エピローグ
十年後の夏。
大学を卒業してから、私は仙台の商社に就職した。東京の実家からも近すぎず遠すぎず、長期休みには帰省もできる、ちょうどいい距離だった。
「おじいちゃんの家、そろそろ手放すことになりそうだから、一度顔を出しておいで」と母から連絡をもらったのは、梅雨明けの頃だった。
「ね、祐人も一緒に行かない?
おじいちゃんに紹介したいし」
隣に座る恋人の祐人にそう聞くと、彼は
「いいよ、俺も田舎の夏、好きだし」と笑ってくれた。
付き合って二年になる。
会社の同期で、穏やかで、一緒にいると自然体でいられる人だった。
久しぶりに訪れた田舎町は、記憶よりも小さく、静かだった。
おじいちゃんはすっかり足腰が弱っていたけれど、私の顔を見ると相変わらず
「おお、いずみ」と嬉しそうに笑ってくれた。
祐人を紹介すると、
「ほう、祐人くんか。ええ名前じゃな」と目を細めて何度も頷いていた。
荷物の整理を手伝っていると、押し入れの奥から、古い写真アルバムが出てきた。
ページをめくっていくと、小さい頃の私が、杜の入り口の鳥居の前で、一人で写っている写真が何枚もあった。
(そういえば、あの頃、よく一人で森に遊びに行っていたっけ)
なぜだろう、写真を見ていると、うまく説明のつかない懐かしさと、小さな胸の痛みのようなものがこみ上げてくる。
誰かと一緒だったような気がするのに、
その誰かの顔も名前も、どうしても思い出せない。
夕方、祐人と二人で、久しぶりに森の入り口まで歩いてみた。
鳥居はまだそこにあって、蝉の声が変わらず森いっぱいに響いている。木漏れ日が、記憶の中の景色とそっくりに揺れていた。
「いい場所だな。
いずみが子供の頃、ここで遊んでたのか」
「うん……なんでだろう、すごく懐かしい気がする」
石段に腰を下ろすと、鞄の中から、実家の自室から持ってきた古いノートを取り出した。
表紙はすっかり色あせていた。
めくると自分の幼い文字と、隣に並ぶ、見覚えのない丁寧な筆跡があった。
それが誰の文字なのか、どうしても思い出せない。
あるページには、たどたどしい線で『ユウ』とだけ、何度も練習したような跡が残っていた。
その隣に、幼い私の字で『これがユウ、これがいずみ』と書いてある。
「ユウ……?」
隣で覗き込んでいた祐人が、ふと声を上げた。
「俺の名前と、似てるな」
「あ……ほんとだ」
言われて初めて気づいて、私は少し笑った。
偶然だろうか。
でも、なぜだかその偶然が、ただの偶然ではないような、不思議な気持ちにさせられる。
ページの終わりの方には、こう書かれていた。
『いずみへ。
会いたい。
この気持ちは、きっとずっと消えない』
その一文だけ、なぜか涙腺が緩んでしまう。
「……誰だったんだろう」
呟いてみても、答えは返ってこない。
ただ、風が優しく頬を撫でて、まるで誰かがすぐそばで微笑んでいるような、そんな気配だけが、確かにそこにあった。
「いずみ、大丈夫か?」
祐人が心配そうに顔を覗き込んでくる。
私は慌てて涙を拭って、
「うん、大丈夫。なんか、懐かしくて」と笑ってみせた。
「ユウって、昔の彼氏?」
「分からない。思い出せないの。
このノートも、確かに私の字なんだけど…」
理由の分からない愛おしさと切なさを抱えたまま、私はそっとノートを閉じて、祐人の手を取った。
今度は、ちゃんと繋がる手。
当たり前のようで、かけがえのないその温もりを確かめるように、少しだけ強く握り返す。
「帰ろっか」
「うん」
木々の間から差し込む夕陽が、鳥居を金色に染めていた。
森に向かって、私はもう一度、深く一礼した。
何に対しての感謝なのか、自分でもよく分からないまま。




