歯磨き粉
視点:ベルタ
記念すべき骨灰の最初の使い道は歯磨き粉でした。ベルタはあからさまにがっかりします。
骨灰というものができて、おにいさんはとても嬉しそうだった。
集めてきた動物の骨をまずは炭の箱で焼いて真っ黒な炭にする。
骨炭を使い終わったら、焼き物と一緒に焼いて真っ白な灰にする。
最後にはボロボロなので簡単に細かくすり潰して粉にできてしまう。
あんなに大騒ぎして喜んでいたのだから、きっとすごい物を作るのだとわたしは思っていた。
わたしは密かに期待していたのだ。
割れにくい新しい土鍋だろうか。
もっとおいしい料理の材料だろうか。
それともいつかお願いした宝石にだってなるかもしれない。
気になって仕方がなくて、わたしは作業中のおにいさんの服の袖を引っぱった。
「おにいさん、その骨灰って、何に使うの?」
おにいさんは仕事の手を止めて少しだけ考えた。
「まずは歯磨きです」
「……は?」
わたしは自分の耳を疑った。聞き間違えたのだと思った。
「なんて言ったの?」
「歯磨きです」
「歯?」
「そうです。歯です」
わたしは完全に固まった。
あれだけおにいさんは骨灰ができてよろこんでいたのだ。
その最初の使い道が、まさか、そんな。
「歯磨き?」
「そうです」
「えぇぇぇ……」
思わずお腹の底から落胆の声が漏れた。
もっとこう、わたしもおにいさんとおもわず踊りだしてしまう程すごいものになると思っていたのだ。
なのに歯磨き。なんとも地味で、なんともがっかりな使い道だった。
「ものすごくがっかりした!」
わたしは胸を張って大きな声で言った。
「だっておにいさん、もっとすごいものを作るって思ったんだもん!」
「まずは歯磨きです。歯は大事です」
「それはそうだけど!」
「すごく大事です。歯が痛くなる。食べられなくなる。死ぬ」
おにいさんの目はとても真面目だった。
おにいさんがこういう目をしている時は、何を言っても無駄だ。わたしはこれまでの経験でよく知っている。
おにいさんはできあがった白い骨灰の粉に、さらに乾かしておいた森の葉っぱを細かくして入れた。これは骨ソースにも入れたとてもいいにおいがする葉っぱだ。
完成したのは、やっぱりただの白い粉だった。いや、乾いた葉っぱの分少し枯れた緑が混じった。
鼻を近づけると少しだけ良い匂いがする。
しかしどう見てもただの粉だ。
食べ物ではないし、お腹の痛みを治すような薬でもない。
「はい。ベルタ。どうぞ」
おにいさんから一本の柳の枝が手渡される。
いつも使っている歯木だ。
わたしは慣れた手つきで柳の木の先を奥歯で噛んで、繊維をほぐして柔らかくした。房にしてその先端へ、おにいさんが小皿に分けた白い粉をちょんちょんと付ける。
「これで歯を磨きます」
「いつもと一緒だね」
「そうです」
わたしは仕方なく、言われた通りに歯を磨き始めた。
こしこし。こしこし。
口の中が少しざらざらする。でも痛くはない。思ったよりもずっと細かくすり潰されているようで、砂を噛んだような嫌な感じはしなかった。葉っぱの香りが口の中に広がって、ちょっと不思議な気分になる。柳だけよりはマシな気がする。
わたしはコップから水を口に含んで、ぶくぶくと口をゆすいでから外の地面に吐き出した。
ぺっ。
口の中が少しさっぱりした。でも、本当にそれだけだった。
「どうですか」
おにいさんが期待に満ちた顔で覗き込んできた。
「……わかんない」
本当に分からなかった。いつもと何が違うのだろう。おにいさんは少し肩を落として苦笑いした。
「鏡を見ましょう」
おにいさんが差し出してきたのは、炭鏡だった。平らな石に合わせて磨き切ってくれた炭の鏡だ。
わたしは鏡の前にしゃがみ込んで、大きく口を開けた。
「あー」
自分の歯をじっくりと見る。
白い。
いつも通りに白い。
「……やっぱり変わらないよ」
おにいさんは腕を組んで少し考えて、それからポンと手を叩いて楽しそうに笑った。
「ベルタはきちんと歯を磨いています」
そうだった。
おにいさんが現れてすぐに毎日歯を磨くようになったのだ。
朝起きたら、こしこし。
夜寝る前に、こしこし。
そのあとで細く裂いた糸を持たされて、歯と歯の隙間に挟まったカスまで綺麗に掃除させられていた。
最初は面倒で仕方がなかった。でも、毎日やり続けて、今ではすっかり当たり前の習慣になっていたのだ。
「毎日磨いてベルタは偉いです」
「そうなの?わたしは偉いの」
「はい。偉いです」
わたしはもう一度だけ黒い炭鏡を覗き込んだ。確かに、村の他の一部の大人たちみたいに、歯の根元が黒くなったりはしていない。黄ばんでもいないし、欠けてもいない。
でも、毎日自分で見ている顔だから、昨日と今日の違いなんてさっぱり分からない。
「うーん……」
なんだか、おにいさんだけが納得していて、自分だけが損をしたような気分だった。
「もっとこう、ピカッと白くなったりしないの?」
「続けましょう。少しずつ変わります」
なるほど、それは少しだけ納得できた。
毎日少しずつ変わるもの。
畑もそうだ。毎日見ていると分からないけれど、気がつけば麦が育っている。
春に植えた作物の芽もそうだ。
家の中もいつの間にか見たことが無いものばかりになってきた。
だから歯も同じなのかもしれない。
その日の夕方。ハンスおじさんが、ひょっこりとやって来た。
「おにいさん、何作ってるんだ?」
「歯を磨く粉です」
おにいさんが平然と答える。ハンスおじさんはあからさまに変な顔をした。
「歯を磨く粉ってなんだよ」
ハンスおじさんは全く同じ言葉を聞き返した。
わたしはそれを見て、思わずお腹を抱えて笑ってしまった。
そうだ。ふつうは皆そうなんだった。歯を磨くのだってしたりしなかったり、はっきり言ってほとんどしないのだ。それなのに歯を磨く粉と言われてもピンとこないのは当たり前だった。
「ハンスもどうぞ」
柳の枝と粉を差し出す。
「いや、俺は別に……」
ハンスおじさんは嫌そうな顔をして一歩下がった。けれど、おにいさんに「男前です。やるといいです」とかなんとか言われて押し切られ、結局は柳の枝に骨灰を付けて試すことになった。
ハンスは渋々口に歯木を突っ込んで、顔をしかめながらごしごしと磨いた。
しばらくして、水でお口をゆすいだハンスにおにいさんが炭鏡を渡す。
「……おお!?」
鏡を覗き込んだハンスが、目を見開いて声を上げた。
「なんだこれ!?俺の顔が映っている!」
そうか、いつの間にかわたしはおにいさんに慣れてきたのかもしれない。鏡なんてこれを作ってもらうまで見たことがなかったのだ。
しかしすぐにハンスおじさんは歯磨きの感想を言ってくれた。
「なんか、歯の裏側がすごくつるつるする! 黒かったところが少し薄くなってる気がするぞ!」
「はい。続けるといいです」
「これ、悪くないな。おにいさん、俺にもその粉を分けてくれよ」
ハンスは自分の歯を指で触りながら大喜びしていた。
わたしはその様子を少し離れたところから眺めていた。毎日磨いていなかった大人は、すぐに変化が分かるらしい。ちょっとだけ羨ましかった。
おにいさんがわたしの頭にぽんと手を置いた。
「ベルタの歯はとてもきれいです」
むふふ、また褒められた。歯が痛くなって何も食べられなくなるのは怖いし、これからも褒められることにしよう。
だから、大人しく続けようと思った。
朝と夜の、柳の枝。糸。そして新しく加わった、骨灰の粉。
少しだけ手間は増えて面倒だけれど、これくらいは悪くない。
そう思いながら、わたしはもう一度だけ自分の席に戻って、炭鏡の中の自分を覗き込んだ。やっぱり今日も、昨日と同じ見慣れたわたしの顔が映っているだけだった。
でも、隣でおにいさんは、ハンスおじさんに骨灰と柳の枝を分けて満足そうに笑っていた。
「せっかくの骨の灰なのに、はじめはが歯磨きかぁ……」
わたしは小さくため息をついた。
あれだけ骨が大好きなおにいさんが喜んだのだ。もっとすごくて、みんなが驚くようなものを期待していた。
けれど、だから、きっとこの骨灰の使い道もこれだけで終わりではないはずだ。
次はおにいさんは、この白い粉を何に使うのだろう。
その時こそ、本当にびっくりするような、すごいものが出てくるに違いない。わたしは心の中で、次をこっそりと楽しみにすることにした。
次回、登熟期
【作中技術解説】
骨灰の研磨作用:動物の骨を完全に白くなるまで焼き切った骨灰は、主成分がリン酸カルシウム(人間の歯や骨と同じ成分)です。これは適度な硬度を持ちながらも歯の硬度(エナメル質)よりは柔らかいため、歯を傷つけることなく表面の頑固な汚れや歯垢だけを削り落とす「理想的な研磨剤」として機能します。
プラークコントロール:柳の歯木と大麻の糸ようじで行います。おにいさんが最初期にベルタに身に着けさせた習慣です。柳の枝の先端を噛んでブラシ状にした「歯木」で歯の表面を磨き、細く裂いた大麻繊維の「糸ようじ」で歯間の汚れを物理的に除去します。どれほど優れた歯磨き粉があっても、この基礎的な物理掃除が毎日できていなければ虫歯は防げないため、ベルタの歯が綺麗だったのは歯磨き粉ではなくベルタ自身の努力です。
歯科医が存在しない世界では虫歯・歯周病は致命的な病気の一つです。




