小麦刈り取り
視点:ハンス
賦役で領主直営地の収穫を終えた後、いよいよ自分たちの畑の収穫に臨む。
となりの畑のおにいさんが持ち出した意味不明な農具に驚愕する。
太陽が天頂から容赦なく照りつけ、乾いた土埃が喉を焦がす。この時期は、俺たちの農民にとって一年で最も呪わしい、そして最も重要な季節だった。
小麦の収穫である。
それも、自分たちの分け前になる小作地の話ではない。まず片付けなければならないのは、領主の直営地の刈り取りだ。いわゆる耕作賦役というやつである。この労働のために、俺たち村の男たちは自分の畑の最適な刈り取り時期を奪われ、牛や犂を引いて駆り出される。不平を言えば代官の鞭が飛んでくるし、何よりここで手を抜いて収穫量が落ちれば、冬の間に村全体がどのような目に遭うか分かったものではない。
「くそっ、腰が完全にやられちまう……」
俺は、手にした小さな鉄の鎌を握り直し、深いため息をついた。
俺たちが使っているのは、手のひらに収まるほどの短い三日月鎌だ。残念だが木の鎌に刃先だけ鉄を埋め込んだ代物だ。すべて鉄の刃にするなら鍛冶屋にどれだけの現物を積めばいいのか分からない。刃先は何度も研ぎ直されて痩せ細っている。
この貧弱な道具で小麦を刈るには、一歩進むごとに地面へ深く腰を屈め、左手で一掴みの麦の茎を掴み、右手でその根元を泥ごと削ぎ取るようにして刈り取らなければならない。姿勢は常に前傾、というかほぼ地面に這いつくばる形になる。数時間も続ければ、背骨の芯に鉄の楔を打ち込まれたような激痛が走り、立ち上がることすら苦痛になる。
しかも、能率が最悪だ。一人が一日に刈り取れる面積など、たかが知れている。だからこそ、村中の人間が総出で、何日もかけてこの広大な直営地を泥臭く這い回るのだ。それが何世代も続いてきた、この世界の当たり前の光景だった。
とは言え、俺たちもそれなりの対応はしている。代官の目を盗んで怠けて体力を温存しているし、他の連中とは刈り取る速度をきっちり合わせて互いに疲れ切らないようにしている。
賦役なんて言うのは何も得るものが無いから当然だ。
「本日で終了である」
代官の声が聞こえてきた。ようやく終わったか、明日からは俺も自分の畑の刈り取りを始められるな。
「よぉ、おにいさん、お疲れさん。お前も明日から刈り取り始めるだろ?」
声をかけたら急に我に返ったような顔をしていた。こいつ、寝ながら作業をしてやがったのか。どんだけ器用なんだよ。
「ああ、ハンス。体は大丈夫か?鎌はちゃんと使えるか?」
「まあな。早く刈り終えたら手伝ってくれや」
「もちろんだ」
そんな軽口にやたら真面目に答えるあいつは、まあ悪いやつじゃない。要領もいいから別にに心配もない、むしろ変な事をしだすのが面白いくらいだ。
家に帰ったらさっさと寝てしまおう。明日になればやつが直営地では見せなかった新しい小麦の刈り方を見せてくるかもしれないからな。楽しみで思わず笑ってしまった。
「おい、おにいさん。何だよ、これは」
おれは呆気にとられたような声を上げてしまった。
おにいさんはいつも通り、感情の読めない涼しい顔をしている。だが、その両手に握られている物体は、俺たちの知るどんな農具ともかけ離れていた。
それは巨大な大鎌だった。
俺たちの使う三日月鎌の五倍はあろうかという長大な木製の柄が、奇妙な曲線を描いて伸びている。その柄の先端には、これまた見たこともない長さの刃が横向きに取り付けられていた。
だが、何より異常だったのは、その刃の質感だ。銀色に光る鉄の刃ではない。それは石なのか?色合いからすると燧石だが、こんなにも同じ大きさと形で隙間なく嵌め込めるものなのか?
「何なんだ本当に。籠もつけているのか?」
俺は思わず呟いた。
驚くべきは刃だけではなかった。その大鎌の根元から、まるで鳥の肋骨か、あるいは薄い木製の熊手のような、不思議な形をした軽量の枠組が平行に何本も突き出していたのだ。
「ガンバリマスカ」
おにいさんは誰に言うでもなく何か呟くと、大鎌の二箇所の取手を両手で軽く握っていた。
握るというよりもつかむというか添えるというか軽い調子なのだけはわかるのだ。
俺を含め、周囲の農民たちは作業を止め、唖然とその様子を見つめていた。あんな馬鹿げた長さの道具を振り回せるわけがない。一振りで腰を痛めるか、あるいは麦の茎に刃が引っかかって転ぶ、誰もがそう思った。
しかし、おにいさんが最初の一歩を踏み出した瞬間、その予想は木端微塵に砕け散った。
――シュパァァァン!
小気味よい、しかし極めて鋭い破壊音が響いた。
おにいさんは腰をほとんど曲げていない。直立に近い楽な姿勢のまま、身体の軸を滑らかに回旋させただけだ。それだけで、長大なフリントチップの刃が、地面からわずか数センチメートルの高さを完璧な水平の軌道で薙ぎ払った。
一振りで、俺たちが十回以上腰を屈めて刈るほどの範囲の小麦が、抵抗もなく同時に切断された。
さらに驚くべきは、その直後の挙動だった。稈もつかまずに刈り取れば麦はバラバラに四方へ飛び散り、後から拾い集めるのが致命的に面倒になる。だからこそ俺たちは左手で掴みながら刈るのだ。
だが、おにいさんの大鎌に取り付けられた籠が、その問題を完全に解決していた。刈り取られた小麦の束は、倒れる瞬間にその木製の枠組に綺麗に捉えられ、おにいさんが鎌を振り終え戻す動きに合わせて、進行方向の左側に一列に美しく揃えられて地面へ横たえられたのだ。
「な……なんだ、ありゃあ……!」
誰かが絶叫した。
おにいさんは歩みを止めない。一歩進み、身体を右から左へしなやかにひねる。刈そろえられた麦が地面に置かれる。また一歩進み、ひねる。まとまった麦が地面で横になる。
その動きには一切の無駄がなかった。
這いつくばる俺たちの視界の中で、おにいさんはただ普通に歩いているだけのように見えた。だが、その歩みの後ろには、信じられないほどの幅で綺麗に刈り取られた「更地」と、完璧な間隔で並べられた小麦の束の列が、ものすごい速度で伸びていく。
「おいおいおい! 速すぎる! 人間の業じゃねえ!」
俺の心臓は激しく高鳴っていた。農民としての経験が、目の前の光景の異常さを理解し、恐怖すら感じていた。
通常、俺たちが一日中這いつくばって、腰を破壊しながら刈り取る面積を、おにいさんはほんの数十分で平らげていく。その出力の差は、十倍や二十倍というレベルではない。まるで、人間が牛車で荷物を運んでいる横を、見たこともない巨大な鉄の塊が風を切って走り抜けていくような、圧倒的な格差だった。
ふと、おにいさんの持つ大鎌の刃先を見た。
激しく小麦の茎を刈り取り続けているにもかかわらず、燧石の刃は欠けることも鈍ることもなく、不気味なほど鋭利な輝きを保っている。鉄の鎌なら、何度も砥石で研ぎ直さなければすぐに切れ味が落ちるというのに、この刃は植物の繊維など最初から存在しないかのように滑らかに断ち切り続けている。
俺は俺の作業をしながら時々、横の畑、おにいさんが刈り取っている畑を眺めた。もう端についてしまうではないか。
「面白いものが見られるどころの騒ぎじゃねぇな」
これはどうしても必要な農具になる。おにいさんは新しい大鎌を作ってくれるだろうか?きっと作ってくれるだろう。
やつはそういう人間だ。短い付き合いだがよくわかる。
俺は支払いに充てる小麦か労働を計算し始めていたが、まだ刈り取りは終わっていないことに気が付いた。
やれやれ、浮足立つのも体外にしないといけないな。
俺は高価な鉄の刃を研ぎなおして麦刈りに戻った。
次回、わら束ねじり込み
【作中技術解説】
クレイドル付き大鎌による収穫アルゴリズム:手鎌より一度に大きく刈り取れる大鎌は非常に効率がよいです。ただし、大鎌で麦を薙ぎ払うだけでは、刈り取られた麦は地面にバラバラに散らばってしまいます。これを集め、手元で根元をトントンと叩いて揃える「整列プロセス」は、実は刈り取りそのものと同じかそれ以上に時間がかかる重労働でした。クレイドルは、薙ぎ払うと同時に麦の茎を木枠で受け止め、刈り手のスイングの終点で「すべての根元と向きが美しく揃った状態」で地面にスライド配置します。これにより、後続の縛り手の処理も効率的になり、収穫作業全体の処理が向上します。
耕作・収穫賦役におけるサボタージュ:領主の直営地での義務労働である賦役は、農民にとって何の得にもならない「完全な無償労働」です。さらに、直営地の作業を最優先させられるため、「自分たちの小作地」の最適な収穫期を逃してしまうという死活問題を常に抱えていました。
当時の農民にとって最善の最適化行動は、直営地で「いかにエネルギーを消費せず、かつ反逆と見なされない限界の低速で作業を引き延ばすか」でした。わざと犂の深さを浅くして牛を労わったり、鎌の刃がなまったと言い訳して砥石でダラダラと刃を研ぐ「能動的サボタージュ」は、抑圧されたシステム下における農民たちの極めてロジカルな生存戦略だったのです。




