仄かな灯、夜の森へ
ギルド本部に駆け込んだときには、空はすっかり茜色に染まっていた。
依頼を終えた冒険者たちで混み合うホールを抜け、まっすぐ受付へ向かう。
「あら、リトさん、ネルさん。お疲れさまです。今日は稽古でしたよね――」
いつものように微笑みかけた受付嬢の顔が、俺たちの様子を見て、すっと引き締まった。
「……何か、ありましたか」
「東の森の、石切り場の裏にある沢で――」
俺は、見てきたことを、できるだけ正確に伝えた。
太い白い糸。幾重にも張り巡らされた、巨大な巣。その中心に吊るされていた、干からびたアイアンホーンの骸。
話が進むにつれて、受付嬢の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「アイアンホーンが、糸に……? それは、森蜘蛛の仕業じゃ……」
「森蜘蛛は、手のひらくらいの大きさなんですよね?」
「……ええ」
受付嬢は、震える手で帳面をめくった。
そして、ある一行を見つけて、息を呑む。
「……森蜘蛛の駆除の依頼」
「え?」
「今朝、あるパーティが受けていったばかりなんです。場所は――東の森の縁。石切り場の、すぐ近くです」
背筋に、冷たいものが走った。
「どこのパーティですか」
ネルが、低い声で聞いた。
受付嬢は、帳面の文字を、読み上げる。
「Eランクパーティ、『銀の猟犬』。リーダーは、剣士のガロさんです」
隣で、ネルの肩が、びくりと震えた。その名前には、俺も覚えがあった。
俺が冒険者登録をした、次の日の朝。
このカウンターで、ネルに銅貨を投げつけた、あの四人組だ。
『荷物持ちには、これで十分だろ』
「……まだ、戻ってないんですか」
「はい。日帰りの予定だと伺っていたんですけど……」
受付嬢は、窓の外に目をやった。
茜色の空が、少しずつ、夜の色に塗り替えられていく。
「……少し、お待ちください。マスターに報告してきます」
受付嬢は、帳面を抱えて、二階へと駆け上がっていった。
◇
待っている間、ネルは一言も喋らなかった。
カウンターに両手をついて、じっと木目を見つめている。
狐耳が、ぺたりと伏せられていた。
やがて、階段を駆け下りてくる足音が響いた。
戻ってきた受付嬢の顔は、さっきよりもさらに青ざめていた。
「……マスターの判断です。今、動かせる高ランクの冒険者は、全員、東の森の奥の調査に出払っていて……救援隊を組めるのは、早くても明日の朝になる、と」
「明日の、朝……」
夜の森。
Dランクの角鹿を、皮と骨だけにする何か。
そんなものと、Eランクの四人が出くわしたら――朝まで、もつのか。
「……っ」
ネルが、カウンターを握る指に、ぎゅっと力を込めた。
「……あいつら」
絞り出すような声だった。
「あいつら、あたしに、銅貨投げつけた奴らよ。剥ぎ取りも、テントの繕いも、全部タダでやらせて。ハズレスキルのくせにって、笑って」
「……うん」
「ほっといたって、いいのよ。あんな奴ら。自分で受けた依頼なんだから、自分でどうにかすればいいの」
そう言い捨てて、ネルは黙り込んだ。
長い、沈黙だった。
ホールの喧騒が、遠くに聞こえる。
やがて、ネルが、ぽつりと言った。
「……でも」
伏せられていた狐耳が、ゆっくりと持ち上がる。
「ばあちゃんが、言ってたの。綻びはね、見つけたら、すぐに繕えって。ほっといたら、どんどん広がって、取り返しがつかなくなるんだって」
琥珀色の瞳が、俺を見た。
揺れていた。
それでも、逸らさなかった。
「……見つけちゃったんだもん。あたしたちが」
胸の奥が、じんと熱くなった。
強がりで、口が悪くて、銅貨一枚にうるさくて。
それでも、自分に銅貨を投げつけた相手のために、こんな顔ができる。
(……目立ちたくない、なんて言ってる場合じゃないよな)
俺は、腰に巻いた、布の覆いのナイフに手を触れた。
「行こう、ネル」
「……うん」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください!」
受付嬢が、慌ててカウンターから身を乗り出した。
「お二人とも、Fランクですよね!? 危険すぎます! 森蜘蛛じゃない何かがいるなら、なおさら――」
「森の縁まで、様子を見に行くだけです」
俺は、できるだけ落ち着いた声で言った。
「沢の場所は、俺たちが一番よくわかってます。もし『銀の猟犬』が戻る途中なら、道案内くらいはできるし。危なそうなら、すぐに引き返して、ここに知らせに戻ります」
嘘は、言っていない。
危なそうなら――隠れて、手を貸すかもしれないということを、言っていないだけだ。
受付嬢は、しばらく俺たちの顔を交互に見つめていた。
それから、唇を噛んで、小さく頷く。
「……わかりました。止めても、行くんですよね」
「……すみません」
「無理だけは、絶対にしないでください。……お二人に何かあったら、私、泣きますからね」
その言葉に、ネルが、ほんの少しだけ目を丸くした。
それから、ふいとそっぽを向いて、ぶっきらぼうに答える。
「……泣かせないわよ。ちゃんと帰ってくるから」
◇
ホールを出ていく二人の背中を、柱の陰から見つめている者がいた。
白銀の鎧に、陽の光を集めたような金髪。
レオンハルト・フォン・ヴァイスベルクは、何も言わなかった。
ただ、青い瞳を、細く細めていた。
◇
東門を出た頃には、もう、日はとっぷりと暮れていた。
月は、厚い雲の向こうに隠れている。
街道を外れて獣道に入ると、世界から、光というものが消えた。
木々の枝が、頭上を覆う。
自分の手のひらさえ、目の前にかざしても見えない。
「……真っ暗ね」
すぐ隣から、ネルの声がした。
ランプは、持ってきていなかった。
森の中で灯りをともせば、遠くからでも目立つ。
魔物を呼び寄せることにもなる。
かといって、この暗さでは、足元の木の根にさえつまずいてしまう。
「……ちょっと、待ってて」
俺は、右手の人差し指を、そっと立てた。
「【プチフレイム】」
――ぽっ。
指先に、小さな、小さな火が灯った。
ロウソクよりも、まだ小さい。
ギルドのホールで、あれほど笑われた、チビ種火。
けれど――。
真っ暗な森の中では、その小さな火が、驚くほど明るく見えた。
足元の木の根が、はっきりと浮かび上がる。
張り出した枝の影が、見分けられる。
それでいて、ほんの少し離れれば、闇に溶けてしまうほどの、ささやかな光。
遠くの魔物を呼び寄せるには、あまりにも小さすぎる灯だった。
「……」
ネルが、俺の指先を、じっと見つめていた。
小さな炎が、琥珀色の瞳の中で、ゆらゆらと揺れている。
「……ほら」
ネルが、ぽつりと呟いた。
「暗いとこなら、ちゃんと見えるでしょ」
ギルドのカウンターで、ネルがそう言って、用紙に名前を書き込んだ日のことを思い出す。
真昼の広場じゃ、誰も気づかないくらいの火でも。
暗いところなら、ちゃんと見える。
「……ああ。見えるな」
『仄かな灯』。
その名前の意味が、今、ようやく、本当の意味で胸に落ちた気がした。
「行こう」
「うん」
小さな灯を頼りに、俺たちは、夜の森の奥へと足を踏み入れた。
◇
石切り場を抜け、裏手の森へ。
昼間に通ったはずの道が、夜になると、まるで別の場所のように感じられる。
せせらぎの音が、近づいてきた。
沢の手前、苔むした岩のそばで――ネルが、足を止めた。
「……リト。これ」
ネルが拾い上げたのは、革の荷袋だった。
乱暴に引きちぎられたように、肩紐が根元から千切れている。
中から、干し肉や、予備の矢が、ばらばらとこぼれ落ちていた。
荷袋の表には、銀糸で紋が刺繍されている。
猟犬の横顔。
「……『銀の猟犬』の、荷物だ」
指先の小さな火に照らされて、荷袋についた何かが、ぬらりと光った。
粘りつくような、白い糸。
そのときだった。
「――うわあああああッ!!」
森の奥から、男の悲鳴が響き渡った。
夜の静寂を、引き裂くように。
ネルの尻尾が、ぶわりと逆立つ。
俺は、指先の灯を握り込むように消して、声のしたほうを睨んだ。
悲鳴は、沢のさらに奥――あの、巨大な糸の巣のほうから聞こえていた。
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