第2話 「茜の場合」~乙女の擬態~
リビングに漂う紅茶の香りが、少しずつ夕刻の気配を帯びてくる。凛の「絹の栞」にまつわる告白の余韻が消えぬうちに、長姉の鋭い視線が次女へと向けられた。
「さて、茜。次はあなたの番よ。……隠し事は無しって、さっき言ったわよね」
茜は、派手なラインストーンで飾られた爪を弄び、ふい、と顔を背けた。
明るすぎる茶髪、少しキツめに引かれたアイライン、そして挑発的な言葉遣い。学校の教師たちが「要注意人物」としてマークし、不純異性交遊の疑いをかけ続ける彼女の外見は、エス家という巨大な重力から自分を守るための、精一杯の「擬態」だった。
だが、その派手なメッキを剥がせば、そこに現れるのは三姉妹の中で最も純情で、白一色の心を持つ少女だ。男性とキスはおろか、手をつないだことさえない。その潔白さを、姉の凛も、妹のまさ子も、痛いほど知っていた。
「……あたしは別に。何もないわよ。寄ってくる男なんて、どいつもこいつも中身のないバカばっかりだし」
「あら、そうかしら。数ヶ月前、あんなに熱心にあなたを追いかけていた子がいたじゃない。名前は……そう、『たくや』君だったかしら。何度か遊びに出かけてたでしょう?」
凛の言葉に、茜の肩がぴくりと跳ねた。
「あんなの、ただの暇つぶしよ。……こっぴどく振ってやったわ」
「そう。でも、どうしてそんなに手が震えているの?」
凛の声は優しかったが、逃げ道を塞ぐ冷徹さがあった。茜は唇を噛み締め、必死に強がりを維持しようとしたが、その虚勢は一瞬にして崩れ去った。
「……だって、……だってアイツ、最悪だったんだもん!」
茜の大きな瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。ギャル特有の派手なメイクが崩れるのもお構いなしに、彼女は子供のように泣きじゃくり始めた。
「最初は優しかったのよ! 『茜のことが大切だ』って、『ちゃんと付き合いたい』って……! 告白されたけど、あたしがOKの返事をする前に、アイツ、あたしの身体に触ってきたの。もうモノにした、みたいな顔をして。……それだけが目的だったのよ。あたしの気持ちなんて、これっぽっちも見てなかった。ただの『攻略対象』としてしか見てなかったの……っ!」
凛は、妹の心の傷が数か月たってもまだ癒えていないことに気付き、すぐにソファから立ち上がると、茜の細い身体を優しく抱きしめた。
茜の王子様願望は、三姉妹の中で一番強い。いつか白馬に乗った騎士が、自分の派手な擬態を突き抜けて、内側にある真っ白な心を見つけ出してくれると信じているのだ。その夢を、浅薄な欲望で土足で踏みにじられた痛みは、彼女の純情を深く傷つけていた。
「よしよし。……可哀想に。そんな男のために、あなたの綺麗な涙を流す必要はないわ」
凛は茜の背中をさすりながら、静かに、しかし厳しく諭した。
「いい、茜。私たちはエス家の女なの。男たちは、私たちの外側の美しさや、家柄の光に目を眩ませて寄ってくる。それは避けられないこと。……でも、だからこそ。安易にその手を取ってはだめ。私たちに触れられるのは、私たちの蜜の毒さえも愛し、私たちの魂と対等に向き合える者だけよ」
「……ぐすっ、……でも、……あたし、どうやって見分ければいいかわかんない……。みんな、最初は優しいんだもん……」
「見分けなくていいの。あなたが『この人なら』と思えるまで、誰にもあなたに触れさせなければいい。それだけ。……あなたの純情は、誰にも汚させない。私たち、そしてお母さまがそんなこと許さないわ」
茜は凛の胸に顔を埋め、声を上げて泣き続けた。
そんな二人を、少し離れたクッションの上で見つめていたまさ子も、茜の悲しみに共鳴するように涙を流していた。
だが。
その泣き方は、茜のそれとは明らかに異なっていた。
頬を伝う涙はどこまでも静かであり、まさ子は嗚咽さえ漏らさない。
ただ、その潤んだ瞳の奥には、妙な「落ち着き」があった。姉の失恋を悲しんでいるのは事実だろう。だが、その涙の底には、何か秘め事を知る大人のような、艶やかな余裕が凜には感じ取れたのだ。
(……まあちゃん?)
鋭い凛の眼差しが、末妹を捉えた。
まさ子は、茜を抱きしめる凛と視線が合うと、フッと目を逸らし、ハンカチで目元を拭った。
「……ううっ、……ひどいね、茜ちゃん。……そんな男の子がいるものなのですね」
その声は、相変わらず「ほんわか」としていた。
凛にはわかった。今のまさ子の涙は、単なる同情ではない。
それは、姉の報われない純情と解答探しの旅に心を寄せながらも、自らのもっと現実的な愛情の課題について考えているといった風情。
凛が茜を抱きしめる腕の力が少し強くなった。
(私が図書館で「査定」し、茜が王子様を夢見て「挫折」している一方で……。この子は、もう何処か別の場所に、自分の「答え」を見つけてしまっているのではないかしら)
凛の心に、小さな、けれど確かな警戒の火が灯る。
まさ子の、この余裕の正体は何なのか。
中二のネンネのはずのまさ子が、なぜこれほどまでに湿った、淫靡とも言えるような慈愛を湛えた瞳で泣けるのか。
「……まあちゃん。あなたも、泣くほど悲しかったのね」
凛の声は、試すように冷たくなった。
「はい、凜お姉さま。……でも、私は大丈夫。……だって、私は知っているもの。……いつか、絶対に、私の『すべて』を分かってくれる人が、現れるって」
まさ子は、赤くなった顔で微笑んだ。
その微笑みは、凛がおばあさまの伝説で語った「絹の糸」、男が女を縛る色々なものの意味を、すでにその肉体の実感を伴って想像し、自分の未来を確信している者の相貌だった。
凛は茜の背を軽く叩き、静かに促した。
「茜、もう大丈夫よね。……次は、まさ子の番よ。……この子の涙の理由、私たちでしっかり暴いてあげなければ」
茜が涙を拭い、鼻をすすりながら顔を上げる。
リビングの空気は、次女の純情な悲劇から、三女の底知れない深淵へと、その色彩を変えようとしていた。
(了)




