フットクリンパー
視点:ハンス
不耕起、条播き疎植、コーティング種子直播クリンパーによる被覆。この意味不明な小麦の秋まきを真剣に実施するおにいさんとベルタを見る。
秋の空気は冷たく澄み渡り、村の誰もが浮き足立っていた。
秋まきの季節だ。1年の実りを左右する命がけの大仕事である。
牛耕も一通り終わって次はベルタの畑の順番になった。
「おい、おにいさん! 次はベルタの畑の順番だぞ! 牛を回すから準備しろ!」
俺は手綱を握り直し、額の汗を袖で拭いながら叫んだ。
村の規則は厳格だ。共同の牛耕に参加して労働力を出した者の畑にだけ、貴重な重犂と牛の群れが回される。おにいさんは体力がなくて牛引きずられて泥に塗れていたが、俺が代わりの仕事として縁の溝を見事に仕切って労働義務を果たした。
だから当然、ベルタの畑にも牛耕が入る権利がある。
だが、泥を拭ったおにいさんは、首を横に振った。
「いや、ハンス。牛耕は入れない」
「……はあ?」
俺は耳を疑った。
「お前、何言ってるんだ? ちゃんと働いて権利を得ただろ! ピーターの野郎が『手伝いもしねえ奴の畑に牛は回さん』とか茶々を入れてきたが、俺が突っぱねてやったんだぞ。なんで断るんだよ!」
おにいさんは、何を言っているのかさっぱり分からない言葉を並べる。こいつ説明する時やたら嬉しそうな顔をするな。
「要するに、牛でひっくり返さなくてもいいってことか?」
「むしろここは牛で耕したくはないということだ」
俺は深々とため息をついた。重犂で土を掘り返し、太陽の光に晒して雑草の根を断ち切る。それが古代から続く農民の絶対の常識だ。それをやらないなど、狂気の沙汰としか思えない。だが、頑固なこの男が一度言ったら聞かないのも分かっていた。
「……たく、後で泣きついても知らんぞ」
俺は諦めて、牛耕の列を次の農民の区画へと進めた。
村中の男たちが牛を叫ばせ、巨大な犂で泥を力任せにひっくり返していく。土の強い匂いが立ち込め、疲労と活気が空気に満ちていた。
その日の午後、皆が力尽きるようにして耕起を終えた頃、畑の端から小さな人影が歩いてきた。
ベルタだ。
籠を荷車に載せて畑にやってきた。中には、何やらうっすら土まみれの小麦種籾が入っている。
「じゃあ撒いてくよ」
牛で耕されていない、草がぼさぼさと生えたままの休耕地へ足を踏み入れた。
そして、おにいさんが引き直した真直ぐな目印の紐に沿って、種籾をぽつぽつと落とし始めた。
驚くほどの間隔の広さだ。俺たちが手づかみでドバッとバラ撒くのとは訳が違う。すかすかの種まきだ。
「おいおい……そんなに離して蒔いて、芽が出なかったらどうするんだよ」
俺が呆れ果てて呟いた直後、おにいさんが後ろから歩いてきた。
その足元には、見たこともない奇妙な木があった。横幅の広い木枠に、鋭い陶器の三角が何本も固定されている。
おにいさんはそれを足に装着し、ザッ、ザッ、と力強く踏み下ろしながら歩き出した。
なんだよこれ。
おにいさんが体重をかけて一歩踏み出すたびに、生い茂っていた草の茎がバキッと折れ、地面へと押し倒されていく。倒された草は、そのまま蒔かれた種籾の上を覆っている。
「……おい、おにいさん」
俺は押し倒されていく草の絨毯を見つめながら歩み寄った。
「俺には真似できんが……本当にこれで芽が出るんだな?」
おにいさんは踏みつける手を——いや足を止めず、汗の浮かぶ顔で振り返り、いつものように真顔で返事した。
「大丈夫だ、ハンス。一粒一粒小さな土にくるまれていると考えてくれ。押し倒された草が鳥の目を欺いてくれる。それから……いつも心配してくれて、本当にありがとうな」
真顔で礼を言われ、俺は少し気恥ずかしくなって鼻をかいた。
ふと見ると、少し離れたところでヨセフが目を丸くして休耕地の土を眺めていた。
押し倒された草の隙間から見えたのは、黒く、しっとりと湿り、まるで蒸しパンのように柔らかく崩れる素晴らしい土だった。
種籾を撒き終えたベルタがヨセフに話す。
「春からずっとクローバーを持ってきたり、炭を撒いたり、灰汁ぬきした汁を入れていたからね。柔らかいし黒いよね」
俺は土をひとつまみ拾い上げ、指先で潰した。
固く締まった粘土質のこの土地が、まるで数年間も寝かせた熟成土のようにフカフカになっている。牛でひっくり返さなくても、すでに土の底まで空気が通って湿っている。
おにいさんがやっていた奇妙な作業の全てが、この土の中に蓄積されていた。
俺は立ち上がり、足元のフットクリンパーで草を倒し続けているおにいさんを眺めた。
牛耕の権利を使わなかったのは、それを必要としない土を、春から時間をかけて作り上げていたからか。
「おい、おにいさん」
「何だ?」
俺は腕を組み、足元を指差した。
「それ、俺にもやらせろよ」
おにいさんは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに頷いた。
「どうぞ、ハンス。茎を折れば草は生きるべきか死ぬべきかを迷うんだよ」
「なんだよそれ」
俺は意味不明な説明に笑いながら、ひも付きの木の棒を使って一歩を踏み出した。
バキッ、と心地よい音を立てて草が倒れ、フカフカの黒土が覆われていく。
「成功したら俺も真似するからこれ作ってくれよ」
「もちろんだ」
ずるいかもしれないが新しいことに手を出すには理由が要る。小作もたくさん抱えている俺は失敗できないからな。
いつの間にかヨセフの他に子ども連中も土を突いている。そうだ、お前たちはこれを当たり前として受け入れられるといい。絶対に新しい世界が開けるぞ。
次回、羊の散歩
【作中技術解説】
不耕起・フットクリンパー:カバークロップの圧倒。土を重犂などで耕さず、前作の残渣やカバークロップをクリンパーで茎を折って倒し、地面を覆う技術です。土壌構造や微生物の生態系を壊さずに保水性を高め、雑草の発生をコントロールします。
コーティング種子と疎植条播:種子の周りに焼成粘土、炭、灰などを付着させて保護膜を作る技術です。種子あたりの形や重さを合わせて使いやすくしたり、鳥害や乾燥を防ぎ、発芽率を高めます。播種量を減らして株間を広く取る「疎植」と、列を揃えて蒔く「条播」を組み合わせることで、光と風通しを確保し、途中の管理を入れらるようにして、一株当たりの受光を向上させ分げつと収量を向上させます。
脱リグニン廃液と炭・マメ科植物による土壌還元:植物から繊維を抽出する際に出るアルカリ性の廃液や多孔質の木炭を土に還元する手法です。さらにクローバーなどのマメ科植物を移植することで窒素固定を促進し、土を裸にしないことを合わせて、肥沃な黒色土壌を作り出します。




