立毛間播種
視点:ハンス
収穫前の小麦畑で種まきをするおにいさんを目撃してしまう。話を聞きながらつい手伝うハンスです。
今年の夏は、例年以上に空が青く高かった。
村の周りに広がる冬小麦の畑は、すっかり黄金色に染まりきっている。
乾いた風が吹くたびに、重そうに頭を垂れた穂が一斉にざわめき、波のように揺れた。
収穫の時期がすぐそこまで迫っている。
納屋の裏では、村の親父たちが早くから鎌を引っ張り出してきて、がりがりと小気味よい音を立てながら手入れをしていた。
誰もが今年の収穫高を予想し、冬までの蓄えを計算する、そんな落ち着かない時期のことだった。
だからこそ、俺が畑の境界にあるあぜ道を通りかかった時、その中央に立つ二人の姿を見て思わず足を止めたのだ。
「また、おにいさんが妙なことを始めているな……」
思わず独り言が口から突いて出た。
まだ刈り取られていない麦畑の、そのただ中をおにいさんがずんずんと歩いている。
そのすぐ後ろを、小さな影が一生懸命について回っていた。わたしだ。
二人とも、背丈ほどもある大きな編み籠を抱え、熱心に地面を見つめている。
その光景を見て、俺はこの前のことを思い出していた。
あの時は、麦の粒が膨らむ大事な時期だというのに、おにいさんは骨の汁を撒き散らしていたのだ。
まだ結果を見ていないが、何やら理屈があって否定もできないものだった。簡単にそれは違うと切り捨てられなくなっていた。
だが、今日の様子は少し違っている。そもそも桶を持っているわけでもない。
おにいさんが大きな籠から掴み出して、穂の間へ向かって地味に撒いていた。
ぱらぱら、ぱらぱら。
乾いた音がして、小さな粒がおにいさんの手から離れ、黄金色の隙間へと消えていく。
わたしも小さな手で同じように籠の中身を掴み、おにいさんの真似をして楽しそうに放り投げていた。
「あるだけ撒いて帰ろう」
「はーい!」
わたしの元気な声が響く。
我慢できなくなった俺は、あぜ道から畑の畝の隙間へと一歩を踏み出した。
「おーい! おにいさん、ベルタ!」
声をかけると、二人が同時にこちらを振り返った。
わたしがすぐに満面の笑みを浮かべ、小さな手をちぎれんばかりに振ってくる。
「あ、ハンスおじさん! 見てて、今お仕事してるの! 種まきさん!」
「ああ、見ているとも。遠くからでも目立っていたからな」
俺はおにいさんの元へと歩み寄り、その背負った籠の中身を覗き込んだ。
そこには数え切れないほど多様な形の草の種が、ごちゃ混ぜになって詰まっていた。
あるものはクローバーの枯れた花であり、あるものは黄色い菜の花の干からびた鞘、またあるものはトゲのある小さな実や、細長い独特の香りがする種、人参か?そのほかにも雑多な種が入っていた。種というより枯れた花がそのままだな。白いクローバーではなく枯れて茶色くなった花、人参の花も白くてふわっと開くので割と好きなんだが、これは茶色く枯れて無残だ。
お世辞にも、きれいに選別された種とは言えない。
まるであらゆる雑草の種を、手当たり次第にかき集めて混ぜ合わせたような有り様だった。
「いっぱい集めたの!」
わたしが俺の服の裾を引っ張りながら、自慢げに胸を張った。
「わたしね、お散歩のときに、お花が終わったあとのチクチクしたやつとか、お豆のちっちゃいやつとか、いーっぱい集めたんだよ! おにいさんがお手伝いしてくれたの!」
「確かに、これはとんでもない量だな……。村中のあぜ道や野原を探しても、これだけ集めるのは一苦労だったろう」
籠は三つもあり、どれも溢れんばかりに種が詰まっている。
子供の遊びの延長とはいえ、毎日根気強く続けなければ、決して溜まらない分量だ。
そういえばおにいさんも賦役の帰りにいつも何かを拾っていたな。枯れた花も摘んでいたことは覚えている。
「それで、その雑多な種を、この収穫間際の麦畑に撒いてどうするんだ?」
俺は首を傾げた。
この村では小麦を育てた後は休耕地にして共同放牧地にする。草が生えてくるまでは麦の切り株ばかりが並んでいるのが常だ。
何か撒いたのならそれは牛や羊に食われて終いだ。
今はまだ、麦がびっしりと地面を覆っている。
「牧草を生やします」」
おにいさんは当然のように言った。
「今って……お前、もうすぐ収穫だぞ? 刈り取る時に、畑に踏み入ってせっかくの種を踏み潰してしまうじゃないか。それに、耕しもしていない固い地面に、そんな裸の種をそのまま撒き散らして、鳥や虫に食い荒らされるだけだろう。いやそもそもなんで草の種を撒いているんだよ」
俺が知っている当たり前と違うことをすべて聞いてみた。何か意味がるのなら知りたいのは普通の事だろう。
おにいさんは黄金色の穂を指差して、笑ってみせた。
「前にまいて踏みつぶします。種は少し土に埋まります」
「それは……確かにそうだな。いや、それでいいのか?耕さなくて本当に芽が出るのか? 土にも潜っていないんだぞ」
するとおにいさんは、あぜ道の向こうに広がる、誰も手をつけていない野原を静かに指差した。
「ハンス。野原の草は耕さなくても芽吹いてくる」
「いや、そうだな。ただ勝手に生えている草だ」
「はい。同じ種です。生えてきます」
「……!」
俺は大きな衝撃を受けて、言葉を失ってしまった。
あまりにも当たり前すぎる事実だった。
言われてみればその通りだ。世界の草は、誰も耕していない固い地面の上で、自分の力だけで勝手に芽を出し、育ち、増え続けている。
俺たち農民は、いつでも「畑をきれいに耕して植えるべきだ」と、頭が固くなっていたのかもしれない。
おにいさんのやり方は、野原のやり方をそのまま畑に持ち込んでいるだけなのだ。
俺は籠の中の、あまりにも雑多な種をもう一度掴み上げ、目の前にかざした。
「これだけ撒くと何が育つかわからないな」
「はい、わかりません。育ったやつで気に入ったものがあればいいです」
そういえば春に手伝った時は小麦がまばらな場所に泥玉に種を入れたやつを撒いたな。
やはりどれかが育てばいいという理屈だったのか。
そして今回は小麦が生えそろっている場所だ。こんだけぎっしり生えそろっていたら鳥がついばむ余地は全くない。
話の筋は通っているような気がしてならないな。
俺は掴んでいた種を、そっと籠へと戻した。
おにいさんのやり方は、最初から自然の気まぐれを受け入れ、どれが当たってもいいように網を広げているのだ。
ベルタが、俺のズボンの端をぐいぐいと引っ張った。
「ハンスおじさん、お話はおしまい! はい、これ!」
見ると、わたしが小さな両手いっぱいに、種をすくい上げて俺に差し出していた。
「俺にこれをどうしろと?」
「いっしょに撒くの! ハンスおじさんもお手伝いして!」
「おいおい、俺はただ通りかかっただけだぞ?」
ここで断って帰るつもりもなかった。それに何より、この奇妙な実験の片棒を担ぐのは、それほど嫌な気分ではなかった。
「分かったよ。少しだけだからな」
「わーい! ハンスおじさん大好き!」
ベルタが飛び跳ねて喜び、俺に小さな籠を一つ手渡してくれた。
受け取ってみると、乾燥した草の種は驚くほど軽かった。
俺はおにいさんとわたしの間に挟まれるようにして、黄金色の麦畑の中へと一歩を進めた。
種を一掴み、手の中に取る。
ザラザラとした不揃いの感触が手のひらに伝わる。
それを、目の前の麦の隙間へと、手首を払うようにして放り投げた。
ぱらぱら。
小さな粒たちが、斜めに差し込む日の光を浴びてきらめきながら、土へと落ちてしていく。
「ハンスはやはり器用です」
「茶化すな。俺はこれでも、物心ついた時から畑に入っているんだ。種を撒くくらいの加減は分かる」
俺は少し得意になって、次の固まりを掴み、今度は少し遠くへ撒いた。
三人で横一列に並び、麦の茎をなるべく傷つけないよう、慎重に足を運びながらゆっくりと進む。
俺とわたしが種を降らせ、おにいさんがそれに合わせて歩調を調整する。
風が吹くと、黄金色の波がおにいさんの背中を隠すように揺れ、俺たちの周囲には、乾いた草の香りが優しく漂った。
「なぁ、おにいさん」
俺は作業を続けながら、ふと思いついた疑問を口にした。
「もし、この種たちが思惑通りに全部芽を出したら、収穫の後の畑はどうなるんだ?」
「麦を刈り取ったら、もう草が生えています。すぐに牛も羊も草を食べられます」
「家畜の餌に……。なるほど、収穫の後の干からびた畑じゃ、羊も大して肥えないからな。それが青々とした草地になるなら、冬前の肉付きがまったく違ってくる」
頭の中で、青い草を美味そうに食む羊たちの姿が、ありありと浮かんだ。
それは、これまでの俺たちの村にはなかった、全く新しい冬越しの景色だった。
やはり、この男の考えることは規模が違う。
突飛に見えて、すべてが一本の太い線のようにつながっているのだ。
すべての籠が空になる頃には、西の空が燃えるような茜色に染まっていた。
俺の影が、畑の向こうまで長く伸びている。
「ふぅ……これで全部終わりだね」
おにいさんが腰に手を当て、ぐっと上体を反らせて息を吐いた。
わたしはその場にペタンと座り込み、小さな手をバンザイの形に広げている。
「つーかれーたー! でも、いっぱいまいたね!」
「頑張りました。ベルタ」
おにいさんが優しくベルタの頭を撫ぜ、小さな背中をポンポンと叩いてやる。
ベルタはそれが嬉しくてたまらないといった様子で、くすぐったそうに身をよじっていた。
俺は、自分たちが歩いてきた畑を、振り返ってじっくりと眺めた。
見た目は、先ほどと何一つ変わっていない。
夕日に照らされた、ただの美しい、収穫間際の冬小麦の畑だ。
誰がどう見ても、この土の下に数万、数十万もの多様な種が眠っているとは気づかないだろう。
だが、確実にそこには新しい命の仕掛けが施されている。
俺は空になった籠をおにいさんに返し、ニヤリと笑ってみせた。
「おにいさん、これがもし、本当にうまくいって、収穫の後に見事な緑の畑になったら」
俺は、骨灰の時と同じ言葉を、より強い確信を込めて口にした。
「来年は、俺のところの畑でも絶対に真似をさせてもらうからな。その時は、教えてくれよな」
おにいさんは一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、すぐに嬉しそうに、白い歯を見せて微笑んだ。
「はい。もちろんです」
「ああ、約束だ」
「はい。約束です」
俺は二人に手を振り、心地よい疲労感を肩に感じながら、我が家への帰路についた。
この村では、畑仕事というものは昔から、親父がやった通りに、その親父がやった通りに繰り返すものだと決まっていた。
家によって多少は違うところもあるが、自然の恵みを祈るように待つのが農民の生き方だった。
このおにいさんのやり方はわからないことの方が多いが、おかしなことを言っているようには思えなかった。
だからこそ、俺は次もきっと、やつと一緒に種を撒いてしまうのだろう。
次回、大八車
【作中技術解説】
立毛間播種:前作の作物がまだ畑に植わっている状態の時に、その株間や畝間に次の作物の種を撒く農法です。これにより、前作の収穫直後から途切れなく次の作物を成長させることができ、畑の利用効率を極限まで高めることができます。また、作物が途切れないことで、風雨による表土の流出(土壌侵食)を防ぎ、土壌の水分や微生物環境を安定に保つ効果もあります。
多種混播:性質の異なる複数の植物の種を混ぜて同時に撒く手法です。近代農業のように単一の作物だけを整然と育てるのとは異なり、「どの草がその場所の微気候や土壌に合うか」を自然の選択に委ねます。マメ科(窒素固定による土壌肥沃化)、アブラナ科(深く根を張ることによる土壌の物理性改善)、キク科やセリ科など、多様な根の深さや性質を持つ植物が混在することで、土壌の病害虫が特定の種に偏って大発生するのを防ぎ、生態系を豊かに保ちます。
微気候の利用:植物が密集して生えている空間、ここでは収穫直前の小麦の株元に形成される、周囲の局所的な気象環境のことです。背の高い麦の葉が直射日光を遮ることで、地面付近は風が弱まり、温度の変化が緩やかになり、高い湿度が保たれます。この微気候を利用することで、耕起をせずに地表に落としただけの種子であっても、乾燥から守られ、安定して初期の発芽・発根を行うことが可能になります。




