収穫祭
視点:ハンス
収穫祭にてレスリングとか相撲とかそういう強制イベント発生。酒が入れば楽しくなるから仕方ない。
互いに怪我をさせないようにしているけれど、やはりおにいさんはおかしい。
黄金色に輝いていた見渡す限りの小麦は姿を消し、広大な畑には切り株だけが残されていた。
過酷を極めた収穫の季節が、ようやく終わったのだ。
領主の直営地での地獄のような耕作賦役、そして自分たちの耕作地での刈り取り。誰もが腰を悲鳴させ、指の皮を擦り剥きながら、ただ冬の飢えから逃れるために鎌を振り続けた。
だが、今夜だけは違う。
村の中央にある広場には大きな焚き火が焚かれ、パチパチと爆ぜる火の粉が、暗くなりかけた秋の空へ吸い込まれていく。
収穫祭だ。
この村に住む者にとって、一年で最も心が踊り、そして誰もが胸を撫で下ろす夜だった。
収穫が終わったということは、少なくとも今夜だけは腹を満たせる食べ物があるということだ。そして冬を迎える前に、束の間の休息が許されるということでもある。
「ほらハンス、さっさと飲めよ! 今日飲まなきゃいつ飲むんだ!」
村の男が、大きな木製のジョッキを俺の手へ強引に押し付けてきた。中には、なみなみと注がれた黄金色のエールが入っている。俺は笑ってそれを受け取り、一気に喉へ流し込んだ。麦の香ばしさと、程よい酸味、そしてかすかな甘みが喉を駆け抜けていく。五臓六腑に染みわたるとは、まさにこのことだった。体の底に溜まっていた重たい疲労が、酒の熱によってじわじわとけていくのが分かる。
「うめぇ……! このエールは、なんだか一段と旨くないか?」
「だろ!? これ、ベルタの家で仕込んだやつなんだよ!」
男が向こうを指さしている。
視線を広場の端へ向けると、そこには木樽の横で、顔をほころばせながら村人に酒を注いでいるベルタの姿があった。その隣には、相変わらず黒い髪と黒い眼をした、おにいさんが静かに立っている。
なるほど、酒の仕込み方や樽の管理にも、何かしら奴の手が入っているのだろう。この村でよく飲む雰囲気のエールではない。
だからこそ、今年のベルタのエールはやたらと旨いのだ。
広場では、古い木管楽器や皮太鼓の音色に合わせて、女や子供たちが手を取り合って踊っていた。村人たちの顔には、ここ数ヶ月の過酷な労働の影など微塵もない。誰もが酒を煽り、少しとは言え肉を喰らい、腹の底から笑い転げている。俺もまた、干し肉を齧りながら二杯目のジョッキを乾かしていた。
一息つく。この気楽な時間こそが、一年間泥にまみれて働き抜いた俺たちへの、唯一の報酬だった。
ところが、である。旨い酒というものは、いつの時代も争いの種になる。ベルタの仕込んだエールがあまりにも旨すぎたため、用意されていた大きめの樽が、あっという間に空になりかけてしまったのだ。
「おい! 俺の分がまだ一杯しか入ってねぇぞ!」
「知るか! 早い者勝ちだろ! お前はさっき二杯も飲んでただろうが!」
「なんだと、この欲張り野郎!」
樽の前に並んでいた男たちが、赤くなった顔で怒鳴り合い始めた。片方は体格のいい若者で、もう片方は腕っぷしを鍛えた農夫だ。二人ともすでにいい具合に酔っ払っている。最初は口喧嘩だったものが、胸ぐらの掴み合いになり、ついに一人が相手を押し倒した。
「おいおい、始まったぞ!」
「やっちまえ!」
周りの男たちが、待ってましたとばかりに歓声を上げる。酒が入った男たちが取っ組み合いを始めるのは、収穫祭のいつもの余興のようなものだ。互いに日頃の鬱憤や体力を発散させるための、泥臭い倒し合い、あるいは押し合いのような代物だった。取っ組み合いは一人から二人、二人から四人へと伝染し、広場の中央にはいつの間にか男たちの汗くさい塊が出来上がっていた。重たい身体同士がぶつかり合い、泥の上を転げ回る。
「まったく、男って生き物は……」
呆れ顔でスープを配る農婦たちの視線と、それを見て指を指して大笑いしている子供たちの歓声が交差する。
俺もジョッキを片手に、そのバカ騒ぎをニヤニヤと眺めていた。その時、誰かが俺の背中をバシッと叩いた。
「おい、ハンス! お前も指をくわえて見てないで入れよ!」
「俺はいいよ、せっかくの酒がこぼれる」
「固いこと言うなよ! お前、村で一番力が強いんだからさ!」
男たちが俺を押し出し、同時に広場の片隅で静かに木樽を片付けて粥を食べたりナッツを食べているおにいさんを見つけた。
「ほら、お前もやってみろよ! 浮かない顔して見てないでさ!」
「おいおい、ハンスはすげぇ強いぞ! おにいさんほっそいからな。怪我するからやめた方がいいんじゃねえか?」
「ハンス! お前、おにいさんは力仕事に慣れてねえんだから、ちゃんと加減してやれよ!」
村人たちが口々に囃し立てる。おにいさんは困ったようなよくわからない笑いを浮かべ、手にした椀を樽の上に置くと、のそのそと前に出てきた。俺はおにいさんの体つきを改めて観察した。背はそれなりにあるが、俺たちのように、日常的に丸太を担いだり固い土を耕したりして作られたぶ厚さがない。
よく働く人間ではあるが、どう見ても俺の体格と腕力には及ばない。
「……おにいさん、無理しなくていいんだぞ? いや、俺は加減が上手いから、とりあえず参加しておけ。いまはそういう祭りの時間だからな」
俺は少し得意になって、太い腕を叩いて見せた。
おにいさんは流石ハンスだとかなんとか言って、ただ浅く首を折って挨拶をした。例の奇妙なお辞儀だ。
村人たちがぐるりと円を作り、口々に声援を送る。
「ハンス、手加減しろよー!」
「おにいさん、一歩でも耐えたら大したもんだ!」
「よし……じゃあ、いくぞ!」
俺は腰を低く落とし、おにいさんの胸元を目がけてガバッと組み付いた。圧倒的な体重差と腕力で、そのまま一気に押し潰して泥の上に転がしてやるつもりだった。
手加減はする。怪我をさせたらシャレにならないからな。
だが——。俺の手がおにいさんの服に触れた瞬間、奇妙な感覚が襲った。手応えがないのだ。押したはずの場所に、おにいさんの体がなかった。いや、体はあるのだが、俺の押し出す力がスーッとどこかへ滑り落ちていくような感覚だった。おにいさんが、ほんのわずかに肩を突き出し、俺の手首のあたりを軽く払うように触れた。たったそれだけの動作で、俺の前のめりになった重心が、恐ろしいほどあっけなく前方に崩れた。
「は……!?」
足元が浮く。自分がどこへ向かって倒れようとしているのか分からなくなる。慌てて体勢を立て直そうと、右足を一歩前へ踏み出そうとした。その瞬間だった。コン、と軽い音がした。俺が出そうとした右足の足首の後ろ側に、おにいさんの足の裏が、まるで吸い付くような精度でチョンと引っかかった。力づくの蹴りではない。ただ、俺が出そうとした足の動きを、ほんの少しだけ邪魔されただけだ。だが、重心を崩されていた俺にとって、その小さな邪魔は致命的だった。すてんっ!
「うおっ!?」
大きな音を立てて、俺は尻から泥の中に落ちた。尻もちをついた衝撃もねぇ。空を見上げる形になった俺の視界に、何事もなかったかのように立っているおにいさんの顔が入ってきた。一瞬の静寂の後、周囲から大歓声と大爆笑が巻き起こった。
「ギャハハハハ! ハンスが尻もちついたぞ!」
「おいハンス! お前、加減しすぎだろ!」
「カッコつけやがって! あっけなく倒れやがって!」
村人たちが腹を抱えて転がり回っている。俺は顔を真っ赤にして立ち上がった。泥を尻から払い落としながら、目の前のおにいさんを睨みつける。なんだ……? 今のはなんだ……!?腕力で投げられたわけじゃない。突っ張られたわけでもない。ただ、俺が勝手に体勢を崩し、勝手に足を滑らせて転んだようにしか見えなかった。だが、俺は知っている。俺は昔から足腰の強さだけには自信があった。そんな俺が、こんなあっさりと尻もちをつくはずがない。
「くそっ……おにいさん、今のは油断した! もう一回だ!」
俺は鼻息を荒くして、再び構えた。今度は手加減抜きだ。本気で組み付いて、俺の持ち前の筋力を見せつけてやる。
「ハンス、本気出すなよー!」
「おにいさん逃げろー!」
野次を飛ばす村人たちの声を無視して、俺は一歩踏み込んだ。おにいさんは相変わらず、脱力したような構えで立っている。俺はおにいさんの胸元を両手で強く掴んだ。今度は逃がさない。がっちりと服の布地を握り締め、自分の腰を落とし、おにいさんの体を一気に持ち上げるようにして引き寄せた。手応えがあった。これならいける。俺はおにいさんの体を横へひねり、俺の太ももの上を通過させるようにして、思い切り泥の上へ投げ飛ばした。俺の全筋力が乗った、文句なしの大投げだ。普通なら、背中から地面に叩きつけられて息を詰まらせるような威力だった。あ、やべっ……強く投げすぎたか!? 投げた瞬間に後悔が走った。おにいさんが怪我をしたらベルタに怒られる。
ところが——。投げ飛ばされたおにいさんの体は、投げられた勢いを殺すどころか、その勢いにそのまま自分から乗るようにして、遥か遠くまで飛ばされ、地面の上を転がったのだ。パシィン!泥の上に叩きつけられたのは、背中ではなく、おにいさんの広げた両腕と手のひらだった。大きな音とともに衝撃を逃がしたおにいさんは、そのまま回転の勢いを利用してクルリと地面を転がり、何事もなかったかのように滑らかな動作でひょいと立ち上がった。服には少し泥がついているが、呼吸一つ乱れていない。立ち上がったおにいさんは、軽く肩の泥を払い、やるなハンスとかズレたことを言っていた。
場が、一瞬だけ静まり返った。俺投げたよな? 今、豪快に投げ飛んでいったよな?普通なら、骨が折れるか動けなくなるレベルの投げだ。なのに、なんであいつは平然と立っているんだ?村人たちは一瞬ハトが豆鉄砲を食らったような顔をしていたが、次の瞬間には、先ほど以上の大爆笑が巻き起こった。
「ギャハハハハハ! 吹き飛びすぎだろおにいさん!」
「おいハンス! お前、加減しろって言ったのに吹き飛ばしすぎだ!」
「どんだけ遠くまで飛ばしてんだよ! まるで跳ねる袋だな!」
村人たちには、おにいさんが俺の凄まじい力で派手に吹き飛ばされ、そのまま転がって立ち上がっただけにしか見えなかったらしい。
「ハンスの馬鹿力に巻き込まれた可哀想なおにいさん」
という構図ができあがってしまい、みんなが大ウケしていた。だが、投げた当事者の俺だけは、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。絶対におかしい……!俺はあいつを投げた。それは間違いない。だが、投げられたあいつは、まるで「投げられることを最初から知っていた」かのように体を丸め、衝撃を殺し、着地した。強烈な力で叩きつけられたはずなのに、完全に無力化していた。あいつは、強いのか?それとも、弱くてただ吹き飛ばされただけなのか?俺をあっさり尻もちつかせる怪しい技を使いながら、俺に投げられた時は派手に吹き飛んで無傷で戻ってくる。強いのか、弱いのか。凄いのか、ただの運がいい奴なのか。さっぱり判断がつかない。
「ハンス、もうやめとけ! おにいさんがかわいそうだろ!」
「そうだぞ、ハンスの勝ちだから酒飲もうぜ!」
村人たちが俺の背中を叩き、ジョッキを再び握らせてきた。おにいさんはといえば、何事もなかったかのように俺の肩を叩いて、ベルタのところへ戻っていった。俺は手に持ったジョッキを見つめ、それからおにいさんの横顔を見た。
あいつが強いのか弱いのか、俺にはさっぱり分からない。でも、俺は大きく息を吐き出し、深く考えるのをやめた。あいつが何者であれ、どれだけ得体が知れなくても、あいつはこの村に害をもたらしていない。それどころか、ベルタを生かして、村にすっかり馴染んでいる。
おにいさんが強いかどうかなんて、どうでもいいことだ。 わけが分からん奴だからこそ、一緒にいて面白い。今まで通り、よく分からん面白え奴として、適当な距離感で付き合っていけばいいんだ。
「おい、おにいさん!」
俺は大声で叫び、おにいさんの方へ歩み寄った。おにいさんが振り返る。俺はおにいさんの肩をガツンと力任せに叩いた。
「さっきは悪かったな! 投げすぎた! お詫びに俺の酒を分けてやるよ!」
「ありがとう、ハンス。俺は下戸だから飲んだら死ぬ」
おにいさんは、いつものように少しだけ口角を上げて笑った。 それを見た周りの村人たちも、ホッとしたように笑い声を上げた。
村の中で、誰よりも最初におにいさんと言葉を交わし、誰よりもあいつの妙な作業に付き合ってきたのは俺だった。
その俺がおにいさんと笑い合っている姿を見て、村の連中もまた、この異国の異邦人を「自分たちの仲間」として受け入れているようだった。 夜は深まり、焚き火の火がパチパチと音を立てる。俺とおにいさんは、並んで丸太に腰掛け、星空を見上げながら静かに酒を飲んだ。言葉は多くない。でも、この心地よい沈黙があれば、それで充分だった。
次回、アルカリ処理亜麻




