この気持ちは何?
山神の森を白へと染める雪
汝も同じき空を見てるか
学校が見えてくる角を曲がったところで、後ろから「いずみ!」と声がした。
振り返ると、白い息を吐きながら明彦が小走りに追いついてくるところだった。
「おはよう。ほら、足元凍ってるぞ。滑るから、気をつけろ」
「あ、ありがとう。寒いね」
「お前、ほんとぼうっとしてる事多いよな。
昨日も授業中、窓の外見てて先生に叱られてただろ」
図星をつかれて、私は曖昧に笑ってごまかした。
明彦は昔から、私が何かを考え込んでいるとすぐに気づく。
困ったことに、勘がよすぎるのだ。
「別に、何も考えてないよ」
「嘘つけ」
昇降口の手前で「じゃあな」と手を挙げて、明彦は自分の下駄箱の方へ歩いていく。その背中を見送りながら、少しだけ胸が痛んだ。
彼が自分に向けている気持ちに、私はうっすら気づいている。
でも、応えられない。
(誰にも言えない。言えるはずがない)
◇
私だけの夏の秘密。
杜で会う「お兄ちゃん」のことを、誰かに話したことは一度もない。
母の実家がある田舎の杜の中で出逢った人。最初は、人だと思っていた。
でも、ユウは
「オレは人じゃない。
人間に触れたら消えてしまう、あやかしみたいなものなんだ。
昔は、人だったんだろうけど、赤ん坊の時に森に捨てられた。そのまま餓えて死ぬのを、山神様が憐れんで、霊力で生かしてくれてる。だから、森の外には出られないし、人間に触れたら消えてしまう。」
初めは信じなかった。
だって見た目は、人間そのものだったし、普通に飲んだり食べたりしていたから。
夏休みの間、毎日杜へ行ってユウと遊んだ。水遊びをしたり、木登り、追いかけっこ、凧揚げもした。
ユウと出会った時、私は小1、6歳だった。
「お兄ちゃんは、ほんとは人間なんでしょ?」
ユウは、とてもハンサムで優しかった。
「そのうち分かるさ。」
やがて夏休みが終わり、東京に帰る日が来た。
「お兄ちゃん、またね。また、来年の夏休みに来るから、また遊んでね。」
「あぁ、元気でな。」
私は東京に帰り、いつもの小学校生活に戻った。友だちと遊んだり勉強をしている時は忘れているのに、ふとした時にユウの事を思い出す。
(お兄ちゃん、どうしてるのかな?)
って。
でも、まだその時は恋じゃなかった、たぶん。
あれから何度も夏を重ねて、気がつけば私は中学生になった。
背も伸びて、もうすぐユウと並ぶくらいになった。
夏の間、杜でユウと過ごしていることは誰も知らない。でも、中学生になって、もうそろそろ杜へ遊びに行くのは不自然になってきた。
「毎日杜へ行ってひとりで何してるんだ?」とおじいちゃんに聞かれても
「別に、のんびりしてるだけ。
ぼんやりしたり、木陰で昼寝したり、本を読んだりね。」と答えた。
話したところで、うまく説明できる気がしなかった。
◇
隣を歩く明彦の横顔をちらりと見る。もし…明彦に話したとしたら…?どうなるだろ?
きっと変な顔をされるよね。
「は?何それ」って笑われるか、「大丈夫か?」って心配されるか、たぶんそのどちらかだ。
彼のことは好きだ。でも、ドラマや友達が話す「好き」とは、たぶん違う。もっと気安くて、もっと当たり前で、たぶん友情に近いもの。一緒にいると安心するけれど、胸が締めつけられるような、あの感じはしない。
(じゃあ、これは何なんだろう)
ユウのことを思い出す時の自分の気持ちに名前をつけようとするたびに、なんだかうまくいかない。
分かっているけれど分かりたくないみたいに、曖昧に誤魔化したまま、その日も一日が始まった。
年が明けて、三学期が始まった。
班替えの結果、私は明彦と同じ班になった。掃除当番も一緒で、放課後、二人で黒板を拭きながら他愛のない話をすることが増えた。
明彦といると、変に気を遣わなくていい。でも最近、たまに彼の視線がいつもより長く自分に向いている気がして、どきりとすることがある。
ある日の掃除当番のあと、雑巾を洗い場に持っていく途中で、明彦がぽつりと聞いてきた。
「なあ、いずみ。好きな人とかいるの?」
不意打ちで、雑巾を落としそうになった。
「な、なんで急に」
「いや、クラスの奴らがそういう話ばっかしてるから、なんとなく」
「……いないよ、たぶん」
「たぶんって何だよ」
「よく分かんないの、自分でも」
正直に答えると、明彦は少し意外そうな顔をした。
それから、耳のあたりを掻きながら「ふうん」とだけ言って、それ以上は聞いてこなかった。
「明彦は?好きな人いるの?」
聞き返すと、明彦は急に固まって、耳まで赤くなった。
「……いるよ、一応」
「へえ、誰?」
「言わない。絶対言わない」
そう言って足早に洗い場へ向かう明彦の背中を、私はなんとなく見送った。
翌朝、教室に入ると、明彦はいつもと変わらない顔で「おはよう」と言った。ほっとした。
その日の帰り道、また明彦と一緒になった。
「なあ、いずみ。この前の話だけどさ。べつに、今すぐ返事欲しいとか、そういうんじゃないから。
ただ、なんつーか……。……いずみってたまに、ここにいないみたいな顔するんだよ。そんな時、ちょっと寂しいなって思うことはある」
耳まで赤くしながら、明彦は「じゃ、また明日な」と足早に角を曲がっていった。私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
家に帰って、勉強机の引き出しの奥にしまってあるノートを取り出した。
あの、ユウと一緒に字の練習をしたノートだ。
表紙はもうすっかり色あせている。
ページをめくると、たどたどしい『ユウ』の文字と、隣に丁寧に書かれた『稜海』の文字が並んでいる。指でそっとなぞってみる。
“ここにいないみたいな顔”をしてる時、きっと私はユウのことを考えている。ユウへの気持ちは、明彦への気持ちとは違う場所にある。もっと切実で、もっと苦しくて、もっと――手放せない。
二月のある朝
「バレンタインとかそういうんじゃなくて、単に、駅前で安売りしてたから」と、明彦が小さなチョコレートの箱を差し出してきた。
耳まで赤くしながら早口で言い訳するのが、なんだかおかしくて、私はつい笑ってしまった。
「ありがとう。友チョコ、ね」
「そうだよ。それ以外の意味はないから」
「うん、分かってる」
「なあ、いずみ。もうすぐ二年生だな」
「早いよね。あっという間」
「二年になったら、また同じクラスになれるといいな」
「うん」
その「うん」に、私はどれくらいの気持ちを込めていいのか分からなかった。
夕暮れの空を見上げながら、私はふと、あの杜の夕暮れを思い出した。木々の間から差し込む茜色の光、蝉の声が少しずつ静かになっていく時間。ユウの横顔が、いつもその光の中にあった。
(あと、四カ月くらいで夏が来る)
隣を歩く明彦の存在は、今も昔も変わらず近い。
でも、心の一番奥にある部屋には、いつだってユウしかいない。




