第五章 江――徳川の中の女
前回のあらすじ
玄巧は秀秋に「自分が生き残れる道」を意識させた。
一方、徳川の中にも、別の方法で人を動かす者がいた。
江。
彼女は、誰かの命令を待つ女ではなかった。
自分の手で、人間関係そのものを動かしていた。
「秀忠様」
江は夫の部屋を訪れた。
「今は、動かないほうがよろしいかと思います」
「父上は戦を望んでいる」
「だからこそです」
秀忠が振り返る。
江は静かに続けた。
「先に動いた者は、相手に理由を与えます」
「理由?」
「警戒する理由です」
秀忠は考え込んだ。
江は何も言わず、夫の表情を見ていた。
やがて秀忠が言った。
「……しばらく様子を見る」
江は微笑んだ。
「それがよろしいかと」
部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、江の表情が変わった。
――自分で決めたと思わせればいい。
それが、江のやり方だった。
刀など必要ない。
命令も必要ない。
相手に「自分で決めた」と思わせれば、人は動く。
その夜。
江は侍女の一人を呼んだ。
「大坂へ行ってもらいます」
「何を伝えれば?」
「徳川は、まだ動かない」
侍女は頭を下げた。
「それだけでございますか?」
「それだけで十分です」
情報は、量ではない。
誰に、いつ、何を伝えるか。
それだけで価値が変わる。
一方、徳川家臣には別の情報を流した。
「秀忠様は、あの者の忠誠を疑っている」
別の家臣には、
「秀忠様は、あなたを高く評価している」
互いに違う言葉を与える。
すると、人間は勝手に動き始める。
疑い。
嫉妬。
警戒。
忠誠。
江はそれらを一つずつ盤上に置いていった。
数日後。
江のもとに一枚の文が届いた。
短い。
小早川秀秋を動かすには、徳川を必要とさせよ。
江は紙をじっと見た。
差出人はない。
だが、誰が書いたのかは重要ではなかった。
重要なのは――
この情報を使えるかどうか。
江は秀秋の周囲に噂を流した。
「徳川は、小早川家を重く見ている」
さらに別の場所では、
「豊臣は秀秋を完全には信用していないらしい」
噂は、秀秋のもとへ届いた。
一つ。
また一つ。
秀秋は次第に考えるようになる。
――徳川につけば、生き残れるのではないか。
江は、その変化を待っていた。
関ヶ原。
小早川軍が動いた瞬間。
江は遠くでその報を聞いた。
目を閉じる。
「……一つ、落ちた」
しかし、その直後。
別の文が届いた。
予定通り。次は徳川。
江の手が止まった。
「……次は?」
初めて、江の顔から余裕が消えた。
「徳川まで、駒にするつもりなの?」
返事はない。
ただ、燃えた紙の灰の中に、一文字だけ残っていた。
魔。




