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3-2 三姉妹の恋路【ザラメ砂糖三代記】  作者: maki_senokouji


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第3話 「まさ子の場合」~微熱のゆりかご~

 窓の外、千代田区のビル群が夕日に焼かれ、リビングに長く、濃い影を落とし始めていた。

 次女・茜が凛の胸の中でようやく呼吸を整えた頃。凛の、射抜くような鋭い眼差しは、対面のソファで膝を抱える末妹へと向けられた。

「……さて。まさ子、お待たせ。次は、あなたの番よ」

 凛の声は、先ほど茜を慰めていた時とは打って変わって、冷徹なまでの「追及者」の響きを帯びていた。まさ子は、まだ潤んだ瞳のまま、首を傾げて「ほんわか」と微笑んだ。

「私の番……? 私には、お姉さまたちにお話しするような、素敵な王子様も、特別な栞の方もいませんよ?」

「いいえ。……隠し通せると思っているの、まあちゃん」

 凛は、自らのティーカップの底に沈んだ、まだ溶けきっていないザラメの結晶をスプーンでつついた。

「さっき、茜が泣いたとき。……あなたの涙は、ただの同情じゃなかったわ。あれは、何かに守られ、慈しまれ、自分だけは『正解』を握っていると確信している女の余裕よ。……その湿った色気、誰に向けたものなの?」

「まさ子……? あんた、あたしに内緒で誰かと……?」

 茜が、真っ赤になった目で身を乗り出した。自分を土足で踏みにじった男たちの記憶がまだ痛む彼女にとって、妹の「秘め事」は、心配と好奇心がい交ぜになった水爆弾のようなものだ。

「ふふっ……そんな人、どこにもいませんよ。……私、学校の行き帰りはもちろんですし、塾や習い事でも、男の子と二人でお話しすることなんて、ほとんどないんですもの」

 まさ子の答えは、紛れもない事実だった。彼女はエス家という特異な重力の中に身を置き、外界の同世代の男子たちとは、まるで次元の違う場所で生きているように振る舞ってきた。だが、凛はその「完璧な潔白」こそが不自然であると見抜いていた。

「ええ。あなたはそのあたりの男子には目もくれない。……でもね、まさ子。あなたのその瞳の奥にある、じっとりと重い熱。それは、誰かを見つめ続けて、その眼差しを自分の中に溜め込んでいないと、出てこない色よ」

 凛の言葉に、まさ子は、ただ、じっと自分の指先を見つめた。

 そして、夕闇に溶けそうな、静かな声で言った。

「……私は、ただ。その方の『背中』を見ているのが、何よりも幸せなんです」

「背中?」

「はい。その方は、いつも静かな場所で、独りで何かに耐えていらっしゃるんです。……その方がふとした瞬間に見せる、少しだけ困ったような、哀しいくらい優しい眼差し。……それを見ているだけで、私は、お腹の底がザラメを煮詰めたみたいに、熱くて、ベタベタになっちゃうんです。……あの方は、自分がどれだけ美しい毒を撒いているか、きっと気づいていらっしゃらない」

 リビングに、微かな戦慄が走った。

 まさ子が口にしたのは、中学生の恋なんていう可愛らしいものではなかった。それは、対象の「孤独」や「苦悩」さえも自分の情念で飲み込もうとする、静かなる「沼」の予感だった。

「……まさ子。その人は、あなたの近くにいる人なの?」

 凛の問いに、まさ子は答えなかった。

 ただ、潤んだ瞳に、隠しきれない情念を湛えて微笑んだ。その「泣き顔」には、凛の冷徹ささえも飲み込んでしまいそうな、圧倒的な余裕と色気があった。

ティーポットの中身はとっくに冷め、器の底に残ったザラメの結晶が、夕闇の中で妖しく光っている。

「……まさ子。一つだけ、はっきりさせなさい」

 凛の声は、核心に近づくための最後の一歩を躊躇うような、微かな震えを帯びていた。

 まさ子が口にした「静かな場所で独り戦う人」「哀しいくらい優しい眼差し」。その抽象的な輪郭が、エス家という狭い檻の中で、凜にはある影と重なって見える。

「その『ピアノ線』のような方……。まさか、結ばれてはいけない身近な誰かなの?」

 茜が、息を呑んだ。

「……え? 何のこと? まさ子、あんた、誰のことを……」

 尋問の矛先が最も鋭くなった瞬間。まさ子は、ふわりと、どこか遠くを見るような瞳で囁いた。

「……あの方は、いつまでたっても、私のことを……」

 まさ子の言葉が、不自然に途絶えた。

 

 リビングに、凍りつくような沈黙が走った。

 

「……今、何て言った?」

 凛の瞳が、驚愕と、すべてが繋がってしまった戦慄で見開かれる。

 まさ子の想い人は、まさ子が小さい頃から今まで、ずっとまさ子の近くにいるということ。「禁忌」の存在を暗示する近さ。彼女が愛しているのは、彼女を「今までずっと」見守り、慈しみ、理性というピアノ線で自らを縛り続けている、孤独な影。

「……あら」

 まさ子は、自分の唇をそっと指先で押さえた。

 その頬は、これまでになく深く、じっとりとした熱を帯びた朱色に染まっていく。失言してしまった。だが、さほどそれを悔いるような表情はない。むしろ、秘密のベールが微かに捲れたことに、ある種の快楽を感じているかのような、湿った色気が溢れ出した。

「……うっかり、零れてしまいましたね。……でも、お姉さまたち。……あの方は、まだ私に、何も教えてくださらないんです」

 まさ子は立ち上がり、夕闇の中に溶けてしまいそうなほど純粋で、それでいて蜜のように粘度のある「微笑み」を姉たちに向けた。

「そう。あの方は、まだ私を『守るべき対象』だと思っています。……でも、それでいいんです。……あの方がふと立ち止まったとき、いつもそこに、私がいる。ほんわか、ゆるゆると微笑んでいるだけの、何も知らない子供の私。……でも、その実、あの方の足元を、少しずつ、私の沼で濡らしていくんです。逃げ場がなくなるまで、何年もかけてゆっくりと」

 凛は、立ち上がる足に力が入らないのを感じながら、末妹の背中を見つめた。

 

「……まさ子。……あんた、自分から望んで地獄に歩いていくの?」

「地獄なんて、怖くありません」

 まさ子は振り返って凄絶な笑みを凜に向け、キッチンへと向かった。

「あの方はきっと、そこで私のことを待っていてくれているから」

三姉妹の放課後のひとときがこうして幕を閉じた。

 凛と茜は、自分たちの妹が、エス家の歴史の中でも最も「静かで、恐ろしい」執着を、すでにあのゆるふわな笑顔の内に育てていることを知った。

 この日まさ子が口にした事実は、数日後の「お花畑の告白」、そして禁忌への宣戦布告からさらに将来へと繋がる、最初に零れ落ちた一滴に過ぎなかったと、凜と茜はさらにずいぶん後になってやっと、すべてを理解することになる。


(三姉妹の恋路・完)

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