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三十を、数えて


八つの赤い目が、闇の中で俺たちを捉えていた。


毒牙蜘蛛の巨体が、糸の上で、ゆっくりと向きを変える。

ガロへ向かっていた八本の脚が、今度は、こちらへ。

音もなく、糸から糸へ。

その一歩ごとに、巣全体が、ぎし、ぎし、と軋んだ。


(……一)


俺は、木陰で膝をついたまま、指先の泡に意識を沈めた。

泡の中には、【プチアクア】の水。

そこへ、【プチフロスト】の冷気を、ほんの少しずつ流し込んでいく。

揺らしてはいけない。

少しでも泡が揺れれば、中の水はその場で凍って、ただの氷の粒になる。


(……二。……三)


心臓が、うるさい。

その鼓動さえ、指先に伝わってしまいそうで、息を止める。

蜘蛛が、近づいてくる。

今、ここで動けば、泡は終わる。


「――こっちよ」


隣から、ネルの気配が消えた。

木陰から飛び出したネルは、俺とは反対の方向へ、巣の縁を回り込むように駆けていく。

走りながら、足元の小石を拾い上げて――。


――ぴんっ。


張り詰めた糸の一本に、小石を投げつけた。

糸が、弦のように震える。

その振動が、網の目を伝って、巣全体へと広がっていった。


毒牙蜘蛛の動きが、止まった。

八つの目が、ぎょろりと、振動のしたほうへ向く。

糸の震えで、獲物の居場所を知る生き物。

今、この巣の上では――ネルが投げた小石こそが、『獲物』だった。


(……四。……五。……六)


蜘蛛が、ネルのほうへ向きを変えた。

俺から、離れていく。


(……ネル)


叫びたいのを、奥歯で噛み殺す。

ネルは、蜘蛛が近づいてくるのを見ても、逃げなかった。

今度は、腰のナイフを抜き、別の糸の端に、刃先をちょんと引っかける。


――ぴぃん。


また、別の場所で糸が鳴る。

蜘蛛が、ぎくりと向きを変える。

小石。ナイフ。また小石。

ネルは、巣の縁を走り回りながら、あちこちの糸を弾いていった。

そのたびに、毒牙蜘蛛は、振動のするほうへ、右へ、左へと、巨体を振り回される。

まるで、見えない糸で操られている人形のように。


(……十一。……十二。……十三)


「な……なんだ、あいつ……」


巣の真ん中で、剣を構えたままのガロが、呆然と呟くのが聞こえた。


「荷物持ちの、狐……?」


ランタンの灯りの中、赤茶の髪が、ひらりと翻る。

ガロには、ネルの姿しか見えていない。

それでいい。

俺は、闇の中で、泡を冷やし続けるだけだ。


(……十七。……十八)


毒牙蜘蛛の動きが、変わった。

何度も空振りさせられて、苛立ったのか。

八つの目が、偽の振動ではなく――走り回る、ネルの姿そのものを捉えた。

蜘蛛の腹が、ぐぐっと、膨らむ。


「――っ、ネル!」


声が漏れかけて、慌てて飲み込む。

次の瞬間、蜘蛛の腹の先から、白い何かが撃ち出された。

糸だ。

投げ縄のように広がった太い糸が、まっすぐネルへと飛んでいく。


ネルは、避けなかった。

ナイフを構えたまま、飛んでくる糸を――見ていなかった。

一点を見つめるのではなく、ふわりと、全体を眺めるように。

石切り場で、何度も、何度も繰り返した稽古。

琥珀色の瞳が、ほんの二つ数えるほどの間、宙を泳いで――。


――ぴっ。


ネルのナイフが、宙を走った。

白い投げ縄が、ネルの目の前で、ふたつにほどけた。

まるで、最初から一本の糸ではなかったかのように。

ほどけた糸は、ネルの肩をかすめて、ふわりと地面に落ちる。


(……見えたんだ)


動いている糸の、綻びが。

昼間、跳ねる小石を割ったのと、同じように。


(……二十二。……二十三。……二十四)


毒牙蜘蛛が、狂ったように糸の上を走り出した。

もう、偽の振動には惑わされない。

獲物は、あの狐だと、わかってしまったのだ。

ネルが、巣の縁の大木を背に、追い詰められていく。


(まだだ。まだ、冷えきってない……!)


泡の中の水は、まだ、ほんの少しだけ、足りない。

今放てば、途中で凍る。ただの氷の粒になって、甲殻に弾かれて終わる。

あと、少し。


(……二十六。……二十七)


ネルが、ちらりと、俺のほうを見た。

闇の中で、俺の姿なんて見えるはずがない。

それでも、ネルの琥珀色の瞳は、確かに、こちらを見ていた。

そして――ネルは、背後の大木から伸びる、一本の太い糸に、ナイフを当てた。

毒牙蜘蛛が乗っている、その糸の、真下。


(……二十八)


ネルの刃先が、何かをなぞった。

綻びだ。

巣を支える、太い糸の、綻び。


――ぶつり。


糸が、ほどけた。

毒牙蜘蛛の足場が、ぐらりと傾く。

巨体が、ずるりと滑り落ちかけて――蜘蛛は、八本の脚を、近くの糸に必死に突き立てた。

体勢を、立て直すために。

その一瞬。

巨体が、宙で、ぴたりと止まった。


(――二十九)


泡の中の水が、指先の感覚の中で、しんと静まり返った。

冷たい。

凍るべき温度を、とっくに下回っている。

なのに、凍っていない。

完璧な、過冷却。


(――三十)


俺は、泡を、指先から弾き出した。


まっすぐに。

揺らさないように。

闇の中を、拳ほどの透明な泡が、音もなく滑っていく。

動きを止めた、黒紫の背中へ。


――ぱちん。


泡が、弾けた。


音は、しなかった。


弾けた水が、甲殻に触れた瞬間――白く、凍りついた。

赤い斑紋の上を、霜が、花びらのように広がっていく。

甲殻の継ぎ目から、関節の隙間へ。

冷たい水が、染み込んだ先から、体の奥まで、一瞬で。

太い脚が、一本、また一本と、白く固まっていく。

飛び散った水滴が、周りの糸にまで降りかかり、網の目を伝って、さあっと白い霜が走った。

暗い森の中に、巨大な、真っ白な氷の花が咲いていた。


「…………」


毒牙蜘蛛は、もう、動かなかった。

八つの赤い目が、白い霜の下で、ぼんやりと光を失っていく。


「――ネル」


声を殺して、呼ぶ。

けれど、ネルはもう、動いていた。

凍りついた巨体の前に、ナイフを構えて立つ。

止まっている相手なら、見える。


「……一」


ネルの唇が、小さく動く。


「……二」


琥珀色の瞳が、凍った甲殻の、ある一点を捉える。


「……三」


――すっ。


ナイフが、走った。

力を込めた様子は、どこにもなかった。

針で、布の縫い目をほどくように。

凍りついた毒牙蜘蛛の巨体が、音もなく、ふたつに分かれた。

断面まで、白く凍りついている。

あれほど草を焼いた猛毒は――凍ったまま、一滴も、飛び散らなかった。


◇


「……っ、はぁ……っ」


ネルが、肩で荒い息をついた。

けれど、すぐに顔を上げて、巣の上へ目をやる。

吊るされた、二つの繭。

凍った糸は、もう、ねばついてはいなかった。

ネルがナイフの背で叩くと、白く霜をまとった糸は、ガラス細工のように、ぱりん、と砕けた。


「ちょっと、そこの剣士! 突っ立ってないで、手伝いなさいよ!」


「え……あ、ああ……!」


ネルに怒鳴られて、ガロがよろよろと動き出す。

二人がかりで繭の糸を砕き、中から盾役と弓使いを引きずり出す。

二人とも、ぐったりしていたが、息はあった。

糸に絡まっていた魔法使いも、凍って脆くなった糸から、自分の力で抜け出していた。

四人とも、生きている。


(……よかった)


木陰で、俺は、ようやく全身の力を抜いた。

張りつめていた指先が、今さらのように、小刻みに震えていた。


(……さて)


まだ、終わりじゃない。

ガロたちは、ネルの姿を見ている。

でも、俺のことは、見ていない。

俺は、音を立てないように木陰を離れると、闇の中を大きく迂回して、沢の手前の獣道まで戻った。

それから――。


「――ネルーッ!! 大丈夫か!!」


わざと大きな声を上げて、獣道から、巣のほうへと駆け込んだ。

息を切らせたふりをして。

今、ようやく、追いついたような顔をして。


「よかった、無事で……! 途中ではぐれて、どうしようかと……!」


自分でも、白々しいと思う。

ネルが、じとっとした目で、こちらを見ていた。

けれど、何も言わずに、話を合わせてくれる。


「……遅いのよ、あんた」


「ご、ごめん」


ガロは、俺のことなど、ほとんど目に入っていないようだった。

ただ、ランタンの灯りの中で、凍りついた蜘蛛の残骸と――ネルの横顔を、交互に見つめていた。


「……荷物持ちの、狐が……」


掠れた声で、ガロが呟いた。


「Cランクの、化け物を……一撃で……」


ネルは、ガロのほうを見ようともしなかった。


「早く、仲間、連れて帰りなさいよ。また何か出てきたら、今度こそ死ぬわよ」


それだけ言って、ネルは、ふいっと背を向けた。


◇


その直後だった。

ネルの身体が、ぐらりと傾いた。


「ネル!」


駆け寄って、倒れかけた肩を支える。

ネルは、片手で、ぎゅっと目元を押さえていた。


「平気。ちょっと……目、使いすぎただけ……」


糸の綻び。動く糸。凍った甲殻。

今夜、ネルは、何度もあの目を使った。

目の奥は、焼けるように痛んでいるはずだ。

それでもネルは、俺の腕の中で、うっすらと目を開けた。

そして、ほんの少しだけ、得意げに口の端を持ち上げる。


「三十。……ちゃんと、稼いだでしょ」


「ああ」


喉の奥が、熱くなった。


「完璧だった」


「…ふん。当然でしょ」


そう言って、ネルは、ぐったりと俺の肩に額を預けた。

赤茶の尻尾が、力なく、それでも小さく、ゆらりと揺れた。


――そのとき。


ずぅん、と。

足元の地面が、かすかに震えた。


「……っ」


俺は、顔を上げた。

沢の、ずっと奥。

森の、さらに深いところから。

何かが――とてつもなく巨大な何かが、糸を揺らす音が、かすかに届いてきた。

ぎし。ぎし。

まるで、森そのものが、軋んでいるような。


背筋を、冷たいものが這い上がる。

腕の中で、ネルの狐耳が、ぴくりと震えた。


さっきの毒牙蜘蛛は、馬ほどの大きさだった。

だとしたら。

この森の奥で、あの巨大な巣を張っているのは――。


俺は、ネルの肩を抱いたまま、闇の奥を、じっと睨みつけていた。




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