頭まで引き上げる。
薄い壁の向こうから、隣の部屋の主の、寝ぼけた声が聞こえてきた。
「うっさい……銅貨、一枚……」
「寝言まで金の話かよ……」
小さく笑って、リトは再び、深い眠りへと落ちていった。
この国で最も厄介な人物に、自分の存在を嗅ぎつけられたことなど、知る由もなく。




