会えない時間
こうして、夏の間だけの楽しい思い出を積み重ねていた。
「ねえ、お兄ちゃん。
字を読んだり書いたりは出来るの?」
「読むのは少しは出来るけど、書いたことはないから。なぜ?」
「私が東京に帰った後、どんな生活してるか、日記みたいに、手紙みたいに書いてくれたら、秋から春の間も私の事を少しは思い出してくれるかなと思って。
ノートと鉛筆持ってくるから、書いてくれたら嬉しいな。中学生になったら、部活があるから今までみたいに夏休み中こっちに来られないかもしれないし。」
「部活って、なんだ?」
「授業以外に、運動とか音楽とか自分の好きな物を選んで、勉強の後に練習するの。それで、休みの日に試合とかコンクールとかあるから。こっちに来られる日は短くなると思う。」
「そうか。忙しいなら、無理に森に来なくてもいいんだぞ。一人で淋しいなんて事はないし、誰にも会わずに過ごしていた頃に戻るだけなんだから。」
「お兄ちゃんは、私と会いたくないの?
私と居てもつまらない?」
「そんなことは、ない。」
(むしろ、夏を待つのが年を追う毎に辛くなっていた。
だから、いっそ会わなくなれば楽なのかもしれないと思っていた。)
もう夏を待つのがつらい会いたくて
君のいる街駆けて行きたし
「じゃあ、今日から文字の勉強ね。」
「分かった。まずはオレの名前からだな。ユウ、はこれでいいのか?」
ユウは地面に落ちていた枝を拾い、土の上にたどたどしく『ユウ』と書いた。
「うん、上手!じゃあ次は私の名前ね。……あ、でも私の名前、漢字だと難しいんだよね。『稜海』って書くの。
だから、“いずみ”ってひらがなでいいよ」
私がそう言って、ユウの横で『いずみ』と地面に指で書くと、ユウは動きを止めた。
じっとその三文字を見つめた後、ふっと少し寂しそうに目を細める。
「いずみ……。綺麗な名前だな。
でも、オレはその難しい方の文字も知りたい。東京では、みんなその難しい文字でいずみの名前を書くんだろう?」
「え……? うん、そうだけど、画数が多くて大変だよ?」
「いいさ。時間はたっぷりある。
いずみがいない秋も冬も春も、オレにはこれしかないんだから」
そう言って笑うユウの横顔を見て、胸の奥がツンと痛くなった。
ユウにとっての「会えない時間」の長さを、私はまだ本当には分かっていなかったのかもしれない。
夏までの長き時間がもどかしき
春秋冬も共にいたくて
私はカバンからノートと鉛筆を取り出した。一番最初の真っ白なページに、大きく『稜海』と書く。
「これが私の名前。こっちが『ユウ』。……はい、鉛筆持って」
ユウはまるで壊れやすい宝物でも扱うみたいに、慎重に鉛筆を握った。
私の手は添えられない。
ユウの手に、私の手が触れてはいけないから。
「こう、かな」
ユウの白い指先が、ノートの上で動き出す。かすかな芯の音が、誰もいない山神の杜に静かに響いていた。
「あのね、お兄ちゃんだけじゃなくて、私も書くよ」
「いずみも?」
「うん。私もお兄ちゃんのこと考えながらが東京での出来事、書いて渡す。ひらがなならこの夏休みの間に覚えられるでしょ。」
ユウは少し驚いたような顔をして、それから、ふっと目を細めた。
「……そうか。じゃあ、待ってる」
その年から、夏が来るたびに、私たちはノートを交換するようになった。
私が書いたページの隣に、ユウが一年かけて綴った文字が並ぶ。最初は単語だけだったのが、少しずつ、短い文になっていった。
年末、家族で少しだけおじいちゃんの家に顔を出すことがあった。
でも、この土地の冬は雪が深く、とても杜まで歩いていける状態ではない。
せっかくユウのいる杜のある街まで来てるのに、窓の外の真っ白な景色を眺めるしかなかった。
会いたくても、会えない。
杜の入り口にすら辿り着けない。
夜、こたつに入りながら、私はノートを広げて、ユウへの文章を書き足した。
「今日はおじいちゃんの家に来ている。けれど、雪が深くて、森まで行けない。会いたかったけど。
ちゃんと元気にしてる。
お正月は、いとこの家に行って、お年玉もらった。
ユウは、雪の中でも寒くないのかな。また夏に会おうね」
――そんな、たわいもない一文字一文字に、会えない冬の寂しさを込めた。
そうして、いくつもの夏と冬を重ねるうちに、私はいつからか、彼を「お兄ちゃん」ではなく「ユウ」と呼ぶようになっていた。
子供の頃のように甘えるのではなく、一人の人として、名前で呼びたいと思うようになったからかもしれない。
ユウも、それを自然に受け入れてくれた。
中学一年生の夏。
制服のまま新幹線に乗ってやってきた私に、ユウは一冊のノートを差し出した。
「今年の分だ。ちゃんと書いた」
受け取ったノートを開くと、去年よりもずっと達者になった文字が、びっしりと綴られていた。
『今日は、雨だった。杜の葉っぱから、水滴が落ちる音を聞いていた。
いずみは、今頃何をしているんだろう』
『山神さまが、今日は機嫌がいいらしい。風が優しかった』
『今日は、雪の中で、ずっと鳥居のあたりを見ていた。来ないと分かっていても、待ってしまう』
一文字一文字を目で追いながら、私は胸がいっぱいになった。会えない秋も冬も春も、ユウはこうして、一人で鉛筆を握りながら私を待っていてくれたのだ。
「ユウ、全部読んだよ。何回も読み返すね」
「そうか。……役に立ったなら、良かった」
ユウは少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、私は思う。
会えない時間は、確かに寂しい。
でも、寂しいのは私だけじゃなかった。ユウも私を待っていてくれた。
それだけで、十分だった。




