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泡と糸の、稽古場


「……森蜘蛛?」


朝のギルド本部。

Fランクの依頼を探して掲示板を眺めていた俺は、その隣、Eランクの欄に新しく貼られた一枚に目を留めた。


『王都東、森の縁にて、森蜘蛛の駆除。近隣で目撃情報多数。Eランク以上。報酬:大銅貨十五枚』


「ああ、それ。手のひらくらいの、小さい蜘蛛の魔物よ」


隣で、ネルが興味なさそうに言った。


「荷物持ちで、何度か見たことある。弱いけど、数だけは多いの。糸がべたべたして、剥ぎ取りも面倒だし」


「東の森の縁か……最近、あっちばっかりだな」


東の丘のゴブリン。受付嬢の言っていた、


『いるはずのない場所で魔物を見た』

という報告。


少しだけ、嫌な引っかかりを覚える。

けれど、どのみちEランクの依頼だ。Fランクの俺たちには、受けられない。


「それより、今日は稽古でしょ。ほら、行くわよ」


ネルに袖を引かれて、俺は掲示板の前を離れた。


◇


「――ここよ」


王都の東門を出て、街道から外れた獣道を、半刻ほど。

ネルが案内してくれたのは、切り立った岩肌に囲まれた、すり鉢状の広場だった。

あちこちに、四角く切り出された岩の塊が転がっている。

崖の一角からは細い湧き水が流れ落ち、底の窪みに、小さな池を作っていた。


「昔の石切り場。もう何十年も使われてないんだって」


「よく知ってたな、こんな場所」


「ばあちゃんとね、たまに来てたの。布を染めるのに使う、色のついた石を拾いに」


ネルは、少しだけ懐かしそうに、岩肌を見上げた。


「ここなら、誰も来ない。……稽古には、ちょうどいいでしょ」


「……ああ。最高だ」


岩はネルの練習台になる。池の水は、俺の泡の実験に使える。何より、人目がない。

これなら、思い切り――。


「……リト」


ネルの狐耳が、ぴくりと動いた。

声を潜めて、俺の袖を引く。


「振り返らないで。……誰か、つけてきてる」


「え」


「さっきの獣道から、ずっと。足音、隠してるつもりみたいだけど、鎧が擦れる音がする」


狐の耳は、人間よりずっといいらしい。

俺は、何気ないふりをして、靴紐を結び直すようにしゃがみ込んだ。

視線だけを、背後の獣道へ向ける。

茂みの隙間で、白銀の何かが、きらりと陽を弾いた。


(……レオンハルト、か)


模擬戦の、あの目を思い出す。

『お前、何を隠してる』

どうやら、本気で探りに来たらしい。


(……ここを知られるのは、まずいな)


石切り場へ下りる道は、崖沿いの細い坂一本だけだ。俺はしゃがんだまま、右手をそっと地面に当てた。


坂道の真ん中あたり。

米粒ほどの泡を、音もなく、何百と敷き詰める。


「ネル。ちょっと、あっちの岩陰まで走ろうか」


「……了解」


二人で、わざとらしく駆け出す。

背後の茂みが、がさりと揺れた。

追いかけてくる、鎧の擦れる音。

それが、坂道の真ん中に差し掛かった――瞬間。


――ツルンッ!!


「うおっ!?」


聞き覚えのある声が、盛大に裏返った。

振り返ると、白銀の鎧をまとった金髪の少年が、坂道を尻から滑り落ちていくところだった。


ガシャン、ガシャンと鎧を鳴らしながら、ごろごろと転がって、坂の下の茂みに頭から突っ込む。


「……くそっ! なんだ、この道は……!」


茂みの中から、悔しそうな声が響いてくる。

その隙に、俺とネルは、崖の反対側の岩の裂け目から、石切り場の奥へと滑り込んだ。


しばらく息を潜めていると、やがて、足音が遠ざかっていく。どうやら、諦めてくれたらしい。


「……ぷっ」


隣で、ネルが口元を押さえて、肩を震わせていた。


「あんた、剣聖を坂から転がり落としたわよ……!」


「……笑うなよ。俺も、ちょっと悪いことしたなって思ってるんだから」


そう言いながら、俺も、こらえきれずに吹き出していた。


◇


「――いくぞ、ネル」


「……いつでも」


石切り場の真ん中で、ネルがナイフを構えている。

俺は少し離れた場所から、足元の小石を拾っては、ネルの周りに次々と放り投げた。

宙を舞う小石。転がる小石。跳ねる小石。

ネルの仕事は、その中から一つを選び、動いているうちに『綻び』を見つけて、ナイフで断つこと。


「……っ、見えない……!」


一つ、また一つ。

小石は、ネルの刃をかすめることなく、地面に落ちていく。


「止まってれば、三つ数えれば見えるのに……動いてると、糸がぶれて、どこにあるのか……」


ネルが、苛立ったように目元を押さえた。

止まっている相手なら、見える。

でも、実戦で相手が止まってくれることなんて、ほとんどない。


俺は、しばらく考えた。

前世で見た、何かの動画を思い出す。

スポーツ選手が、飛んでくる球を捉えるときの話。


「……なあ、ネル。もしかして、一点をじっと見ようとしてないか?」


「え? だって、綻びって、小さい糸なんだもん。じっと見なきゃ見えないでしょ」


「動いてるものって、一点を追いかけると、かえって見失うらしいんだ。だから、全体を、ぼんやり見る。視界の端っこで、引っかかるのを待つ感じで」


「……ぼんやり?」


ネルは、半信半疑の顔で、ナイフを構え直した。俺は、また小石を放る。


ネルの目が、今度は、どこにも焦点を合わせずに、ふわりと宙を眺めていた。


一。

二――。


――ぴっ。


ナイフの刃先が、空中を跳ねる小石をかすめた。

小石が、音もなく二つに割れて、地面に転がる。


「……っ、見えた!」


ネルが、目を見開いた。


「今の、見えた! 視界の端で、糸が、ぴろって……!」


「二つ数えるくらいだったな」


「三つから、二つ……!」


ネルの尻尾が、ぶんぶんと大きく揺れる。

けれど次の瞬間、ネルは顔をしかめて、目の奥を押さえた。


「……いった……」


「無理しすぎ。休憩しよう」


「……うん」


岩に腰を下ろしたネルは、まだ嬉しそうに、割れた小石を手のひらで転がしていた。


◇


今度は、俺の番だった。

池のほとりにしゃがみ込み、指先に泡を浮かべる。


(音を立てずに、相手を止める技がほしい)


ずっと、考えていたことだった。

水蒸気爆発は、強い。でも、音が大きすぎる。

五年前の庭では犬が吠え立てたし、第一、近くに人がいたら巻き込んでしまう。

もっと静かに。もっと、目立たずに。


(凍らせる、ってのはどうだ)


泡の中に、池の水を少しだけ閉じ込める。

そこへ、【プチフロスト】の冷気を、ゆっくりと流し込んでいく。


――パキッ。


泡の中の水は、あっさりと、普通に凍った。

ただの、泡に包まれた小さな氷の粒だ。

投げつけてみても、岩にこつんと当たって、転がるだけだった。


「……違う。これじゃ、ただの氷の玉だ」


何度試しても、同じだった。

冷やせば、凍る。当たり前のことだ。

凍った氷をぶつけたところで、相手は止まらない。


(凍ったまま当てるんじゃなくて……当たった瞬間に、凍らせられたら)


ふと、前世の記憶が、頭の奥から浮かび上がってきた。深夜、何の気なしに眺めていた、短い動画。


冷凍庫で、静かに、静かに冷やしたペットボトルの水。

凍るはずの温度を下回っているのに、中の水は、液体のまま揺れていた。

それを、指で、こつんと叩いた――瞬間。

水が、一瞬で、白く凍りついた。


(……過冷却)


揺らさずに冷やした水は、凍るべき温度を過ぎても、凍らずに液体のまま留まることがある。

そして、何かの衝撃をきっかけに、一気に凍りつく。


――泡の膜なら。


外の揺れを遮って、中の水を、完璧に静かなまま冷やしておける。


「……っ」


もう一度、泡を作る。

今度は、膜を厚く、硬く。外からの振動が、一切伝わらないように。

水を閉じ込めて、【プチフロスト】の冷気を、息を殺すように、ほんの少しずつ流し込む。

揺らさない。

泡を、ほんのわずかも揺らさない。

指先の感覚だけを頼りに、中の水の冷たさを探る。


――凍らない。


冷たいのに、まだ、凍っていない。


(……よし)


俺は、その泡を、そっと宙に押し出した。

ふわり、と漂った泡が、池のほとりの大きな岩に、触れる。

ぱちん。

膜が弾けた――その、瞬間。


音は、しなかった。

弾けた水が、岩の表面に触れた途端、白く、一瞬で凍りついた。

中心から、放射状に。

まるで、灰色の岩肌に、真っ白な花が一輪、咲いたように。


「……」


後ろで、ネルが息を呑む気配がした。


「……きれい」


小さな、呟きだった。

俺も、しばらく、その白い花から目が離せなかった。


水蒸気爆発とは、正反対だ。

音も、光も、熱もない。

ただ、触れたものを、静かに、一瞬で止める。


「……過冷却(フロストバブル)」


気づけば、口からその名前がこぼれていた。


「……ただ、まだ全然だめだ」


俺は、苦笑いして立ち上がった。

今のは、止まっている岩に、ゆっくり漂わせて当てただけだ。

冷やすのに時間がかかる。少しでも揺れれば、途中で凍ってしまう。

素早く動く相手に、狙って当てるなんて、まだ到底できそうにない。


「練習、しないとな」


「……あたしもね」


ネルが、割れた小石を握りしめて、にっと笑った。


◇


気づけば、日が傾き始めていた。

稽古で汗をかいたせいか、喉がからからだ。


「池の水、飲めないかな」


「やめときなさいよ。溜まり水はお腹壊すわ。……この奥の森に、沢があるの。そっちのほうが綺麗」


ネルの案内で、石切り場の裏手から、森の中へと分け入る。

木々が、だんだんと深くなっていく。

せせらぎの音が、近づいてきた。

沢は、苔むした岩の間を、細く澄んだ水が流れる、静かな場所だった。

俺は水筒を満たそうと、流れのそばにしゃがみ込んで――。


「……リト」


ネルの声が、硬かった。


「あれ」


ネルが指さす先。

沢の向こう岸の、木々の間。

最初は、朝靄が残っているのかと思った。


違う。

白い、糸だった。

木と木の間に、太い糸が、幾重にも張り巡らされている。

それも、手のひらほどの森蜘蛛が張るような、細い巣じゃない。

一本一本が、俺の指ほどの太さがある。


「……糸」


ネルが、かすれた声で呟いた。


「綻びの?」


「違う。……本物の、糸」


そして、その糸の中心に。

何かが、吊るされていた。

大きな、獣の骸だった。

からからに干からびて、中身を吸い尽くされたように、皮と骨だけになっている。

その頭には――鉄のように黒光りする、太い角。


「アイアンホーン……」


俺は、息を呑んだ。

森の街道で暴れることもあるという、鉄の角を持つ巨大な角鹿。

Dランクの魔物だ。

Eランクの冒険者が数人がかりでも、手を焼く相手。


「……なあ、ネル」


喉が、ひりついた。


「ギルドに出てた蜘蛛の依頼、森蜘蛛だったよな。手のひらくらいの、小さいやつ」


「……うん」


「森蜘蛛に、Dランクの角鹿なんて、倒せるか?」


ネルは、答えなかった。

答えなんて、わかりきっていた。

あの糸を張ったのは、森蜘蛛じゃない。

もっと大きくて、もっと危険な、何かだ。


「……蜘蛛の糸なら、火に弱いはずだ。焼き払えば――」


「バカ言わないで」


ネルが、ぴしゃりと遮った。


「森の中で火なんか使ったら、山火事になるわよ。あの糸、どこまで続いてるかもわかんないのに」


「……そう、だな」


それに、とネルは、糸の奥の暗がりを睨んだ。


「もし、あの中に、誰か捕まってたらどうすんの。糸ごと、燃やすつもり?」


その言葉に、背筋が、すうっと冷えた。

沢のせせらぎだけが、やけに大きく聞こえる。

干からびた角鹿の骸が、風もないのに、ゆらりと揺れた気がした。


(……火じゃ、ダメなんだ)


ふと、自分の指先を見下ろす。

ついさっき、岩肌に咲いた、真っ白な氷の花。

音もなく、触れたものを、一瞬で止める泡。


「……帰ろう、ネル。ギルドに、知らせないと」


「……うん」


俺たちは、水筒を満たすのも忘れて、足早に沢を後にした。


背中に、誰かの視線が張りついているような気がして――一度も、振り返ることができなかった。



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