手柄の行方
森の奥から響く、あの不気味な軋みは、それきり聞こえなくなった。
けれど、ここに長居していい理由は、ひとつもなかった。
「……動けるか」
ガロが、繭から引きずり出した二人の仲間に、低く声をかけた。
盾役の大男は、うっすらと目を開けて、かすかに頷く。
弓使いの細身の男は、まだぼんやりしている。
二人とも、毒牙蜘蛛の糸に絡め取られている間に、体力をすっかり奪われていた。
「俺が、一人背負います」
俺がそう言うと、ガロは一瞬だけ、驚いたように俺を見た。
それから、黙って頷く。
俺は盾役の大男を、ガロは弓使いを背負い、魔法使いは杖を支えにして、自分の足で歩いた。
ネルは、目を酷使したせいでまだふらついていたけれど、ランタンを拾い上げて、先頭に立った。
「…あたしが、道、照らすから」
ランタンの灯りを頼りに、六人で、沢を離れる。
背中の大男は、驚くほど重かった。
村を出た日に街道で引きずった、あの熊ほどじゃないけれど――と考えかけて、汗だくだったあの日の自分を思い出し、少しだけ笑いそうになった。
◇
石切り場の手前まで戻った頃、東の空が、白み始めていた。
獣道の向こうから、がちゃがちゃと鎧の擦れる音と、いくつもの足音が近づいてくる。
「――いたぞ! 人影だ!」
現れたのは、十人ほどの冒険者の一団だった。
先頭に立っているのは、顔に大きな傷のある、筋骨隆々の男。
新人講習で、模擬戦の立ち会いをしていた教官だ。
「お前ら、『銀の猟犬』か!? 無事だったのか!」
「……ああ。なんとか、な」
ガロが、掠れた声で答える。
教官は、背負われた二人と、ふらつく魔法使いを見て、すぐに後ろの冒険者たちへ指示を飛ばした。
「怪我人を受け取れ! 担架だ、担架!」
救援隊の冒険者たちが、慌ただしく駆け寄ってくる。
その中に、見覚えのある顔がいくつもあった。
「――おっ!? お前、あのときの雑用ガキじゃねぇか!」
大剣を担いだ、横柄な態度の男。
王都へ向かう商隊で一緒だった、Dランクパーティ『赤き鉄槌』のリーダーだ。
「なんでお前が、こんなとこにいるんだ?」
「あ、えっと……ギルドに、蜘蛛の巣のことを知らせたのが、俺たちで。様子を見に来たら、ちょうど、この人たちが戻ってくるところで」
「はぁ? Fランクのガキが、夜の森に!?」
『赤き鉄槌』のリーダーは、呆れたように俺の頭をがしがしと掻き回した。
「バカ野郎、死にてぇのか! いいか、夜の森なんてのはな、俺たちみたいな一人前の冒険者が来る場所なんだよ! お前みたいな雑用は、街でおとなしく荷物運びでもしてろ!」
「は、はい……すみません……」
「ったく、危なっかしい。……ま、怪我人背負って帰ってきたのは、褒めてやるがな! ハハッ!」
相変わらずの先輩風だった。
でも、今は、それがありがたかった。
この人たちは、俺を『無害な雑用ガキ』としか見ていない。
(……それでいい)
そして。
救援隊の、一番後ろ。
白銀の鎧に、陽の光を集めたような金髪の少年が、腕を組んで立っていた。
(……レオンハルト)
救援隊は、高ランクの冒険者を中心に組まれると聞いていた。
Eランクになったばかりのあいつが、選ばれるはずがない。
「『道案内くらいはできる』って、あの坊ちゃんが無理やりついてきてな」
俺の視線に気づいたのか、教官が苦笑いしながら言った。
「石切り場までの道なんて、ろくに知らねぇくせによ」
レオンハルトは、何も言わなかった。
ただ、青い瞳で、まっすぐに俺を見ていた。
◇
救援隊の何人かが怪我人を王都へ運び、教官とレオンハルト、『赤き鉄槌』の面々は、現場を確かめるために沢の奥へと向かった。
道案内として、俺とネル、そしてガロも同行する。
朝の光が差し込む沢のほとりは、夜とは別の場所のように見えた。
張り巡らされた糸の天幕は、あちこちが黒く焼け焦げ、垂れ下がっている。
そして、その真ん中に――毒牙蜘蛛の残骸が転がっていた。
夜明けの日差しを浴びて、あの白い霜は、もう跡形もなく消えていた。
ただ、黒紫の巨体が、二つに分かれて、静かに横たわっているだけだった。
「…こいつは」
教官が、残骸のそばにしゃがみ込み、低く唸った。
「毒牙蜘蛛……Cランクの魔物だ。こんなもんが、王都のすぐそばに出やがったのか」
その言葉に、『赤き鉄槌』の面々が、ごくりと唾を飲んだ。
「で、だ」
教官が、ガロのほうを振り返った。
「こいつを仕留めたのは、誰だ」
ガロの肩が、ぴくりと揺れた。
一瞬だけ、その目が、ネルを見た。
ネルは、すっと目を逸らした。
――余計なこと、言わないで。
その横顔が、そう言っていた。
ガロは、しばらく黙っていた。
それから、乾いた唇を、ゆっくりと開く。
「…俺たちだ」
掠れた声だった。
「ミロが――うちの魔法使いが、火で糸を焼いて、仲間を吊るしてた糸を切った。その隙に、俺が……最後の力で、急所を、一太刀」
教官は、焼け焦げた糸の天幕を見上げた。
それから、二つに分かれた残骸の、切り口を覗き込む。
「……綺麗な切り口だな。迷いがねぇ。急所を一発、か」
「……ああ」
「Eランクのお前らがCランクを、か。……追い詰められた獣は強い、ってやつかもしれんな」
教官は、それ以上は追及しなかった。
ただ、立ち上がりざま、その視線が、一瞬だけ俺をかすめた。
何かを測るような、静かな目だった。
「剣聖の剣を三度受けた坊主が、たまたまこの夜に、か」
誰に聞かせるでもない、低い呟き。
背筋が、ひやりとした。
けれど、教官はそれ以上何も言わず、焼け焦げた糸の天幕へと視線を戻した。
「うおお、すげぇじゃねぇか、『銀の猟犬』!」
『赤き鉄槌』のリーダーが、ガロの背中をばしばしと叩いた。
「Eランクで毒牙蜘蛛たぁ、大したもんだ! まあ、俺らだったら、もっと楽勝だったけどな! ハハッ!」
「……ああ。運が、よかっただけだ」
ガロは、俯いたまま、そう答えた。
(……それでいい)
俺は、胸の中で、そっと息を吐いた。
手柄は、『銀の猟犬』のものになった。
ネルの力も、俺の泡も、誰にも知られずに済んだ。
隣を見ると、ネルが、焼け焦げた糸をじっと見つめていた。
何も言わない。
ただ、その指先が、ほんの少しだけ、外套の裾を握りしめていた。
◇
「……おい」
背後から、低い声がした。
振り返ると、レオンハルトが立っていた。
いつの間にか、残骸のそばまで来て、二つに分かれた蜘蛛の切り口を、じっと見下ろしていた。
「お前、ここで何をしていた」
「え……だから、後から様子を見に来ただけで――」
「ガロの剣を見たか」
レオンハルトは、俺の言葉を遮って、ガロの腰の剣に顎をしゃくった。
刃こぼれだらけで、白い糸がまだべったりとこびりついた、量産品の鉄剣。
「あの剣で、この切り口が作れると思うか」
「……」
「甲殻ごと、一太刀で、迷いなく。……俺でも、この剣じゃ無理だ」
青い瞳が、俺を射抜く。
「模擬戦で、俺の剣を三度受け流した奴が。夜の森に、わざわざ『様子を見に』来た。……偶然にしては、出来すぎてると思わないか」
心臓が、どくんと跳ねた。
レオンハルトは、俺がやったと思っている。
本当に断ったのはネルだけれど――あいつの頭の中では、全部、一本の線で繋がり始めている。
「……俺は、Fランクのチビ種火ですよ。そんなこと、できるわけ――」
「チビ種火、か」
レオンハルトは、ふん、と鼻を鳴らした。
それ以上は、何も言わなかった。
ただ、背を向ける寸前、ほんの一瞬だけ。
その口元が、笑ったように見えた。
獲物の匂いを嗅ぎつけた、獣のように。
◇
「――全員、戻れ!」
沢のさらに奥を調べに行っていた教官が、血相を変えて戻ってきた。
傷のある顔が、真っ青に引きつっている。
「どうした、教官!」
「……あの糸の先だ」
教官は、沢の奥――森の深部へと続く、太い糸を指さした。
指ほどの太さの糸が、何本も、何本も、束になって、暗い森の奥へと伸びている。
「あの先に、巣がある。……木を何本も丸ごと飲み込むような、馬鹿でかい巣が」
教官の声が、かすかに震えていた。
「毒牙蜘蛛は、ただの手下だ。あの巣の主は、たぶん――」
一拍。
「――アラクネ・クイーン。Aランクの、化け物だ」
沢のほとりが、しんと静まり返った。
『赤き鉄槌』のリーダーでさえ、大剣の柄を握りしめたまま、言葉を失っている。
Aランク。
街ひとつを壊滅させかねない、英雄級の怪物。
それが、王都のすぐそばの森の奥に、巣を張っている。
(……やっぱり、か)
俺は、昨夜、森の奥から響いてきた、あの軋むような音を思い出していた。
黒樹の森の、バイソンボア。
街道の、ファングベア。
東の丘の、ゴブリン。
そして、毒牙蜘蛛。
いるはずのない場所に、いるはずのない魔物が出る。その全部の、根っこにあるもの。
「すぐに王都へ戻って、マスターに報告だ。これは、俺たちの手に負える話じゃねぇ」
教官の声に、全員が、黙って頷いた。
◇
王都に戻った頃には、昼をとうに過ぎていた。
ギルド本部の前で救援隊と別れ、眠り羊亭へ帰ろうとした、そのとき。
「…おい」
裏口の陰から、ガロが、ネルを呼び止めた。
『銀の猟犬』の仲間たちは、もう治療院へ運ばれていて、そこにいたのは、ガロ一人だった。
ネルは、足を止めて、黙ってガロを見た。
ガロは、しばらく、言葉を探すように視線をさまよわせていた。
それから、懐から、小さな革袋を取り出して、ネルの前に差し出した。
ちゃり、と。
中で、硬貨が鳴る音がした。
「今まで、剥ぎ取りも、テントの繕いも、全部、タダでやらせてた分だ」
ネルは、受け取らなかった。
ただ、じっと、ガロの顔を見つめていた。
ガロは、革袋を差し出したまま、俯いた。
そして、地面に落とすように、ぼそりと言った。
「…悪かった」
風が、路地を吹き抜けていった。長い、時が止まったかのような沈黙。
ネルは、ゆっくりと手を伸ばして、革袋を受け取った。
重さを確かめるように、手のひらの上で、一度だけ揺らす。それから、ぷいっと、そっぽを向いた。
「…ふん、遅いのよ」
それだけだった。
ガロは、何か言いかけて、結局、何も言わずに頭を下げた。
そして、背を向けて、治療院のほうへと歩いていった。
ネルは、その背中を見送らなかった。
革袋を、ぎゅっと胸元に握りしめて、俯いている。
赤茶の髪に隠れて、顔は見えない。
けれど、ふさふさの尻尾が――小さく、小さく、揺れていた。
◇
その夜。
眠り羊亭の、狭い食堂の隅で、俺たちは泥のように疲れきって、麦粥をすすっていた。
女将さんは「あんたたち、顔が死んでるよ」と呆れながら、何も聞かずに大盛りにしてくれた。
「…あいつら」
スプーンをくわえたまま、ネルがぼそりと言った。
「手柄、全部持ってったわね」
「いいんだよ。それで」
俺は、麦粥をひと口すくった。
温かかった。
「誰も死ななかった。俺たちのことも、バレなかった。……十分だろ」
ネルは、しばらく黙っていた。
それから、懐の革袋を、服の上からそっと押さえた。
「…うん」
小さく、頷く。
「いいわ。それで」
そう言って、ネルは、ほんの少しだけ笑った。
俺も、つられて笑った。
疲れきった顔で、二人して、へらへらと。
窓の外では、王都の夜が、いつもと変わらず更けていく。
森の奥に、Aランクの怪物が巣を張っていることなんて、知らないみたいに。
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