僕を忘れて
いつか時二人を分かつその日まで
傍にいさせて触れないでいて
高校生になってからも、私は夏になるたびに杜を訪れた。部活も忙しくなり、友達との予定も増えていったけれど、それでも夏休みの数日間だけは、必ずユウのために空けておいた。
「ねえ、ユウ。私、高校を卒業したら、こっちで就職しようと思うの。
そうしたら、おじいちゃんの家から通うのは無理でも、休みの日にはいつでも会えるじゃない?」
「俺と一緒にいたって、つまんないだろ?」
小学生の頃は、凧揚げをしたり木登りをしたりユウとたくさん遊んだ。
でも、だんだんとそういうことは減っていき、川の水に足を浸したりしながら何を話すでもなく、ただ一緒にいる時間が増えていた。
ノートの交換も、もう何年も続いている。
最初はたどたどしかったユウの文字は、今ではすっかり滑らかになっていた。
いずみに読み書きを教えられてから、ユウは秋冬春の日記を書くだけでなく、仲間のあやかしに古新聞を持ってきてもらって、人の世の中のことを学ぶようになっていた。いずみと話が合うようにと。
だが、人の生活というものがわかるにつれ、いずみに会いたい気持ちと、もう会わないほうがいいという気持ちがせめぎ合うようになっていた。
「つまんないなら、来ないわよ。
小さい頃みたいに遊んで楽しいから来る訳じゃなくて、ユウといると落ち着くっていうか楽?なの。一緒にいたいの。」
「でも、一緒に暮らせる訳でもない。
手を繋ぐこともできない。
俺といても、いずみは幸せにはなれない。
もう…ここには来ない方がいい。」
「なぜ、ユウと一緒にいたいと思っちゃダメなの?
いつか、私がおばあちゃんになっても、
ユウは若いままだから?」
その言葉に、ユウは一瞬、痛みを堪えるような顔をした。
「そうだね。
俺といずみは同じ時を生きられないだろ?
俺は山神さまに生かされている、人間でもあやかしでもない。年を取らないように見えても、いつまで生きられるかなんて分からないんだ。
明日消えるかもしれないし、ずっとずっと長く生きるのかもしれない。
それに、一緒にいるだけで、俺はいずみに何もしてやれない。
写真にも残らない、いずみの隣を歩くこともできない。
もう、そういうのは止めにして、自分の場所に戻った方がいい。」
そう言うと、ユウは杜の奥に行ってしまった。
◇
人ならぬ吾のことなど忘れたまえ
触れ得ぬ君よ愛しき人よ
山神さま、お願いでございます。
どうか、いずみの記憶から私のことを消し去って下さい。
私は、いずみに触れることでこの世からは去ります。これまで生かして下さりありがとうございました。
私はもう充分に生きました。
いずみと出会った事で楽しい時間を過ごす事ができました。これ以上生きていても、いずみと会えないのであれば、つらすぎます。
どうか、わがままをお聞き届け下さい。
ユウは山神に一心に祈った。
風がぴたりと止み、杜全体が息をひそめたように静まり返った。しばらくして、木々の梢がゆっくりと揺れ、まるで長い沈黙の末に頷くように、低く重い声が響いた気がした。
「……よかろう。汝の想い、確かに聞き届けた」
それが山神の答えだった。
◇
数日後
「ユウ〜、ユウ。出てきて。
今日、東京に帰るから、話したいの。
出てきて。」
いずみは杜の中を探し回っていた。
すると、陽が差していたのに急に霧が立ち込め、真っ白になって何も見えなくなった。
「ユウ〜、出てきて。帰り道が分からないわ。」
すると、どこからともなくユウの声がした。
「いずみ。こっちだよ。ほら、木の棒を持って。杜の入り口まで送って行くよ。」
「ユウ。来てくれたのね。
どうしてこの前話しの途中で居なくなったの?怒っているの?それとも、私が嫌いになったの?」
「大好きだよ。いずみ。
でも、もう一緒には居られない。
僕が人間だったら良かったのに。
この先は道なりに行けば集落のあるところに着く。ここから先は僕は行けない。
ひとりで行けるよね。」
「もう、会えないの?」
「そうだね。たぶん。
だから、…おいで…」
ユウが手を広げていずみを誘った。
「ダメよ。ユウが消えちゃう。
私と会う前に戻りたいのなら、もうここには来ないから。
だから、触れないで。」
そういいながら、いずみは後ずさった。
そして、逃げるように走り去ろうと振り向いた途端、腕を掴まれた。
「ユウ! どうして…?」
この身いま消え去るとても悔いはなし
触れ得ぬ汝をこの腕に抱く
いずみを抱きしめたユウの身体は光を放ちながら消えていった。
◇
――その瞬間、杜を包んでいた白い霧が、
嘘のようにサーッと引いていった。
目の前には、ただ夏の鮮やかな緑と、木漏れ日が揺れているだけ。
腕の中に残された確かな温もりと、
ポトリと地面に落ちた、一本の木の棒。
「……あれ?」
いずみは自分の両手を見つめた。
何かを必死に拒もうとしていたような、誰かの名前を叫ぼうとしていたような、激しい胸の鼓動だけが残っている。
けれど、それが何なのか、もう霧の彼方に消え去って思い出せない。
ぽつん、と杜の入り口に佇むいずみの耳に、クラクションの音が響いた。
「いずみ〜、遅いから心配したぞ。
霧で迷ったのか?……」
「私…、なんでここにいるの?」
「何言ってるんだ。
野イチゴがたくさん成っている場所を見つけたから、採ってくるって言って出かけたじゃないか。」
「そう?だっけ?」
「とにかく、もう行かないと、電車の時間に間に合わんぞ。」
「そうね。おじいちゃん、慌ただしくてゴメンね。また、来るから。」
いずみはそう言うと、車に乗り込み走り去って行った。
◇
東北新幹線はトンネルが多い。
闇と緑の山々が拓ける明るい景色が目まぐるしく入れ替わる。
いずみはふと自分のカバンを開いた。
そこには、一冊の古いノートが入っている。
ページをめくると、自分の文字の隣に、不器用だけどとても丁寧に書かれた『稜海』という漢字と、掠れた鉛筆の文字が並んでいた。
「……あれ?」
なぜか急に涙が溢れてきて、いずみは慌てて指先で目元を拭った。理由のわからない愛おしさと切なさが、胸の奥に小さな、でも消えない温もりを残していた。




