第1話 「凜の場合」~放課後の品定~
ティーポットの二煎目が注がれ、リビングにはふわりとアールグレイの香りが立ち上る。
今までネンネ、大人の方のお話は私にはよく分かりませんといった顔で聞き役に徹していたまさ子が、少しだけいたずらっぽく、それでいてこの世で最も無垢な瞳で長姉・凛を見つめた。
「おばあさまやお母さまのお話も素敵ですけれど。……お姉様たちの『今』のお話も、聞きたいです」
その言葉は、静かなリビングに投げ込まれた小さな、けれど波紋を広げる小石のようだった。
凛がカップを口に運ぼうとした手が、微かに震えて止まる。その気配を、次女の茜は見逃さなかった。
「あら、いいわね。……ちょうど私も、凛お姉様に伺いたいことがあったのよ」
茜がニヤリと笑い、背もたれに深く身を沈める。その視線は、獲物を追い詰める豹のように鋭いが、ブーメランが自分へ返って来ることにこの時点で気づいていないあたり、この娘が抜けていて可愛らしいところである。
「お姉さま、先週の日曜日の午後。港区の図書館の、一番奥の閲覧席。……あそこでご一緒だった、背の高い方はどなた?」
「……見ていたのね、茜」
凛は動じることなく、静かに紅茶を啜った。否定も狼狽もしない。それがエス家の長女としての矜持だ。だが、その白い頬には、ほんのわずかだけ、ザラメの熱が移ったような赤みが差している。
「文芸部の他校交流会で知り合った方よ。男子校の同学年。今度の文化祭で、合同の文芸誌を出すための打ち合わせをしていただけ」
「ふーん。打ち合わせ、ね。……でも、お姉様があんなに熱心に誰かの書いた原稿を覗き込んで。時折、あんなに優しく微笑んでいらっしゃるなんて。」
「王子様みたいな人なの?」
茜の尋問を引き継いだまさ子の無邪気な問いに、凛は少しだけ困ったように眉を寄せ、それから自嘲気味に微笑んだ。
「王子様なんて、この世にはいないわ。……そうね。背は高いけれど、お顔は、まあ普通かしら。私たち姉妹と並んだら、きっと周囲の人は『どうして?』と首を傾げるでしょうね」
凛の言葉に、嘘はなかった。エス家の三姉妹は、自覚の有無に関わらず、人類の美の極北に位置している。彼女たちにとって、男性の「造形美」など、今さら追い求める価値のない既製品のようなものだ。
「でも、お姉様がお時間を割くくらいですから、何か特別な『芽』があるのでしょう?」
「……品性、かしら。彼はとても真面目で、誠実よ。言葉の選び方が丁寧で、沈黙を怖がらない。図書館で何時間も向かい合っていても、彼の存在はちっとも私の思考を邪魔しないの。……まるで、よく馴染んだ古い絹の栞みたいに。外見は平凡だけれど、その内側に滲み出る静かな気品は、その辺の美男子よりずっと信頼できるわ」
凛がそう言って目を細めた瞬間。
それまで「ネンネ」な顔をしてマシュマロを転がしていたまさ子が、おずおずと、けれどナイフのように鋭い一言を放った。
「……凛お姉様。その栞は、絹でできているのね?」
凛の手が、目に見えて微かに震えた。
一瞬だけ「しまった」という表情が浮かび、すぐに彼女は内心でぼやいた。
(この子は……またネンネみたいな顔をして、こういうことにはすぐ気付くのだから……)
凛にとって、相手を「絹」に例えることの意味。それは単なる質感の喩えではない。先ほどおばあさまの伝説で語られた「芍薬を束ねる絹の糸」……すなわち、自分を制し、縛り、愛の檻に閉じ込める資格があるかどうかの査定である。
凛は深呼吸を一つすると、毅然とした表情で二人を見据えた。
「そうね。……あんたたちに取り繕っても仕方ないから白状するけれど。あの方に包み込まれたら、どんなだろう……って。ベッドの中で想像しているわ」
「キャー!!」
茜が顔を真っ赤にして、クッションを抱えて叫んだ。あまりに凛らしくない、けれどあまりにエス家の女らしい直球の告白。
まさ子も茜の勢いに引きずられるようにして、「キャー!」と小さな手を口に当てて叫ぶ。
「お姉様、そこまで……そこまで想っていらしたのね!」
「品定め中とは言ったけれど、身体の相性や夜の作法まで想像を巡らせるのは、レディの嗜みでしょう?」
凛は少しだけ乱れた髪を指で整え、どこか晴れやかな、それでいてやはり冷徹な女王の瞳に戻った。彼女は、相手を査定しながらも、自分の中の「毒」や「情念」をぶつけた時の反応を、冷たく、そして熱く夢想しているのだ。
「でも、まあちゃん。あなたにも言っておくわね」
凛は、赤くなって俯いている末妹をじっと見つめた。その眼差しには、姉としての優しさに、ほんの少し、意趣返しが混ざっていた。
「自分にふさわしい糸を探すのは、案外、骨が折れるものなの。あなたも、いつか自分を繋ぎ止めてくれる相手を見つけた時。それが優しい絹の糸か、あるいは……一歩間違えれば、あなたの指を、その命を容易く切り裂いてしまうピアノ線か。ちゃんと、見極めるのよ。……愛というものは、時に鋭利な凶器にもなるのだから」
「……ピアノ線……」
まさ子は、その言葉の響きに、ゾクりとするような甘美な戦慄を覚えた。
もし、自分の愛する「あの人」がピアノ線を手に取ったなら。それでこの身を切り裂かれ、血が流れても、自分は笑っていられるのではないか。
「……はい、お姉様。大切に見極めます」
まさ子のその答えは、凛の警告を素通りし、すでに自分だけの深淵へと届いていた。
最初の尋問が終わり、リビングには再び静かな紅茶の香りが戻る。だが、その香りは先ほどよりも少しだけ、危険な蜜の匂いを帯びていた。
「さあ、次はあなたの番よ。……茜、隠し事は無しよ」
凛の冷徹な、しかし楽しげな声が、次なる「獲物」の解析へと向かいます。
(了)




