綻びって、布だけのものか?
王都に戻る頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。
ギルド本部の受付に癒し草の束を並べると、昨日登録を担当してくれた受付嬢が、にこりと笑った。
「リトさん、お疲れさまです。癒し草十束、確かに。……あら、ネルさんもご一緒だったんですね」
「別に、一緒ってわけじゃないし。たまたま同じ丘だっただけ」
ネルはそっぽを向いて、自分の籠をどさりとカウンターに置いた。
それから、少しだけ言いにくそうに、口を開く。
「……それと、報告。東の丘の森の縁で、ゴブリンが出た。四体」
受付嬢の手が、ぴたりと止まった。
「ゴブリンが……王都の東の丘に、ですか?」
「そう。あそこ、駆け出しがしょっちゅう採取に行くでしょ。言っとかないと、誰か襲われるかもしれないし」
ぶっきらぼうな口調だった。
けれど、それが誰のための言葉なのかは、聞いていればわかる。
(……自分のことは後回しなんだな、この子)
「お二人は、ご無事だったんですか?」
「あ、はい。俺が剣で何とか。途中で一体、勝手に足を滑らせて転んでくれたんで、運がよかったです」
嘘は言っていない。
転ばせたのが俺だということを、言っていないだけだ。
「最後の一体は、ネルが倒しました」
「……たまたま、刺さっただけよ」
ネルが、小さく付け足した。
受付嬢は、真剣な顔で羊皮紙にペンを走らせていく。
「わかりました。報告、ありがとうございます。……実は最近、似たようなお話がいくつか上がっているんです。本来いないはずの場所で、魔物を見かけた、って」
(……いくつか?)
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
黒樹の森のバイソンボア。街道のファングベア。そして、今日のゴブリン。
「目撃情報の謝礼として、お一人大銅貨一枚をお渡ししますね」
そのとき、背後から聞き覚えのある笑い声が飛んできた。
「おいおい、聞いたか? チビ種火と荷物持ちの狐が、ゴブリン四体だってよ!」
「盛りすぎだろ。一匹の見間違いじゃねぇのか?」
どっと沸く笑い声。
ネルの狐耳が、ぴくりと伏せられる。
俺は、ほっと胸を撫で下ろしていた。
(……よかった。誰も信じてない)
笑われているうちは、安全だ。
ただ、隣でうつむくネルの横顔を見ると、少しだけ、胸がちくりと痛んだ。
◇
その夜。
宿の固いベッドに寝転がり、俺は天井の木目をぼんやりと眺めていた。
目を閉じると、昼間の光景が浮かんでくる。
ネルに飛びかかる、最後の一体。
突き出されたナイフが、吸い込まれるように膝の裏へ入っていく瞬間。
(……それに、あの泡)
右手を、天井へかざす。
指先から、米粒ほどの泡がひとつ、ぽんと生まれた。
ロックリザードのときと、今日のゴブリン。とっさの場面で、二度もこいつに助けられた。
(いい加減、名前くらい付けてやるか)
地面に敷いて、踏んだ足を滑らせる泡。
――滑り泡。
我ながら、そのまんまだ。
でも、地味なくらいがちょうどいい。目立たない技ほど、今の俺には使い勝手がいい。
泡が、ぱちんと弾けた。
その音に重なるように、ネルの声が耳の奥によみがえる。
『……糸、みたいなのが、見えた気がしたの』
服のほつれが見えるだけのスキル。
鑑定士にそう言われて、本人もずっと、そう信じてきた。
(……泡を出すだけのスキル、って言われたときの俺と、同じだ)
五歳の頃、自室の床で考えたことを思い出す。
――ただの泡だ。破れやすく、軽く、無力。
だけど、『境界』を作る能力だと考えたらどうだ?
見方を変えただけで、俺の泡は、兵器にまで化けた。
だったら。
『ほつれ』が見えるだけじゃなく――『綻び』そのものが見えるのだとしたら。
(……明日、聞いてみるか)
窓の外で、王都の夜が静かに更けていった。
◇
翌日の昼過ぎ。
採取を一段落させた俺たちは、丘の麓を流れる小川のほとりで、休憩を取っていた。
ネルは平たい石に腰かけて、膝の上の籠と睨めっこをしている。
昨日、ゴブリンに襲われたときに放り出した籠だ。
その拍子に、背負い紐が根元からちぎれてしまったらしい。
「新しいの、買えばいいのに」
「買えるわけないでしょ。籠ひとつで大銅貨二枚よ、二枚。銅貨一枚だって無駄にできないって、言ったじゃない」
ネルは、胸元の革袋から針と糸を取り出しながら、ぶつぶつと続ける。
「……それに、ばあちゃんが言ってたし。綻びは、見つけたらすぐ繕えって」
針が、ちぎれた紐の端へ吸い込まれていく。
やっぱり、迷いがない。
ほつれた繊維の一本一本がどこへ向かっているのか、最初から全部わかっているような手つきだった。
「……ま、こういうのだけは得意だから」
ネルは、自嘲するように鼻を鳴らした。
「どうせ、針子スキルだし」
投げやりな声。
昨日から、もう何度聞いただろう。
俺は川面に視線を落としたまま、できるだけ何気ない調子で、口を開いた。
「なあ、ネル」
「なによ」
「綻びって、布だけのものか?」
針を動かしていたネルの手が、止まった。
「……は?」
「いや、ほら。スキルの名前は【綻び】だろ? 『ほつれが見える』って言われたのは知ってるけどさ。綻びって、別に布だけにあるもんじゃないよな、と思って」
ネルは、ぽかんと口を開けて俺を見た。
それから、呆れたように溜息をつく。
「……あんた、何言ってんの? 鑑定士が、服のほつれが見えるスキルだって言ったのよ。スキルは、鑑定で言われた通りにしか使えないの。常識でしょ」
「そうかな」
「そうよ。……ほら、見なさいよ。こんな石ころに、ほつれなんか――」
面倒くさそうに、ネルは足元の小石に目をやった。
川の水に洗われた、手のひらほどの灰色の石。
「――見える、わけ……」
声が、途切れた。
琥珀色の瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
「……え」
ネルの視線は、石に釘付けになっていた。
俺には、何も見えない。
ただの、どこにでもある石だ。
けれど、ネルの目には――。
「……糸」
掠れた声だった。
「糸が、一本……石から、ほつれて、出てる……」
ネルの指先が、震えていた。
恐る恐る、その手が石へと伸びる。
摘まんでいた針の先が、石の表面の、何もない一点に触れた。
そして、見えない何かをなぞるように、すっと、横へ滑る。
――ぱきん。
乾いた、小さな音。
手のひらほどの石が、真っ二つに割れて、ころりと川べりに転がった。
断面は、まるで最初から二つの石だったかのように、滑らかだった。
「…………」
「…………」
川のせせらぎだけが、やけに大きく聞こえた。
ネルは、針を持ったまま、固まっている。
俺も、息をするのを忘れていた。
(……本当に、見えてたんだ)
「な、なに今の。なにこれ。あたし、なにしたの……?」
ネルは、割れた石と、自分の手を、交互に見比べた。
それから、弾かれたように立ち上がると、近くに落ちていた枯れ枝を拾い上げる。
じっと、睨みつけるように見つめて――針先で、すっとなぞる。
――ぱきり。
枝が、なぞった場所から、綺麗に二つに分かれた。
今度は、川べりに倒れていた、腕ほどの太さの流木。
ネルは腰のナイフを抜き、刃先を、見えない糸に沿わせる。
力を込めた様子は、どこにもなかった。
なのに流木は、まるで切り分けられるのを待っていたかのように、すうっと二つに割れていった。
「……うそ」
ネルが、へたり込むように膝をついた。
「うそ、うそ……だって、あたしのスキル、服のほつれが見えるだけで……っ」
そこで、ネルは顔をしかめ、片手で目元を押さえた。
「……っ、痛……」
「ネル!」
「……平気。ちょっと、目の奥が……焼けるみたいに、じんじんするだけ」
浅い息をつきながら、ネルは瞼を強く閉じる。
「布を見てるときは、こんなことないのに……石とか、木とか見ると、頭の奥がきゅうってなって……」
「無理するな。今日はもう、見るのやめとけ」
「……うん」
ネルは、素直に頷いた。
それが、この子らしくなくて、余計に心配になる。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、目を閉じたまま、ネルがぽつりと呟いた。
「……前にもね。見えたこと、あったの」
「え?」
「荷物持ちで、ついていったとき。パーティが魔物と戦ってて、あたしは後ろで震えてて……そのとき、魔物の身体に、一瞬だけ。糸みたいなのが、ちらって」
ネルの声が、かすかに震える。
「でも、すぐ消えちゃうし。怖くて、目がおかしくなったんだって思ってた。疲れ目だって。……昨日の、ゴブリンのときも」
「……見間違いじゃ、なかったんだな」
「……うん」
ネルは、ゆっくりと目を開けた。
それから、割れた石の片方を拾い上げ、両手でぎゅっと握りしめる。
まるで、それが本物かどうかを確かめるみたいに。
「あたし……」
声が、揺れていた。
「あたし……ハズレじゃ、なかったの……?」
うつむいた顔は、赤茶の髪に隠れて見えない。
けれど、ふさふさの尻尾が、小刻みに震えていた。
強がりで、口が悪くて、銅貨一枚にうるさくて。
それでも、誰かが襲われないようにと、真っ先にギルドへ報告するような子が。
ずっと一人で、『ハズレ』を背負ってきたのだ。
一歳の、あの日。
鑑定士が申し訳なさそうに告げた、『少々残念な結果』という言葉。
それを、父さんは豪快に笑い飛ばして、母さんは愛おしそうに抱きしめてくれた。
俺には、あの二人がいた。
この子には――誰も、いなかった。
「スキルの名前なんて、ただの名前だよ」
気づけば、口が動いていた。
「鑑定士が、何て言ったかなんて関係ない。そのスキルで何ができるかは、使う奴が自分で決めていいんだ」
ネルが、ゆっくりと顔を上げた。
琥珀色の瞳が、潤んで揺れている。
その目が、まっすぐに、俺を映していた。
「……あんた」
小さな声で、ネルが言った。
「……なんで、そんなこと、知ってんのよ」
川面を渡る風が、二人の間を吹き抜けていく。
割れた石を握りしめたまま俺を見つめるネルに、俺はすぐには答えられなかった。
リトは目立ちたくないそうですが、作者は目立ちたいです。
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