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螺旋の乙女 〜乳白色のセラミックパンク〜  作者: 麻澱 灰


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精製ラード

視点:ベルタ


雄猪の臭い脂を精製して食べられるようにします。

森の主と呼ばれた大きな猪は、死んでも、なかなか終わりを迎えなかった。


肉のいい部位は代官様にきちんと献上した。牙も献上した。あんなに嬉しそうな代官様の顔は初めて見た。

それ以外は全部置いて行ってくれたので、おにいさんは村の皆に分けようとした。

けれど誰一人欲しがらなかった。この季節には信じられない程大きくて脂がのっているからだといった。

わたしは猪を独り占めできて一生懸命お手伝いをして、まだ食べちゃダメだよと言うおにいさんに何とかお願いをして脂が乗ったお肉を焼くことに成功した。

そしてあの有り様だった。村の皆は正しかった、おにいさんも正しかった。わたしだけだけが雄の臭さに悶絶して倒れるところだった。

おにいさんの予定通りだったのか、その日は心臓と肝臓だけ食べられた。匂い消しのため味がない、歯ごたえがある心臓とぱさぱさで血の味がする肝臓を食べられた。


その次は骨の中身と森の葉っぱで物凄く美味しいソースを作ってくれた。

それをかけると心臓はコリコリという歯ごたえで美味しさが口に広がり、肝臓はなめらかな歯触りと力強い味と葉っぱの心地よい匂いが吹き抜けた。

このソースさえあればわたしはなんだってできる。


骨は真っ黒な炭になった。真っ黒なのに水の匂いも味も色も全部吸い取ってくれた。なんだこれは?


毛皮はキレイにして板にするために乾かしている。おにいさんは服にはできないが仕方ないと残念がっていた。もともとなかったのだから残念がる必要はないのに。


それなのに、おにいさんはまだ、あの猪を前にしてしゃがみ込んでいた。


「おにいさん、まだあるの?」


「はい。脂がある」


おにいさんは、木のへらを持ったまま平然と答えた。

わたしは小さな胸の中で、深く呆れたため息をついた。あの猪が一頭転がり込んできてから、いったい何個の「おにいさんのしごと」が生まれるのだろう。村の大人たちはみんな、肉すら要らないと言ったのに、おにいさんの頭の中だけは、まるで別の世界と繋がっているみたいだった。


今日のおしごとは、脂だった。

それは、大きな木の籠に山盛りにされていた。

色は白い。わたしが一生懸命灰をかけておいたからだ。いや、じっくり見ると、なんだか少し濁った黄色をしている。どろりとしていて、触ると指がべたべたになりそうな、大きな脂肪の塊がいくつも重なっていた。


「おにいさん、これ食べるの?」


「食べます」


「えっ……」


わたしは思わず一歩、後ろに引いた。

脂だけだ。村の皆の言葉とわたしが脂がのったお肉を焼いたことから想像できるんだけど、臭いのは脂についてるんじゃないの?


「本当に? これ、そのままかじるの?」


「いいえ。とても臭い。茹でます」


おにいさんは笑いながら、地面から大きな土鍋を持ち上げてきた。

それは例の土鍋だった。おにいさんが粘土をこねて、何日も乾かして、白い泥を塗ってから焼いた、特別な鍋。普通の鍋は火にかけるとパカッと割れてしまうのに、この鍋だけは、赤々と燃える火の上に直接置いても絶対に割れない。それどころか、驚くほどすぐにお湯が沸く。わたしはこの鍋がなんだかとても賢い生き物みたいで、密かに気に入っていた。


その賢い鍋の中には、すでに並々と液体が満たされていた。

水ではない。すこし濁っていて、指で触るとぬるぬるする、灰汁だった。木灰に水を混ぜたやつだ。おにいさんはなんにでも灰を使う。いえにあるかまどはとても賢い。真っ白な灰ができるのだ。


おにいさんが大きな脂の塊を掴み、よく刻んでから鍋の中へと放り込んだ。

まずかまどの一番熱いところに置いた。


じわじわ。

ゆっくり。


底の方から熱が伝わり、鍋の中の白い脂が、少しずつ端の方から溶け始めていく。

だが、中身が温まるにつれて、作業場の中に妙な空気が満ちてきた。


「……くさっ!」


わたしは思わず両手で鼻を覆い、顔を思いきりしかめた。

まただ。あの匂いだ。

あの猪が村に運び込まれたとき、男たちが解体している最中に漂っていた、鼻の奥がひりひりするような嫌な匂い。ただの獣の匂いじゃない。泥と、古い脂と、男の人の汗が混ざって腐ったような、強烈な匂いだった。


「うえぇ……おにいさん、すっごく臭い。頭が痛くなる」


「臭いです。雄猪。脂です」


やはり脂が臭いのか。おにいさんは平気なのだろうか?

長い木の棒で鍋の中をかき混ぜている。

わたしはおにいさんが平気な顔をしているのが信じられなかった。さすがにおかしいと思いよく見ると、真っ青な顔になって混ぜていた。


おにいさんは、ぐるぐる、ぐるぐると鍋を混ぜ続ける。

熱せられた灰汁の中で、溶けた脂肪が黄色い脂の波になって広がっていく。でも、ただ混ぜているだけで、あの嫌な匂いが消えるようには思えなかった。おにいさんが何をしているのか、わたしにはさっぱり分からなかった。


「おにいさん、何をしてるの?」


「臭い脂を消している」


わたしはぴたりと口を閉じた。本当にこの臭いは消えるのだろうか。


首を傾げると、おにいさんは真っ青な顔のままこちらを見て笑ってくれた。


その後もしばらく、じわじわとした加熱が続いた。おにいさんは時折、鍋の中の様子をじっと見つめ、木のへらで上の脂と下の水をなだめるように混ぜていた。

やがて、おにいさんは鍋を煙道に移した。


「おにいさん、終わり?」


「いいえ。待ちます」


おにいさんは2つ目の鍋に取り掛かった。

本当に、おにいさんの仕事は待つ時間が多い。土をこねて器を作るときも、それを乾かすときも、窯に火を入れてからも、おにいさんはいつも待っていた。


「わたしがまぜるよ」


「おねがいします」


わたしは臭いのを我慢してまぜる仕事をすることにした。おにいさんが臭いを消せるいったので信じることにした。それに真っ青になったおにいさんに続けさせたくはなかった。


何回か新しい鍋で脂を煮てから煙道に並べた。なかなか愉快な光景になって満足感がある。


おにいさんが何回目かわからないけれど、一番最初の鍋の中を覗き込んだ。


「はい。わかれました」


おにいさんは別の綺麗な土鍋を横に置くと、小さな陶器の匙を使って、脂の鍋から、上の方をすくい取り始めた。慎重に、静かに、下の水が混ざらないように。


「なんで別の鍋に移すの?」


「上に脂があります。脂だけとります」


わたしもおにいさんの腕の下から、そっと鍋の中を覗き込んだ。

驚いたことに、鍋の中身は綺麗に二つに分かれていた。

上の方には、透き通った黄金色っぽい水が浮いている。これがおにいさんが言う脂だ。そして下の方には、灰汁の色が混ざった、どろどろとした暗い色の水が沈んでいた。その境目は、まるで見えない壁があるみたいにはっきりと分かれている。


「本当だ……面白いね。分かれてる」


おにいさんは手際よく、黄金色の脂だけを新しい土鍋に移し替えていく。臭いを嗅いだけど、鼻を突くあの臭いはちょっと消えた気がする。

すべてを移し終えると、今度はその脂の中に、別の籠から持ってきた真っ黒な粉をサラサラと振り入れた。


それは、この前作ったばかりの骨の炭だった。あの猪の骨を蒸し焼きにして、粉々にすり潰した、あの黒い粉。


「おにいさん、またその骨の炭を使うの? それ、お水にも使ってたよね」


おにいさんは本当にその黒い粉が好きだった。初めてその粉ができた時は本当に嬉しそうだった。


おにいさんは骨の炭が混ざって真っ黒になった脂の鍋を持ち上げると、また煙道に戻した。

直接火にかかっているわけではないから、触っても火傷はしないけれど、ずっと手を当てているとじんわりと汗をかくような、そんな場所。熱すぎず、冷たすぎない場所で、黒い脂をゆっくり、ゆっくり温めていく。


わたしは鍋のそばにしゃがみ込んで、じっとそれを見ていた。

さっき灰汁で煮たことで、鼻を刺すようなツンとした酸っぱい匂いはほとんど消えていた。でも、まだ脂の奥には、ねっとりとした雄猪特有の、おしっこや汗のような重い獣臭さがしつこく残っている。

おにいさんが木の棒で静かに鍋をかき混ぜるたびに、真っ黒な粉が脂の中をゆらゆらと舞った。すると、その黒い霧が匂いを捕まえて閉じ込めるみたいに、残っていた獣臭さが本当に、少しずつ消えていくのだ。


「おにいさん! 今度こそ本当に匂いが消えてる!」


「はい。消えます」


おにいさんも、満足そうに目を細めた。

そこからさらに時間が経ち、おにいさんは鍋を風通しの良い日陰に移した。


「おにいさん、これ、こす布はあるの?」


「いいえ。ないです。このまま固める」


「えっ、このまま?」


透き通っていた脂は、冷えるにつれて、だんだんと曇っていった。そして、混ざり合った骨の黒い粉のせいで、見事な灰色がかった塊へと姿を変えた。


完成だった。


「……おにいさん、これ、泥じゃない?」


「いいえ。脂です」


わたしは器に顔を近づけて、恐る恐る匂いを嗅いでみた。

驚いた。本当に、あの嫌な臭さがまったくない。見た目は完全に「不気味な灰混じりの泥の塊」なのに、匂いはかすかに香ばしい、ただの脂の匂いだった。指先で少し触ってみると、体温でとろりと溶けて、黒いツヤのあるクリームのようになった。


「すごい! 黒いのに、本当に臭くない!」


「はい。脂です。美味しいです」




翌日の朝、おにいさんは小さな素焼きの壺に、出来上がったばかりの「灰混じりの泥の塊脂」を詰めて、村の小道を歩いていた。わたしもその後ろを、跳ねるようにしてついていった。


ハンスおじさんを見つけると、おにいさんが素焼きの壺を差し出す。


「ハンス。猪の脂です。お礼です」

「ああ、お疲れさん。よく頑張ったよな、俺ら。代官があんなににやけているのは初めて見たよ。って、なんだよこれ!」


ハンスおじさんはおにいさんから受け取った壺の中を覗き込み、ひっくり返りそうな声を上げた。

無理もない。壺の中に詰まっているのは、どう見ても暖炉の底から掻き出してきた「灰混じりの泥の塊」にしか見えなかったからだ。


「おいおいおい、おにいさん! いくらなんでも、俺に嫌がらせか? なんで壺に泥が詰まってんだよ!」


「泥じゃないんだよ。猪の脂だよ。おにいさんと煮て作ったから食べられるよ」


わたしが少し指にとって口に入れて見せた。


「正気か? この黒い塊を舐めろってのか?」


ハンスは顔を引きつらせながらも、おずおずと指先を壺に突っ込んだ。灰色っぽい脂をほんの少しだけ指に取り、意を決したように舌の上にのせる。


「……あ?」


ハンスの動きが止まった。

不気味な灰色は、口に入れた瞬間に体温ですっと溶けた。そして、あの鼻を突く雄猪の呪いのような臭みは微塵もなく、ただただ濃厚で、信じられないほど上質な「コクとうま味」だけが口いっぱいに広がったのだ。


「――っ、うまい。なんだよこれ! 匂いが全然ねえし、めちゃくちゃ美味いぞ!?」


「はい。美味しいです」


ハンスは口の周りを手で拭いながら、壺の中の黒い脂と、おにいさんの涼しい顔を何度も見比べた。それから、感動と呆れが限界突破したような顔になって、頭を抱えた。


「うまい、うまいけどよぉ……! あんな糞臭え雄猪から、なんでこんな上等な脂ができるんだよ! お前、本当にやってることが意味分かんねえよ!」


ハンスが絶叫すると、おにいさんは嬉しそうに声を立てて笑った。わたしも、その横で一緒になってケラケラと笑った。


これはわたしも手伝ったのだ。おにいさんの服の裾をぎゅっと握りしめながら、誇らしい気持ちで胸を張った。

次回、カリ石鹸


【作中技術解説】

脱酸処理:動植物の脂肪は放っておくと、空気中の水分や微生物の酵素によって分解され、「遊離脂肪酸」という物質に変わります。これが油の酸化や悪臭、酸っぱい匂いの原因となります。本編でおにいさんが行ったのは、木灰を水に溶かした強力なアルカリ性液体(灰汁=炭酸カリウム水溶液)を脂肪と一緒に加熱することです。これにより、悪臭と痛みの原因である遊離脂肪酸だけがアルカリと中和反応して水に溶ける物質に変化し、下の水層へと沈殿・分離されます。現代の製油プロセスでも必ず行われる「化学的精製」の基礎となる工程です。


骨炭による脱色・脱臭吸着:骨炭とは、動物の骨を空気を遮断した状態で高温で蒸し焼きにしたものです。主成分は骨の骨格であるリン酸カルシウムですが、その表面には微細な炭素の粒子が網の目のように結合しており、極めて高い吸着能力を持っています。油の中に残った微量な臭い成分や、黄色い色素成分(カロテノイドなど)は、この骨炭の微細な穴に物理的に吸着されます。19世紀から20世紀にかけて、砂糖の精製やサラダ油の脱色に大量に使われた、非常に強力な天然のフィルター技術です。


低温熱管理:油の精製において、熱の管理は最も重要なエンジニアリング要素の一つです。直火で油を温めると、油そのものが熱分解を起こしたり、再び酸化して別の加熱臭を発生させてしまいます。おにいさんが使用した煙道は、直接火が当たらないものの、持続的に60~80℃程度の微熱をキープできる理想的な場所です。この温度帯を維持することで、ラードは固まらずに液体の状態を保ち、骨炭が効率よく匂いを吸着し、かつ油を一切傷めずに処理を完結させることができます。

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