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Fランクの洗礼と、『無音』のS級


冒険者登録を済ませた、翌朝。


俺は再び、冒険者ギルド本部の依頼掲示板の前に立っていた。


壁一面を埋め尽くす、羊皮紙の依頼書。

右端の『Aランク』の欄には、見るからに物騒な討伐依頼が並び、報酬の欄には金貨の文字が躍っている。


視線を、左へ。左へ。さらに左へ。

一番端の、ほとんど日の当たらない隅っこ。そこが、俺たちFランクの居場所だった。


『下水路の清掃(通称ドブさらい)――報酬:大銅貨三枚』


『倉庫裏の害草ワイルド・ウィードの駆除――報酬:大銅貨二枚』


『東の丘陵にて、癒し草の採取・十束――報酬:大銅貨五枚』


(……大銅貨、五枚)


頭の中で、そろばんを弾く。

今の宿は、一泊で銀貨一枚。大銅貨に直せば、十枚だ。

つまり、一日一件の依頼をこなしたところで、宿代の半分にしかならない。


(……赤字じゃん)


S級冒険者への道は、どうやら宿代との戦いから始まるらしい。


「よう、チビ種火! 今日はロウソクの代わりに、ギルドの灯りでも点けに来たのか?」


背後から飛んできたからかいに、周りの冒険者たちがどっと笑った。

昨日の一件は、一晩ですっかり広まっているらしい。


「あはは……まあ、そんなとこです」


愛想笑いを返して、俺は癒し草採取の依頼書を剥がした。

悔しくないと言えば嘘になる。


けれど、笑われている間は、誰も俺を警戒しない。目立たないというのは、つまりこういうことだ。


(……それにしても、宿はもう少し安いところに移らないとな)


依頼書を手に、受付へ向かおうとした――そのときだった。


ふっ、と。

ホールの喧騒が、途切れた。


誰かが話すのをやめたのではない。

まるで、分厚い布を頭からかぶせられたように、あれほど騒がしかった空気が、一瞬で押し黙ったのだ。


酒臭い男の笑い声も。依頼書をめくる音も。鎧の擦れる音さえも。


「……『無音』だ」


隣にいた冒険者が、喉の奥で、掠れた声を漏らした。

入口の扉のほうから、一人の女が歩いてくる。

褐色の肌に、腰まで届く銀の髪。尖った長い耳。

黒を基調にした軽装に、細身の曲刀が一本。

すらりと背が高く、しなやかな身体の線をした、この世のものとは思えないほどの美女だった。


切れ長の紫の瞳は、何も映していないかのように静かで――それでいて、ホールにいる全員が、彼女に見られているような錯覚に陥っていた。


(……足音が、しない)


石造りの床だ。

俺たちが歩けば、コツコツと靴音が響く。なのに彼女の足元からは、衣擦れの音ひとつ聞こえてこなかった。


「S級の……シェイラだ。なんでこんな時間に本部に……」


「目を合わせるな。死にたくなけりゃな」


ひそひそと交わされる声すら、震えている。


S級。


俺が目指している、この国の頂点。

その一人が、今、すぐ目の前を歩いてくる。

女は掲示板の前を通り過ぎ、そして、俺の横をすれ違った。

その、一瞬。


――紫の瞳が、止まった。


俺の顔にではない。

腰に差した、父さんのナイフに。

ほんの一瞬。瞬きよりも短い時間。

それだけで、背骨を氷の指でなぞられたような寒気が走った。

(――っ)

呼吸が止まる。

指一本、動かせない。

似ている。


十歳のあの日、庭で父さんが木剣を振るった、あの一瞬の眼光に。

女は何も言わず、表情ひとつ変えず、そのまま奥の階段へと消えていった。

やがて、止まっていた時間が動き出したように、ホールにざわめきが戻ってくる。


「……はぁぁ。寿命が縮んだぜ」


「今、あいつのほう見てなかったか? あのチビ種火の」


「まさか。S級がFランクのガキに用なんかあるかよ」


冒険者たちの声を背に、俺はようやく、止めていた息を吐き出した。

手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。


(……なんだ、今の人)


S級冒険者。

いつか、俺も並ぶつもりでいた場所。

その本物を前にして、俺は指一本動かせなかった。


――まだ、全然、足りない。


(……とりあえず、絶対に関わっちゃダメな人だ。それだけはわかる)


俺は腰のナイフの柄を、そっと握りしめた。



◇

受付に向かうと、先客がいた。


「――だから、繕いは頼んでねぇっつってんだろ」


苛立った男の声。

見れば、Eランクの鉄のプレートを下げた、四人組のパーティだった。

そのリーダーらしき男が、目の前の小柄な少女に、銅貨を数枚放り投げている。

チャリン、と。

受け止めそこねた一枚が、カウンターの上を転がった。


「荷物持ちには、これで十分だろ」


「……剥ぎ取りも、やった。テントの穴も、塞いだ」


「勝手にやったんだろうが。頼んでもねぇ仕事に金は払わねぇよ。ハズレスキルのお前を雇ってやってるだけ、ありがたいと思え」


男たちは鼻で笑い、報酬の入った袋を揺らしながら去っていく。

残された少女は、しばらく黙ってうつむいていた。


それから、転がった銅貨を一枚ずつ、丁寧に拾い集める。


「……どうも」


誰もいなくなった背中に向かって、ぽつりと、そう呟いた。

狐の獣人だった。

肩で切り揃えた赤茶の髪から、大きな狐耳が覗いている。今はその耳が、ぺたりと伏せられていた。


あちこちに繕い跡のある、くたびれた外套。

そして――。


(……うわ)


思わず、二度見した。

横顔が、とんでもなく整っていた。

琥珀色の大きなつり目に、長いまつげ。すっと通った鼻筋。

ギルドの薄暗いホールの中で、そこだけ光が差しているような顔立ちだった。

なのに本人は、そんなことにまるで興味がないらしい。髪には寝癖がついたままだし、頬には、どこかで擦ったような土汚れまでついている。


けれど、俺の目を一番引いたのは、顔じゃなかった。

銅貨を握りしめたその手とは反対の手で、彼女は、自分のふさふさした尻尾を、ぎゅっと握り潰していた。


白くなるほど、強く。


まるで、そうしていないと、何かがこぼれてしまうとでもいうように。


(……声、かけるべきか?)


一歩、踏み出しかけて――止まる。

昨日来たばかりの、笑いものの新人が。いきなり割って入って、何ができる。


それに、ここで揉めれば、また目立つ。

そんな計算が、真っ先に頭をよぎった自分が、少しだけ嫌になった。

迷っているうちに、少女は銅貨を懐にしまい、顔を上げて、足早にギルドを出ていった。


一度も、振り返らずに。



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