誰にも言えない
「ねえ、お母さん。
今年は、春休みもおじいちゃんの家に行こうかなと思うんだけど…、どお?
ほら、もうひとりで行けるからお母さんに仕事休んでもらわなくてもいいし。」
「えっ?休み短いし、部活も忙しいのに。
行っても3日泊まる位がせいぜいでしょ?」
「うん。まあね。」
「ご近所でお友達でもできたの?」
「そういうわけじゃないんだけど…、最近色々慌ただしいから、ちょっとゆっくりしたいっていうか、学年変わるから気持ちの切り替えしたいかなと思って。」
「どしたの、なんか悩みでもあるの?」
「ううん。全然、そんなんじゃないから、大丈夫。
家にいると、ほら、ついついスマホばっかり触っちゃうから、デジタルデトックス?みたいなことしようかなと思っただけ。
今年は受験生になるし、夏休みもそんなにゆっくりできないでしょ?」
「まあ、そうね。夏休みに行かないならいいけど。後は、自分のお小遣いで新幹線代出すか、ね。」
「やっぱり春は止めておく。
夏に涼しい田舎に行きたいもん。」
私はそれ以上、お母さんの顔を見られなくて、無理に笑顔を作って自分の部屋へと逃げ込んだ。
ドサリとベッドに倒れ込む。
天井を見上げると、涙がこぼれそうだった。
中学生にもなって、杜に行きたいなんて、やっぱり変よね。
引き出しの奥から、あのノートを取り出す。去年ユウが綴った文字を、指でそっとなぞる。会いたい、という気持ちが、日に日に強くなっている自分に気づいていた。
小さい頃の「遊びたい」とは、もう違う。
もっと切実で、もっと苦しくて、うまく名前のつけられない何か。
翌日、学校の廊下で明彦とすれ違った。
「いずみ、なんか元気ないな」
「そんなことないよ」
「……そっか。まあ、なんかあったら言えよ」
明彦はそれ以上聞かずに、いつものように軽く笑って通り過ぎていった。その気遣いに救われながらも、私は胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
誰かに打ち明けられたら、どれだけ楽だろう。でも、これだけは、誰にも言えない。
(あやかしのユウに会いたいだなんて、誰にも言える訳がなかった)
世界でたった一人、私だけが知っているあの静かな森。そこにいる、人間に触れたら消えてしまう、優しくて、でもどこか寂しげな私の好きな人。
会いたい。会いたくて、たまらない。
桜が咲いても、世界がどんなに新しくなっても、私の心はあの緑深い夏の杜に取り残されたままだ。
中学三年生の夏、私は受験勉強で忙しく、おじいちゃんの家には三日ほどしか行けなかった。ユウに会えた時間は、記憶にあるどの夏よりも短かった。
「ごめんね、ユウ。今年はすぐ帰らなきゃ」
「いいさ。無理して来るようなことじゃない」
そう言うユウの声は、いつもと変わらないようでいて、どこか寂しさを隠しているように聞こえた。
東京に戻ると受験勉強を本格的に始めた。
夏期講習に通い、三年分の学習内容を総ざらいする。
秋から冬にかけて、平日は学校の授業で、土日は秋期講習に通った。
志望校の過去問、模試、塾の冬期講習。
世の中がどうなっているのか気にする余裕もないくらい机にへばりついていた。
忙しい日々の中でも、夜、勉強の合間にふとノートを開くことがあった。
ユウの文字を目で追うだけで、張り詰めた心が和み、少しだけ頑張れる気がした。
年が明けて、受験本番が近づいてくる。
緊張と不安で押しつぶされそうな夜、私はノートに向かって、初めて素直な気持ちを書いた。
「ユウへ。受験、緊張してる。
でも、絶対受かって、ユウに報告したい。
だから頑張るね」
三月、合格発表の日。
掲示板に自分の受験番号を見つけた瞬間、涙がこぼれた。
真っ先に思い浮かんだのは、母や友達の顔ではなく、遠い杜にいるユウの顔だった。
家に帰って、母に相談した。
「お母さん、合格したこと、おじいちゃんにも直接報告したいな。
制服代、出してくれるって言ってくれてたし。
制服姿、見せに行きたい」
「あら、それはいい考えね。おじいちゃん、きっと喜ぶわ。春休みなら少し時間もあるし、行っておいで」
三月の終わり、私は新品の制服を鞄に詰めて、新幹線に乗った。車窓を流れる景色は、まだ冬の名残を残していて、山々には所々雪が残っている。
おじいちゃんの家に着くと、真っ先に制服を着て見せた。
「おじいちゃん、見て。高校合格したよ。
この制服、ありがとう」
「おお、いずみ。よく頑張ったなあ。
……その制服、よう似合っとる」
おじいちゃんは目を細めて、何度も頷いてくれた。夕飯までの間、私は少しだけ時間をもらって、まだ肌寒い杜へ向かった。木々は芽吹き始めたばかりで、夏の深い緑にはほど遠い。
「ユウ、来たよ」
呼びかけると、ユウはすぐに現れた。私の制服姿を見て、少し目を見開く。
「……高校生の格好、してるんだな」
「うん。合格したの。おじいちゃんに制服代出してもらったから、そのお礼も兼ねて、報告に来た」
「そうか。……おめでとう、いずみ」
ユウはそう言ってくれたけれど、その声には、喜びと同時に、何か複雑な色が混じっているように聞こえた。
私は、その理由を、なんとなく分かっている気がした。
高校生になるということは、大人に近づくということ。ユウとの間にある「大きくならない」という違いが、これからもっとはっきりしていくということだから。
短い時間しかいられなかったけれど、帰りの新幹線の中で、私は窓に映る自分の顔を見つめながら思った。
(この気持ちは、もう友情なんかじゃない)
自分でもようやく認められた気がした。
認めたところで、どうにもならないと分かっていても。




