毒牙の巣
順番が間違っていたので修正しました…。
悲鳴は、まだ続いていた。
「誰か! 誰かいねぇのか!!」
「くそっ、離れろ、離れろって!!」
男たちの怒鳴り声が、夜の森に反響する。
俺とネルは、沢の岩を飛び越え、木の根を蹴って、声のするほうへ走った。
「ネル」
走りながら、俺は小声で言った。
「着いたら、まず隠れる。俺たちがいることは、気づかれないようにしたい」
「……助けるんでしょ?」
「助ける。隠れたまま、な」
目立ちたくない。
こんな状況でも、その考えを捨てられない自分が、少しだけ情けなかった。
でも、ここで俺の泡を見られたら、今までの全部が終わる。
ネルの力だってそうだ。
ネルは、一瞬だけ俺の顔を見て、こくりと頷いた。
「わかった。あんたの合図に合わせる」
◇
木々が、ふっと途切れた。
その先に広がっていた光景に、俺は思わず、足を止めた。
――巣、だった。
開けた沢のほとりを、何本もの大木が囲んでいる。
その木と木の間に、白い糸が、幾重にも、幾重にも張り巡らされていた。
指ほどの太さの糸が、網の目のように交差して、巨大な天幕を作っている。
地面に転がったランタンが、横倒しのまま、ぼんやりと光を放っていた。
その頼りない灯りに照らされて、糸が、ぬらぬらと白く光っている。
そして、その巣の中に――『銀の猟犬』がいた。
盾を背負った大柄な男と、弓を持った細身の男。
二人は、もう動いていなかった。
全身を糸でぐるぐる巻きにされて、繭のような姿で、巣の高いところに吊るされている。
かすかに、繭が揺れていた。まだ、生きてはいるらしい。
杖を握った痩せた男は、腰から下を糸に絡め取られ、必死にもがいていた。
そして、ただ一人。
巣の真ん中で、剣を構えて立っている男がいた。
ギルドのカウンターで、ネルに銅貨を投げつけた男。
『銀の猟犬』のリーダー、ガロだ。
「――ッ」
隣で、ネルが息を呑んだ。
その視線の先を追って――俺も、全身の毛が逆立つのを感じた。
ガロの頭上。
太い木の幹に、それは、逆さまに張りついていた。
馬ほどもある、巨大な蜘蛛だった。
黒紫色の、ぬめるような甲殻。
その背中に、血を塗りつけたような、赤い斑紋が浮かんでいる。
太い八本の脚が、木の幹に、ぴたりと吸いついていた。
頭のあたりで、赤い光が、八つ。
ランタンの灯りを照り返して、ぎらぎらと瞬いている。
そして、鎌のように湾曲した二本の牙の先から――。
ぽたり。
滴が、落ちた。
滴が触れた下草が、じゅう、と音を立てて、黒く縮れていく。
(……毒)
森蜘蛛なんかじゃない。
手のひらほどの小さな蜘蛛とは、まるで別の生き物だ。
アイアンホーンを、皮と骨だけにしたのは――こいつだ。
「くそっ……くそっ、くそっ!」
ガロが、剣を振り回していた。
けれど、その刃には、白い糸がべったりと絡みついて、まともに振れていない。
「だから引き返そうって言ったんだ!!」
糸に絡め取られた魔法使いが、泣き叫ぶように怒鳴った。
「あの角鹿の死骸を見たときに! あんなもん、森蜘蛛にやれるわけねぇって、俺は言っただろ!!」
「うるせぇ! お前だって、乗り気だったじゃねぇか!」
「お前が言ったんだろうが、ガロ! 『アイアンホーンの角が丸ごと手に入る、奥にまだ獲物があるかもしれねぇ』って!!」
「……っ!」
ガロが、言葉に詰まった。
(…そういうことか)
あいつらも、あの沢で、アイアンホーンの死骸を見ていたのだ。
森蜘蛛にあんなことはできない。普通なら、そこで引き返す。
でも、こいつらは――欲に目がくらんで、奥へ進んだ。
そして、巣に、まんまと飛び込んだ。
「…バカじゃないの」
ネルが、小さく吐き捨てた。
けれど、その声は、震えていた。
怒っているのか、怖がっているのか、自分でもわかっていないような声だった。
◇
「……っ、焼いてやる!」
魔法使いが、叫んだ。
糸に絡め取られたまま、震える手で杖を掲げる。
杖の先に、赤い光が集まっていく。
「燃えちまえ、こんな糸! 【ライトフレイム】ッ!!」
――ゴウッ!
杖の先から、拳ほどの火球が放たれた。
狙ったのは、吊るされた仲間たちを支える、太い糸の束。
火が、糸に触れた。
その瞬間――。
――ボウッ!!
炎が、糸を伝って走った。
まるで、油を染み込ませた縄に火をつけたように。
白い糸が、端から黒く焦げ、炎の舌が、網の目を舐めるように、一気に広がっていく。
その先には――吊るされた、盾役の男の繭が。
「――っ、ば、バカッ!! やめろッ!!」
ガロの絶叫が響く。
魔法使いの顔が、炎に照らされて、真っ青に引きつった。
「あ……ああ……っ!」
炎が、繭へと迫る。
あと、数歩分。
繭の中の男が、気配に気づいたのか、くぐもった悲鳴を上げて身をよじる。
(――間に合えッ!)
考えるより先に、身体が動いていた。
木陰に身を伏せたまま、俺は右手を炎へ向けた。
生み出すのは、大きな泡。
薄く、けれど隙間なく閉じた、透明な膜。
それを、燃え広がる炎の先頭へ――すっぽりと、かぶせる。
火は、空気がなければ燃えない。
泡は、内と外を分ける『境界』だ。
外の空気を遮ってしまえば――。
――しゅぅ……。
かすかな音を立てて、炎が、ふっと萎んだ。
泡の中で、赤い舌が、見る見るうちに小さくなり、黒い煙だけを残して、消えていく。
繭まで、あと、腕一本分のところだった。
「……え?」
魔法使いが、ぽかんと口を開けた。
「き、消えた……? なんで……?」
ガロも、剣を構えたまま、呆然と焦げた糸を見つめている。
二人には、泡は見えていないはずだ。
夜の闇と、立ち込める煙。その中に浮かんだ、透明な膜なんて。
(……よし)
俺は、木陰で、そっと息を吐いた。
――その、瞬間だった。
ぴくり、と。
糸が、震えた。
俺の泡が触れていた、焦げた糸。
そこから、網の目を伝って、ほんのかすかな振動が、巣全体へと広がっていく。
ぴん、ぴん、と。
まるで、誰かが琴の弦を、そっと弾いたように。
(…まずい)
蜘蛛は、目じゃない。
糸の震えで、獲物の居場所を知るのだ。
木の幹に張りついていた毒牙蜘蛛が、ゆっくりと、動いた。
八本の脚が、音もなく幹を這い下りていく。
向かう先は――剣を構えた、ガロ。
「く、来るな……来るなァッ!!」
ガロが、糸の絡んだ剣を振り回す。
けれど、毒牙蜘蛛は、まったく怯まない。
木の幹から、張り巡らされた糸へ。糸から、別の木へ。
地面に、一度も足をつけずに、滑るように近づいてくる。
(地面を歩かないんじゃ、スリップバブルは効かない)
頭が、恐ろしいほど冷静に、選択肢を並べていく。
(水蒸気爆発なら、たぶん仕留められる。でも――)
あの体が、内側から弾けたら。
牙の先から滴っていた、あの毒。下草を一瞬で黒く焼いた、あの体液が。
真下にいるガロと、吊るされた二人の繭に、雨のように降り注ぐ。
(爆発も、ダメだ)
火もダメ。滑らせるのもダメ。爆ぜさせるのもダメ。
だったら――。
脳裏に、昼間の石切り場がよみがえった。
灰色の岩肌に、音もなく咲いた、真っ白な氷の花。
(…あれしか、ない)
過冷却。
音もなく、触れたものを、一瞬で止める泡。
凍らせてしまえば、毒は飛び散らない。凍った糸なら、脆くなる。
でも、あれには、致命的な弱点がある。
泡の中の水を、揺らさずに、少しずつ、静かに冷やさなければならない。
昼間でさえ、一つ作るのに、何十も数える時間がかかった。
「……ネル」
俺は、木陰で膝をつき、右手を握りしめた。
指先に、もう、泡を作り始めていた。
「三十。……三十数える時間が、ほしい」
ネルは、一瞬だけ、俺の手元を見た。
昼間、岩に咲いた氷の花を、きっと思い出している。
それから――ふっと、口の端を持ち上げた。
震えていたはずの声で、きっぱりと言う。
「稼げばいいのね」
腰のナイフが、すらりと抜かれた。
針仕事で硬くなった、小さな手。
その手が、少しも震えていなかった。
そのときだった。
ガロへ向かっていた毒牙蜘蛛が――ぴたりと、動きを止めた。
糸の上で、ゆっくりと、巨大な体の向きを変える。
八つの赤い目が、闇の中で、ぎらりと光った。
その目は、まっすぐに。
木陰に潜む、俺とネルのほうを、向いていた。




