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螺旋の乙女 〜乳白色のセラミックパンク〜  作者: 麻澱 灰


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登熟期

視点:ハンス


小麦が登熟期を迎え、なにやら怪しい汁をまき散らすおにいさんを目撃する。


麦の色が変わり始めていた。

春の瑞々しく柔らかな緑はもうどこにもない。

畑一面に広がる穂は日ごとに重さを増し、頭を垂れ始めていた。

初夏の乾いた風が吹けば、黄金色の波がざわざわと音を立てて畑の奥へと渡っていく。

あと少し。

本当にあと少しで、待ちに待った収穫の時期を迎える。

農民なら誰もが、そわそわとして落ち着かなくなる季節だった。


この時期の百姓は、毎日何度も畑に足を運ぶ。

空を見上げて雨の気配を窺う。

空を舞う鳥が穂を啄みに来ていないか目を光らせる。

森から鹿や猪が柵を破って入り込んでいないか見回る。

環境のほんの少しの違いや不運が、この一年の収穫量を劇的に左右してしまう。

飢えが常に背中を合わせているこの村では、収穫前の数週間こそが最も神経を研ぎ澄ますべき時間だった。


だからこそ、俺は今朝も早くから自分の畑を見回っていた。

異常がないことを確かめ、安堵のため息を吐きながら家路についていた。

その帰り道のことだった。


「あれは……」


少し離れたおにいさんの畑の境界で、奇妙な二人組の姿が目に入った。

おにいさんだ。

そしてその隣には、小さな体を精一杯に動かしている妹のベルタの姿もあった。

二人はそれぞれ、水瓶を抱えて、ゆっくりとした足取りで畑の畝の間を歩いている。

収穫間近の、一番手を触れてはならないはずの小麦畑の中へと向かっていた。


「こんな時期に、一体何をしているんだ?」


今は種まきの季節では到底ない。

雑草を取り除く作業だって、麦の背丈が伸びる前にほとんど終わらせている。

これ以上、畑に分け入って麦の株を傷つける理由など何一つ思い当たらなかった。

俺は気になって仕方がなくなり、自分の足をおにいさんの畑へと向けた。


近付くにつれて、おにいさんの奇妙な動作がはっきりと見えてきた。

おにいさんは抱えた水瓶の中に木の柄杓を入れ、なみなみと溜まった液体をすくい出した。

それを、実りつつある麦の根元に向かって、優しく払うようにして撒いていた。

おにいさんが動くたびに、少し焦げたような匂いが風に乗って漂ってくる。


ぱしゃり。

ぱしゃり。


風に乗って、細かな飛沫が畑の奥へ飛んでいく。

ベルタもおにいさんの手元を真剣な目で見つめながら、小さな手で真似をして同じように撒いていた。

幼い手を一生懸命に動かし、丁寧に、けれど楽しそうに作業を続けている。


「おーい! おにいさん、ベルタ!」


俺が声を張り上げると、二人が同時にこちらを振り向いた。


「あ、ハンスおじさん!」


ベルタがすぐに気付いて、濡れた手をおおきく振ってくれた。

俺は麦の穂を折らないように気を付けながら、慎重に畑の縁へと足を踏み入れた。


「こんな時期に、畑に何を撒いているんだ? うっすら匂いがするけど……」


問いかけると、おにいさんは何も言わずに、自分が抱えていた水瓶の中を指し示した。

俺はその中を上から覗き込んだ。


「……ただの水、じゃないな? 少し濁ってるし、薪を燃やした時みたいな匂いが少しするな」

「煙を集めた汁。歯磨き粉。水で薄めた」


おにいさんは短く答えた。

それはあれか?以前、おにいさんがくれた歯磨き粉、動物の骨を、真っ白になるまで焼いて灰にしたやつと、煙を集めた汁?こっちは意味不明だが、とかく目に染みるあれを汁にしたわけだな。


「今になって、そんなものを撒くのか?」


「はい。今です」


「収穫の直前だぞ?」


「はい。今がその時です」


俺は首を傾げた。おにいさんの言う意味が全く分からなかったからだ。

このように、麦が十分に育ち、あとは実が熟すのを待つばかりの段階で、わざわざ畑に入って何かを撒くなど聞いたことがない。


「麦の粒が大きくなるはず」


おにいさんは、黄金色に変わりつつある麦の穂をそっと手で包み込みながら、静かに答えた。


「本当にか?」


「たぶん」


大真面目な顔で言われたので、俺は思わず噴き上げてしまった。


「おいおい、分からないのかよ」


「はい。分からない」


おにいさんもバツが悪そうに、けれど楽しそうに笑った。


「やる価値はある」


そう語るおにいさんの目は、冗談を言っているようには見えなかった。

俺は知っている。この男はただの思いつきや行き当たりばったりの気まぐれで、大切な畑に手を加えるような人間ではない。

いつも頭の中で何かを違うものを描いている。

雄猪解体を手伝った礼に渡された、脂は見たことが無いほど白く、匂いが無かった。骨灰もそうだ。歯磨き粉なるものだと言って歯木に付けて歯を掃除されたが、まったく世界が変わった。家に帰った時にかみさんがすぐに気づいたぐらいだ。

だからこそ、俺は今回の奇妙な行動も、ただの無駄骨だとは切り捨てられなかった。


「その、試す理由ってやつを、俺にも教えてくれないか?」


おにいさんは少し考えた後、麦の穂を一つだけ丁寧に摘み取った。

それを手のひらの上で軽く揉みほぐす。


「麦は生きている。枯れていない」


おにいさんは麦の根元に近い、まだ緑色を保っている葉を指差した。


「葉っぱ、日の光、水。麦になる」


おにいさんは水瓶の濁った液体を柄杓でかき混ぜた。


「骨灰と水。もっと麦になる」


俺は腕を組み、おにいさんの言葉を頭の中で噛み締めた。

理屈は理解できないが。おかしいとは思わない。葉と光と水のどれかをなくせば麦は枯れるのだ、それが大事なのはわかる。

灰を撒くのもわかる。麦や野菜の育ちが良くなることは俺たち農夫なら知っていることだ。

ただ骨灰は全く試したことがない。

普通骨を薪と一緒に焼くとすげぇ臭くなる。そして黒くなるだけだ。骨の灰なんて作れない。

理屈はわからんが、おにいさんは骨を灰になるまで焼き切ったらしい。

草木灰ではなく骨灰をどうしても使う理由があるからだろう。


「うまくいくと思うか?」


「うまくいくと信じてる」


「絶対に成功する、と言い切れるか?」


「いいえ」


その率直な答えが、俺の胸に妙な信頼感を与えた。

おにいさんは決して、何でも簡単に成功するとは言わない。

まずは自分で考えたことを試す。それがおにいさんのやり方だった。


ベルタは二人の難しい話には興味がないようで、楽しそうにステップを踏みながら液を撒き続けている。


「おにいさん、こっちの列は全部終わったよ!」


「はい。隣の列に行きます」


「はーい!」


二人は並んで、再び畑の奥へと歩き出した。


ぱしゃり。

ぱしゃり。


手元を見ていると、本当にほんの少しずつしか撒いていない。

決してドサッと一箇所に塊で落とすようなことはせず、均一に、薄く広がるように撒いている。

その手の動きは恐ろしく丁寧で、麦へ命令しているようにすら感じた。


「これ、おにいさんの持ってる畑の全部でやるのか?」


「いいえ。少しです」


おにいさんはすぐに首を振った。


説明は続くが、俺はその言葉に感心してしまった。

そうか、比べるのか。

同じ畑の一部だけに撒き、残りには撒かない。

そうすれば、秋に収穫したときに、この汁の効果が本物だったかどうかが一目で分かる。

おにいさんは付け加えていたが、働き手も骨も足りていないという。


「おにいさん、お前本当に面白いな」


俺は改めて畑を見渡した。

今年の気候は順調そのものだ。

適度に雨が降り、日照りも強すぎない。

これほど条件が良い中で、もしこの汁を撒いた区画だけが、さらに優れた実りを見せるというのなら。

それは本物の、誰もが真似すべき技術ということになる。


気づけば俺は、二人の作業を手伝っていた。

おにいさんはそれを見て、困ったように、けれど嬉しそうに苦笑いを浮かべている。

風が黄金色の波を揺らす、とても穏やかな昼下がりの時間だった。


すべての作業が終わりを迎える頃には、二人が抱えていた水瓶はすっかり軽くなり、空っぽになっていた。


「よし、これで終わりだ」


おにいさんが額の汗を拭いながら、満足そうに息を吐いた。

俺も一緒に、汁を撒き終えた畑をじっと眺めてみた。

けれど、見た目的には何一つ変わったところはない。


「これで本当に、違いが出るのか?」


「たぶん」


俺はしばらくの間、沈黙した。

頭の中で、もしもの未来を想像する。

もし、本当におにいさんの言った通り、最後のひと搾りで麦の粒が大きく重くなったら。

この村の、いや、俺自身の来年の収穫が、劇的に増えるかもしれないのだ。


「おにいさん」


「はい。ハンス」


「もし、これが本当に成功したら」


俺は一歩踏み出し、真っ直ぐにおにいさんの目を見つめた。


「来年、俺の畑でも真似したい。やり方を教えてくれよ」


おにいさんは俺の言葉に、少しだけ意表を突かれたような顔をした。

それから、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべた。


「はい。いいですよ。ハンス」


「本当か? 何がいる?」


「薪と骨です」


俺は深く頷いた。秋には豚も解体するし、冬を超えるための薪をたくさん用意しなければならないのだ。おにいさんに渡す分を確保するくらいはできるだろう。


「ありがとう、おにいさん」


結果がどうなるかは、まだ神様にしか分からない。

もしかしたら何も変わらないかもしれないし、骨を集めて汁を作る手間に見合わない徒労に終わるかもしれない。

それでも、この男がやることは、その過程をじっと見ておくべき価値がある。


だから、俺はこの畑を見守り続ける。

麦がどのように実を熟らせていくのか。

骨の汁を撒いた区画と、撒かなかった区画。

その間に現れるであろう小さな、けれど決定的な違いを、自分の目でしっかりと確かめようと心に決めていた。

次回、ローズヒップ


【作中技術解説】

水溶性リン酸:骨を真っ白になるまで焼いた骨灰の主成分はリン酸カルシウムです。リン酸は「実肥(みごえ)」と呼ばれ、穀物の実を大きく育てるために不可欠な栄養素ですが、そのままでは水に溶けにくく植物が吸収しにくい性質を持っています。これをおにいさんは酸性の液体に溶かすことで、植物が根からすぐに吸収できる状態(水溶性リン酸)に変化させています。


木酢液:炭を焼くときに出る煙を冷却して集めた液体です。強い酸性、主成分は酢酸を持っており、この酸の力で骨灰のリン酸カルシウムを溶解・キレート化させ、植物に吸収されやすい形に変える溶媒として機能しています。また、適度に希釈して撒くことで、土壌の微生物を活性化させたり、作物の生理代謝を促す効果もあります。


登熟期のリン酸追肥:穀物が開花したあと、実の中に澱粉を蓄えていく期間を「登熟期」と呼びます。この時期の最後に、葉や茎から実へと栄養をスムーズに移動させるためには、エネルギーの源となるリン酸が非常に重要な役割を果たします。吸いやすい形で最後のひと絞りの時期に追肥することで、実の詰まりを良くし、千粒重(穀物1000粒あたりの重さ)を向上させる狙いがあります。

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