剣聖と、チビ種火
夜明け前の王都は、驚くほど静かだった。
眠り羊亭を抜け出した俺は、まだ薄暗い石畳を歩いて、ギルド本部の裏手へ向かっていた。
本部の裏には、冒険者なら誰でも使える、土の地面の訓練場がある。
昼間は腕自慢たちでごった返しているが、この時間なら誰もいないはずだった。
(剣の型くらいは、毎日振っとかないとな)
父さんに叩き込まれた五年分の剣は、少しでもサボると、すぐに身体から抜けていく。
泡の鍛錬は宿の部屋でもできる。けれど、剣だけは、広い場所じゃないと振れない。
訓練場の木戸を押し開けて――俺は、足を止めた。
――ヒュッ。ヒュッ。
先客がいた。
朝靄の中、一人の少年が、黙々と木剣を振っている。
陽の光を集めたような金髪。
けれど、いつもの白銀の鎧は脱いで、汗で肌に張りついた、薄いシャツ一枚だった。
(……レオンハルト?)
ギルドのホールで、取り巻きに囲まれていた【剣聖】の新人。
その姿からは想像もつかないほど、泥臭い素振りだった。
振り下ろす。構え直す。また振り下ろす。
同じ動きを、ただ、延々と。
よく見れば、木剣を握る手のひらには布が巻かれ、その布に、赤黒い染みがにじんでいた。
豆が潰れて、そのまま振り続けているのだ。
(当たりスキルでも……あんなに、振るのか)
【剣聖】。
一度見た剣技を、身体が覚えるスキル。
そんなものがあれば、努力なんていらないんだと、勝手に思っていた。
レオンハルトが、ふと、動きを止めた。
肩で荒い息をつきながら、こちらを振り返る。
青い瞳が、木戸の前に立つ俺を捉えた。
「…………」
一瞬、その目に、ひどく気まずそうな色が浮かんだ気がした。
けれど、すぐに、いつもの冷たい顔に戻る。
レオンハルトは、足元に置いていた白銀の鎧と長剣を拾い上げると、無言で俺の横を通り過ぎた。
「……見るな」
すれ違いざま、低く、それだけ言い残して。
朝靄の向こうに消えていく背中を、俺はしばらく、黙って見送っていた。
◇
その日の昼。
ギルド本部の大ホールには、見慣れない数の新人冒険者たちが集められていた。
「――以上が、魔物の生態と、依頼を受ける際の基本的な心得だ。耳の穴かっぽじって、よく覚えとけ」
壇上で声を張り上げているのは、顔に大きな傷のある、筋骨隆々の教官だった。
元Bランクの冒険者らしい。
登録して一ヶ月以内の新人は、この『新人講習』を一度は受けなければならない決まりなのだそうだ。
講習の内容は、正直、かなり役に立った。
魔物ごとの弱点、野営の注意、ギルドへの報告の仕方。
けれど、周りの新人たちの目当ては、どうやら最後の一つらしかった。
「最後に、模擬戦を行う! 二人一組、木剣での立ち合いだ! 組み合わせは、くじで決める!」
ホールが、わっと沸いた。
訓練場へと移動しながら、あちこちで「誰と当たるかな」「剣聖様とだけは当たりたくねぇ」と、浮ついた声が飛び交っている。
講習を受ける必要のないネルは、訓練場の柵の外から、腕を組んでこちらを見ていた。
「リト! 変なのと当たっても、怪我だけはしないでよ!」
「わかってるって」
苦笑いしながら、教官の差し出す箱に手を入れる。
引いた木札には、『七』と書かれていた。
次々と組み合わせが読み上げられていく。
そして――。
「七番! リト! 対――」
教官が、手元の札を見て、一瞬だけ眉を上げた。
「――レオンハルト・フォン・ヴァイスベルク!」
一拍の静寂。
それから、訓練場が、割れんばかりの歓声に包まれた。
「うおおおっ! チビ種火と、剣聖だ!」
「くじ運なさすぎだろ、チビ種火!」
「一撃だ、一撃! 賭けるか? 十数える前に終わるに銀貨一枚!」
「賭けにならねぇよ!」
笑い声と野次が、四方八方から降ってくる。
訓練場の向こう側で、白銀の鎧を身につけたレオンハルトが、無言で木剣を手に取っていた。
朝の、あの泥臭い素振りの面影は、どこにもない。ただ、冷たい青い瞳が、まっすぐに俺を見ている。
(……一撃で、負ければいい)
俺は、木剣を握りながら、頭の中で算段を立てた。
相手は【剣聖】。周りの誰もが、瞬殺を予想している。
それなら、最初の一撃で木剣を弾き飛ばされて、「やっぱりな」と笑われて終わる。
それが一番、目立たない。
「――始めッ!」
教官の声が、訓練場に響いた。
その瞬間、レオンハルトの姿が、ぶれた。
――速いッ!
気づいたときには、もう目の前にいた。
木剣が、風を纏って振り下ろされる。
刃のない木の塊なのに、空気が裂ける音がした。
【剣聖】の魔力を乗せた、本気の一撃――。
(――あ)
身体が、勝手に動いた。
――ガンッ!!
木剣と木剣が噛み合い、腕が痺れるほどの衝撃が走る。
受け流していた。
五年間、父さんの打ち込みを受け続けてきた身体が、考えるより先に、刃の軌道に合わせて木剣を滑り込ませていたのだ。
「――っ!?」
レオンハルトの目が、わずかに見開かれる。
だが、すぐに二撃目。
横薙ぎの一閃。低く、鋭く、脚を刈りにくる。
(ちょ、待っ――)
――ガッ!
また、受けてしまった。
半歩下がって間合いを外し、木剣の腹で軌道を逸らす。
父さんの剣に比べれば、ほんの少しだけ、読みやすかった。
――読めて、しまった。
三撃目。
上段からの、渾身の振り下ろし。
これは、さすがに――。
――ガァンッ!!
受けた。
膝が軋み、手首が悲鳴を上げる。
それでも、木剣は、手から離れなかった。
訓練場が、いつの間にか静まり返っていた。
あれほど騒いでいた野次が、ぴたりと止んでいる。
(まずい。まずい、まずい)
冷や汗が、背中を伝う。
(父さんの剣に慣れすぎてて、つい受けちゃった……!)
十数える前に終わるはずの試合が、もう三合も続いている。
このままじゃ、目立つ。
レオンハルトが、四撃目のために、わずかに間合いを取った。
さっきまでの三撃に比べれば、ほんの少しだけ軽い、繋ぎの一撃。
(――ここだ)
俺は、わざと、木剣を握る指の力を抜いた。
――カンッ。
乾いた音とともに、俺の木剣が宙を舞い、訓練場の土の上に転がった。
首筋に、レオンハルトの木剣の切っ先が、ぴたりと突きつけられる。
「そ、そこまで! 勝者、レオンハルト!」
教官の声が響いた、次の瞬間。
訓練場が、爆発したような歓声に包まれた。
「うおおおおっ! さすが剣聖!」
「なんだよ、チビ種火のくせに、三回も受けやがって! ヒヤッとさせんな!」
「バーカ、剣聖様がちょっと遊んでやってただけだろ」
「だよな。最初から、いつでも決められたんだって」
周りの冒険者たちが、勝手に納得していく。
三合持ちこたえたのは、剣聖の手加減。
そういうことに、なってくれたらしい。
俺は、痺れた手首をさすりながら、心の底から安堵の息を吐いた。
(……助かった。みんな、そういうことにしてくれるなら――)
「……おい」
低い声が、すぐ目の前から落ちてきた。
顔を上げると、レオンハルトが立っていた。
勝ったはずなのに、その顔には、笑みのかけらもなかった。
「――おかしいだろ」
周りの歓声にかき消されるほどの、小さな声だった。
けれど、その青い瞳は、刃物のように鋭く、俺だけを射抜いていた。
「俺は、一撃も手加減していない」
「……」
「俺の本気を、三度も受け流した奴が。なんで一番軽い四度目で、剣を落とす」
心臓が、どくんと跳ねた。
「……たまたま、ですよ。運よく、三回受けられただけで。四回目で、手が痺れて――」
「運で、剣聖の剣は受けられない」
ぴしゃりと、言い切られた。
レオンハルトは、しばらく黙って、俺の顔を睨みつけていた。
周りの冒険者たちが、「おい、剣聖様がチビ種火に何か言ってるぞ」「説教か?」と、囁き交わしている。
やがて、レオンハルトは、吐き捨てるように背を向けた。
「……チビ種火」
振り返らないまま、声だけが落ちてくる。
「お前、何を隠してる」
白銀の背中が、人混みの向こうへ遠ざかっていく。
俺は、土の上に転がった木剣を拾うことも忘れて、その場に立ち尽くしていた。
その日の夕方。
ギルドのホールに、受付嬢の明るい声が響いた。
――レオンハルト・フォン・ヴァイスベルク、Eランクへ昇格。
ホールは、またしても大きな拍手に包まれていた。
◇
「……剣聖の本気を、三合、か」
二階の回廊。
教官からの報告を聞き終えたギルドマスターは、手すりに肘をついたまま、低く呟いた。
「で、最後は、一番軽い一撃で剣を落とした、と」
「はい。俺も、妙だとは思いました。ありゃあ、押し負けたって落とし方じゃない」
傷顔の教官が、首をひねる。
「まるで……負けどころを、選んだみたいな」
ギルドマスターは、答えなかった。
ただ、太い指で、手すりをとん、とん、と叩く。
「……負け方の上手い新人、か」
その呟きは、誰に聞かせるでもなく、夕暮れのホールに溶けていった。
◇
その夜。
眠り羊亭の、狭い食堂の隅。
女将さんが出してくれた豆のスープを前に、ネルはずっと黙っていた。
スプーンで、スープをぐるぐるとかき混ぜるだけで、一口も飲もうとしない。
「……ネル? 冷めるぞ」
「……わざとでしょ」
ぽつりと、ネルが言った。
「最後の。わざと、剣、落としたでしょ。……あたし、見てたんだから」
「……」
誤魔化す気には、なれなかった。
ネルは、俺の秘密を知っている、ただ一人の相手だ。
「……うん。わざと」
「なんでよ」
ネルが、顔を上げた。
琥珀色の瞳が、潤んで揺れていた。
「悔しくないの? みんなに笑われて。あいつの手加減だって、勝手に決めつけられて」
「悔しいよ」
正直に、答えた。
「……悔しいよ。でも、これでいいんだ。目立ったら、困るのは俺だけじゃない。ネルだって――」
「あたしは、悔しい」
俺の言葉を遮るように、ネルが言った。
スプーンを握る手が、小さく震えている。
「あんたが、笑われるの。……あたし、すごく、悔しい」
食堂の喧騒が、少しだけ、遠くなった気がした。
俺は、何も言えなかった。
力を隠すこと。目立たないように、負けること。それは、俺が自分で選んだことだ。
笑われるのは、俺ひとりで済むと思っていた。
でも――隣に座るこの子は、俺が笑われるたびに、こんな顔をしていたのか。
「……ごめん」
それだけ、やっと言えた。
ネルは、ふいと顔を背けて、ぐいっとスープを飲み干した。
「……別に。謝ってほしいわけじゃないし」
空になった椀を、どん、と机に置く。
それから、そっぽを向いたまま、小さな声で付け足した。
「……いつか、ちゃんと見返してやりなさいよ。あいつにも、みんなにも」
伏せられた狐耳の先が、ランプの灯りに、ほのかに赤く照らされていた。
☆をくれる未来のあなたへ。先にお礼を言わせてください。ありがとうございます!




