その刃、どこで
「……うーん」
朝の眠り羊亭。
狭い部屋の窓辺で、俺は父さんのナイフを陽にかざして唸っていた。
ホーンラビット二十匹に、ゴブリン、それに毎日の採取。
五年間使っていた練習用のナイフとは比べものにならない業物だけれど、さすがにここ最近の酷使で、刃先にわずかな曇りが出てきている。
「なに朝から唸ってんのよ」
扉の向こうから、ネルがひょいと顔を出した。
手には、女将さんにもらったらしい、湯気の立つ麦粥の椀が二つ。
「いや、ナイフの刃がさ。ちょっと鈍ってきたなって...」
「研ぎに出しなさいよ。刃物は命綱なんだから」
ネルは椀の片方を俺に押しつけると、窓枠に腰かけた。
「……ばあちゃんが贔屓にしてた鍛冶屋、知ってるわ。仕立て屋の鋏も、針も、全部そこで打ってもらってたの。偏屈だけど、腕は確かよ」
◇
連れていかれたのは、下層区のさらに奥。
煤で真っ黒になった煉瓦の壁に、鉄の看板がひとつだけ下がっている。
扉を開けた途端、むわりとした熱気と、鉄を打つ音が顔を叩いた。
――カァン。カァン。
炉の赤い光の前で、ずんぐりとした背中が、槌を振り下ろしていた。
背丈は、俺の胸くらいまでしかない。けれど、腕の太さは俺の脚ほどもある。
煤に汚れた顔の下には、三つ編みに編み込まれた、灰色の長い髭。
ドワーフだ。
「……客か。今、手が離せん。そこで待っとれ」
振り向きもせず、しわがれた声が飛んでくる。
「ガンツ親方。あたし。ネル」
槌の音が、止まった。
ずんぐりとした背中が、ゆっくりと振り返る。
太い眉の下の小さな目が、ネルを見て、わずかに見開かれた。
「……ばあさんとこの、小娘か」
「小娘じゃないってば。もう十六よ」
「儂からすりゃ、十六も六つも変わらん」
ぶっきらぼうな口ぶりなのに、その声は、さっきよりほんの少しだけ柔らかかった。
親方は槌を置くと、煤けた前掛けで手を拭いながら、俺のほうをじろりと見上げた。
「で。そっちの坊主は」
「リトです。ネルとパーティを組んでて……このナイフを、研いでもらいたくて」
腰から鞘ごとナイフを外し、差し出す。
親方は面倒くさそうにそれを受け取ると、無造作に鞘から刃を引き抜いた。
――その手が、止まった。
炉の火に照らされた刃を、親方は、じっと見つめていた。
一秒。二秒。
やがて、太い指が、刃の根元――柄に隠れるほどの場所をなぞる。
そこには、俺も今まで気にも留めていなかった、小さな刻印が彫られていた。
二本の線が交わったような、見慣れない印。
「…………」
鍛冶場の空気が、変わった。
さっきまで響いていた炉のうなりさえ、遠くなった気がする。
「……坊主」
低い声だった。
「こいつを、どこで手に入れた」
「え……父さんから、もらったんです。村を出るときに。オーウェルっていう――」
親方の肩が、ぴくりと揺れた。
長い、深い沈黙。
ネルが、不安そうに俺と親方の顔を見比べている。
やがて、親方は、ふう、と一つ、深い息を吐いた。
そして、髭の奥で――ほんのわずかに、笑った。
「……そうか」
ナイフを、そっと台の上に置く。
まるで、壊れ物を扱うような手つきだった。
「親父さんは、元気か」
「え? あ、はい。元気です。毎日、狩りに出てて……」
「狩り、か」
親方は、何かを噛みしめるように呟いた。
「……あの、父さんのこと、知ってるんですか?」
「……」
「このナイフ、何なんですか? 父さんは、昔――」
「本人に聞け」
ぴしゃりと、遮られた。
親方は、それ以上何も言わず、ナイフを手に炉の脇の砥石へと向かう。
「研いでやる。夕方に取りに来い」
「あ、はい。お代は――」
「いらん」
即答だった。
「こいつから金なんぞ取れるか」
◇
夕方。
約束通り鍛冶屋を訪ねると、親方は研ぎ上がったナイフを、無言で差し出してきた。
受け取って、少しだけ鞘から抜いてみる。
刃が、光を吸い込むように、鈍く、深く輝いていた。
朝までの曇りが、嘘のようだった。
「……ありがとうございます」
「坊主」
帰ろうとした背中に、親方の声がかかった。
振り返ると、親方は炉の火を見つめたまま、ぼそりと続けた。
「そのナイフ、見る奴が見りゃ、一発でわかる代物だ」
「……え」
「腰に下げて、そのまま歩くのはやめとけ。柄に布でも巻いとけ。……余計なもんを、呼び寄せたくなけりゃな」
その言葉に、背筋がすっと冷えた。
――見る奴が見れば、一発でわかる。
脳裏に、あの日のギルドのホールがよみがえる。
音もなく歩いてきた、銀髪のダークエルフ。
すれ違いざま、一瞬だけ止まった、紫の瞳。
あの人が見ていたのは、俺の顔じゃなかった。
――このナイフだった。
(……あの人、気づいてた?)
何に、気づいたのかはわからない。
でも、S級冒険者が、足を止めてまで目を留めるような何かが――このナイフには、ある。
「……気をつけます」
かろうじて、それだけ返す。
親方は、もうこちらを見てはいなかった。
ただ、炉の火に照らされた横顔が、どこか遠い昔を懐かしんでいるように見えた。
◇
「……ねえ。あんたの父さんって、何者なの?」
帰り道。
夕焼けに染まる下層区の路地を歩きながら、ネルがぽつりと聞いた。
「ただの狩人……のはず、なんだけどな」
自分で言っていて、どんどん自信がなくなってくる。
木剣を振ったときの、あの眼光。
『S級冒険者に会ったこと、ある?』と聞いたときの、あの一瞬の間。
『俺が現役の頃に使ってたナイフだ』という、何気ない一言。
そして、ドワーフの親方の、あの顔。
「……全然、わかんなくなってきた」
「ふーん」
ネルは、少しだけ考えるように黙った。
それから、いきなり俺の腰に手を伸ばすと、ナイフを鞘ごと、ひょいと抜き取った。
「ちょっ、ネル?」
「いいから。貸して」
ネルは道端の木箱に腰を下ろすと、胸元の革袋から針と糸、それに、くすんだ茶色の布切れを取り出した。
繕い物の余り布だろう。
それを鞘と柄にあてがうと――針が、走った。
やっぱり、速い。
迷いのない針先が、布を柄の形にぴたりと沿わせ、鞘の口までをすっぽりと包み込んでいく。
瞬きを、十数回するくらいの間。
「……はい」
差し出されたナイフは、どこにでもある、くたびれた布巻きの安物にしか見えなくなっていた。
抜くときには、布ごと柄を握れば、何の邪魔にもならない。
「目立ちたくないんでしょ」
ネルは、ふいとそっぽを向いた。
「これで、ただの安物に見えるわよ。……布代は、タダにしといてあげる」
「……ありがとう、ネル」
「べ、別に。親方に言われたこと、ちゃんと守らないと、ばあちゃんに怒られそうな気がしただけだし」
そう言いながら、赤茶の尻尾が、ゆらゆらと揺れていた。
◇
その夜。
眠り羊亭の、硬いベッドの上で、俺は安い羊皮紙に向かってペンを走らせていた。
村を出てから、初めての手紙だ。
『父さん、母さんへ。
王都に着きました。冒険者登録もしました。ランクはFです。
仲間ができました。ネルっていう、狐の獣人の女の子です。口は悪いけど、すごく面倒見がいい子です。
二人でパーティを組みました。名前は『仄かな灯』です。』
そこまで書いて、ペンが止まった。
本当は、聞きたいことが山ほどあった。
このナイフは、何なのか。
父さんは、昔、何をしていたのか。
母さんは、どうしてあんなに完璧な魔法を使えるのか。
ドワーフの親方と、どういう知り合いなのか。
でも。
『本人に聞け』
あの親方の言葉が、耳の奥で響いていた。
これは、手紙で聞くようなことじゃない。
いつか、ちゃんと顔を見て、聞かなきゃいけないことだ。
俺は、書きかけた問いを飲み込んで、代わりに一行だけ書き足した。
『父さんのナイフ、すごく使いやすいです』
手紙を丁寧に折りたたみ、枕元に置く。
その隣に、ネルが布を巻いてくれたナイフを、そっと並べた。
くたびれた茶色の布の下で、父さんの刃が、今も静かに眠っている。
(……父さん。あんた、本当は、何者なんだよ)
答えの返ってこない問いを、胸の奥に仕舞い込んで。
俺は、ランプの灯りを、ふっと吹き消した。
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