ネルと、毛皮
翌朝。
昨日と同じ東の丘に着くと、見覚えのある赤茶色の頭が、草むらの中からぴょこんと覗いていた。
大きな狐耳。背中には空っぽの籠。
少女は丘の一番上の岩に腰かけて、所在なさげに足をぶらぶらさせている。
「……おはよう」
声をかけると、狐耳がびくっと跳ねた。
「――っ、お、遅いのよ! 日が昇ってから、もうだいぶ経ってるんだけど!」
「え、待っててくれたの?」
「待ってない!」
即答だった。
「別に、待ってたわけじゃないし。あたしはたまたま、たまたま今日もここで採取する予定だっただけで、あんたが来るのをずっと見張ってたとか、そういうのじゃ全然ないから」
そう言い張る彼女の後ろで、ふさふさの尻尾が、ぱたぱたと元気よく草を叩いていた。
……たぶん、本人は気づいていない。
(尻尾、正直すぎるだろ……)
笑いを噛み殺しながら、俺は懐から銅貨を三枚取り出した。
「じゃあ、今日も案内お願いできるかな。えっと……」
そこで、言葉に詰まる。
昨日、聞きそびれたままだった。
「……ネル」
少女が、銅貨をひったくるように受け取りながら、ぼそりと言った。
「あたしの名前。ネル。……あんたは?」
「リト」
「ふーん。チビ種火でいいでしょ」
「よくない」
「銅貨三枚じゃ、名前で呼ぶ分までは入ってないの」
「名前って有料なの!?」
ネルは答えず、ふん、と鼻を鳴らして歩き出した。
けれど、その口の端が、ほんの少しだけ持ち上がっていたのを、俺は見逃さなかった。
◇
二日目の採取は、昨日よりずっと捗った。
癒し草の見分け方は、もう身体が覚えている。ネルに教わった日陰の群生地を回り、根を傷めないように、一本ずつ丁寧に摘んでいく。
手を動かしていると、自然と口も動くものらしい。
「ネルは、どれくらい冒険者やってるの?」
「半年。……あんたより、ずっと先輩なんだから。敬いなさいよ」
「はい、ネル先輩」
「……なんか腹立つ」
他愛のない言葉を交わしながら、草を摘む。
そのうち、ネルの手元に目が行った。
茎を摘む指の動きに、一切の無駄がない。細い指先が、まるで布を撫でるように、草の間をするすると滑っていく。
「……手先、器用だよな。昨日の縫い物もすごかったし」
「別に。小さい頃から、やらされてただけ」
ネルは、摘んだ草を束ねながら、ぽつりと続けた。
「あたし、親の顔、知らないの。下層区の路地で拾われて、仕立て屋のばあちゃんに育てられた。朝から晩まで、針仕事ばっかり」
「……そっか」
「口うるさいばあちゃんでさ。『綻びはね、ほっとくとどんどん広がるんだよ。見つけたら、すぐに繕いな』って、毎日毎日」
懐かしむような声だった。
けれど、ネルはすぐに、ぷいと顔を背ける。
「……もう、いないけどね。死んじゃって、店も借金のかたに取られた。だから、稼いで買い戻すの。ばあちゃんの店」
それだけ言うと、ネルは黙って、また草を摘み始めた。
俺は、何も言えなかった。
前世の俺も、若いうちに両親を失っている。
冷たい部屋で一人、泥のように眠っていた、あの頃。
帰る場所がなくなるということが、どういうことか――少しだけ、わかる気がした。
(……買い戻したい店、か)
誰にも頼らず、たった一人で。銅貨を一枚ずつ、数えながら。
俺は、摘んだ癒し草を、そっと籠に入れた。
◇
昼過ぎ。
二人の籠が半分ほど埋まった頃、足元の草むらが、がさりと揺れた。
「――っ、ホーンラビット!」
ネルが叫ぶより早く、額に小さな角を生やしたウサギが、草むらから弾丸のように飛び出してきた。
俺はほとんど反射で、腰のナイフを抜いていた。
一歩踏み込み、角の突進を半身で躱す。すれ違いざま、逆手に持った刃を、首筋へ一閃。
ホーンラビットは、ころりと草の上に転がり、それきり動かなくなった。
「……へえ」
ネルが、少しだけ目を丸くした。
「あんた、剣は案外まともなのね。魔法はロウソク以下なのに」
「一言余計だよ」
父さんに五年間しごかれた成果だ。
表向きの俺は、『そこそこ筋の良い剣士』。これくらいなら、見せても問題ない。
「角は小銭になるし、肉も売れるわね。……貸して、剥いであげる」
ネルは慣れた手つきでホーンラビットを受け取ると、自分のナイフを抜いた。
刃先が、腹のあたりを、すっ、すっ、と数度なぞる。
それだけで、毛皮が、まるで縫い目をほどいたように、一枚のまま剥がれていった。
力任せに引き剥がす様子は、一度もなかった。
手のひらの上に残った毛皮には、傷ひとつ、ついていない。
「……え」
思わず、声が漏れた。
「今の、どうやったの?」
「どうって、普通に剥いだだけでしょ。慣れよ、慣れ」
ネルは、何でもないことのように毛皮を丸めていく。
「剥ぎ取りだけはね、どのパーティでも重宝されんの。『お前が剥いだ毛皮は高く売れる』って。だから、荷物持ちで雇ってもらえるのよ」
そこで、ネルは小さく肩をすくめた。
「剥ぎ取りも込みで、荷物持ちの値段でね」
(……それ、いいように使われてるだけじゃないか)
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
それに、気になったのは、そこだけじゃなかった。
父さんが獲物を捌くところなら、何百回も見てきた。
あの父さんでさえ、毛皮を剥ぐときには、何度も刃を入れ、ときには力を込めて引き剥がしていた。
なのに、ネルの刃は、一度も迷わなかった。
まるで、どこを切ればほどけるのか、最初からわかっているみたいに。
(……上手い、で済む話なのか? 今のが)
◇
日が傾き始め、二人の籠がいっぱいになった頃。
そろそろ帰ろうかと丘を下りかけた、そのときだった。
――ガサッ。
丘の裾に広がる、森の縁。
その暗がりで、何かが動いた。
「……っ」
ネルの足が、ぴたりと止まる。
木々の間から、ぬるりと姿を現したのは、子供ほどの背丈の、緑がかった肌の小鬼たちだった。
尖った耳。黄色く濁った目。手には、錆びた短剣や、棍棒代わりの木の枝。
一、二、三――四体。
「ゴブリン……!? なんで、こんな王都の近くに……」
ネルの声が、震えていた。
ゴブリン。Eランクの魔物だ。
一体一体は弱いが、群れで獲物を囲み、駆け出しの冒険者を嵌める狡猾さがあるという。
本来なら、もっと森の奥にいるはずの魔物だ。
(……いるはずのない場所に、魔物、か)
頭の片隅を、五年前の記憶がかすめた。
黒樹の森の浅いところに現れた、バイソンボア。
――いや、今はそれどころじゃない。
「ギギッ! ギャギャッ!」
ゴブリンたちが、濁った声で鳴き交わしながら、じりじりと距離を詰めてくる。
俺たちの籠と、小柄なネルを見比べて、にたりと黄色い歯を剥き出しにした。
――弱い獲物を、見つけた顔だ。
「ネル、下がってて」
俺はナイフを構えて、一歩前に出た。
振り返ると、ネルは籠を抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。
顔から、血の気が引いている。
膝が、がくがくと震えていた。
「……む、無理。あたし、戦えないし……っ」
絞り出すような声だった。
――荷物持ちとして、雇われて。
いざ魔物が出れば、パーティの後ろで、ただ震えているしかなかった半年間。
その恐怖が、彼女の足を、地面に縫いつけていた。
「大丈夫。俺がやる」
「ギャアッ!」
先頭の二体が、同時に飛びかかってきた。
一体目の短剣を、ナイフの腹で弾く。がら空きになった脇腹に、返す刃で一閃。
二体目の棍棒が、頭上から振り下ろされる。半歩ずらして空を切らせ、踏み込んで、喉元へ。
二体のゴブリンが、立て続けに草の上へ崩れ落ちた。
(――よし。ここまでなら、『そこそこの剣士』の範囲だ)
だが、その隙に。
残りの二体が、俺の脇をすり抜けて、ネルのほうへ走っていた。
「ネル!」
まずい。距離がある。
ナイフでは、間に合わない。
俺は、とっさに右手を地面へ向けた。
米粒よりも小さな、弾力のある泡を、何十個も。
走るゴブリンの、踏み込む足の先へ――。
――ツルンッ!
「ギャッ!?」
三体目のゴブリンが、何もない草の上で、派手に足を滑らせた。
勢いのまま頭から地面に突っ込み、ごろごろと転がっていく。
ネルからは、ただ勝手に転んだようにしか見えなかったはずだ。
だが――最後の一体が、止まらない。
「ギャギャアッ!」
錆びた短剣を振りかざし、ネルへと飛びかかる。
「――っ」
ネルが、籠を放り出した。
逃げ場はない。
恐怖に引きつった顔のまま、彼女は、腰のナイフを、ほとんどめちゃくちゃに突き出した。
その、一瞬。
ネルの琥珀色の瞳が、大きく見開かれたのが見えた。
まるで、飛びかかってくる小鬼の身体の、ある一点に――何かを、見つけたかのように。
――すっ。
ネルのナイフが、ゴブリンの膝の裏へ、吸い込まれるように入った。
力んだ様子も、狙いを定めた様子もない。
なのに刃は、まるで布の縫い目をほどくように、何の抵抗もなく、するりと抜けて――。
「ギ……ッ」
ゴブリンの脚が、糸の切れた操り人形のように、かくんと崩れた。
短剣が、ネルの頬の横を空しく通り過ぎる。
小鬼の身体は、そのまま前のめりに倒れ込み、ネルの足元で動かなくなった。
「……え……?」
ネルは、ナイフを突き出した格好のまま、固まっていた。
その背後で、転んだ三体目がよろよろと起き上がろうとする。俺は駆け寄って、それを仕留めた。
丘に、静けさが戻る。
夕風が、草を揺らす音だけが聞こえていた。
「……ネル。怪我は?」
「……な、い」
ネルは、ぺたりと草の上に座り込んだ。
それから、ナイフを取り落とし、震える手で、自分の目元を押さえる。
「……っ、痛……」
「目、どうかした?」
「わかんない……目の奥が、じんじんする。疲れてるのかな」
ネルは、ぎゅっと目を閉じたまま、うわ言のように呟いた。
「……今ね。あいつの膝のとこに……糸、みたいなのが、見えた気がしたの。ほつれた糸が一本、ぴろって、出てるみたいな」
「……糸?」
「……うん。変だよね。服でもないのに。怖すぎて、幻でも見たのかも」
ネルは、力なく笑った。
俺は、何も答えられなかった。
倒れたゴブリンの、膝の裏。
刃が入ったそこは、斬られたというより――まるで、最初からそこで分かれていたかのように、綺麗に断たれていた。
(昨日の、袖の縫い目。さっきの、ほどけた毛皮)
そして、今の一撃。
(……見えてるんだ。この子には)
服のほつれが見えるだけのスキル。
本人も、周りも、そう信じて疑っていない。
けれど、もしも――。
夕日が、丘を赤く染めていく。
座り込んだまま目をこするネルの横顔を見つめながら、俺は、胸の奥でざわつく予感を、どうしても抑えられなかった。
ネル「……別に、ブックマークしてほしいとか思ってないし。☆もいらないし」
リト「尻尾、めちゃくちゃ揺れてるけど」
ネル「うっさい!」
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