マスターバー
視点:ベルタ
今まで削って作っていた道具をすべて使い円い棒を作り始めたおにいさん。八角形がどんどん円くなっていくのは今までの作業に比べて動きがあって楽しかったので今日は見学です。マスターバーができた後、何気なくお願いしたらよく回るコマを作ってくれました。
おにいさんが何かを作り始めるとき、わたしはだいたい途中で飽きる。
石をこする。焼き物をこする。定盤の上でこする。ひたすらこする。
本人は真面目な顔をしているけれど、見ている方は大変だ。何が変わったのか分からないまま時間だけが過ぎていく。
だから最近は学んだ。
退屈そうな日はバッタを捕まえに行く。木の実を拾う。羊を見に行く。そういうことをした方がいい。
ところが、その日は少し違った。
おにいさんは平らな石の前に座っていたが、手元の物が動いていた。くるくる回っている。わたしは思わず近寄った。
焼き物の棒だった。まだ棒というには少し太い。角もある。八角形だ。
おにいさんはその棒を、溝がある四角い焼き物の上に置いていた。前に作っていた四角いやつだ。
棒を少し転がし、止める。横から何かを当てる。
細い腕のような道具だ。これは高さを図るための針をつけている。おにいさんは高さを見ているらしい。
それから棒を取り上げて、フリントチップの刃で慎重に削る。また溝へ戻す。転がす。見る。削る。また転がす。
わたしはしばらく見ていた。意外と面白い。少なくとも石をひたすらこすり合わせていた時よりは面白い。
「なにしてるの?」
わたしが聞くと、おにいさんは棒を指差した。
「まる」
「まる?」
わたしは首を傾げた。棒は丸くない。角がある。どう見ても八角形だ。
おにいさんは棒を受け取るように差し出した。わたしは手に取った。つるつるしている。
地面で転がしてみる。ころころと転がった。それだけだった。
「まるじゃない」
そう言うと、おにいさんは少し困った顔をした。そして棒の角を指でつつく。
なるほど。角がなくなる予定らしい。わたしは理解した。
「削るの?」
おにいさんは頷く。
「全部?」
また頷く。それは大変そうだと思った。角は八つある。全部削ったら棒がなくなってしまう気がする。
しかしおにいさんは真面目な顔をしていた。なくならないらしい。
わたしは横に座った。今日は特に急ぐ仕事もない。羊も静かだ。バッタは昨日たくさん取って、すでにおにいさんが下処理の籠にいれてくれている。だから少し見ていてもいい。
おにいさんは作業を続けた。棒を回す。測る。削る。回す。測る。削る。その繰り返しだ。
しばらくすると、本当に形が変わり始めた。
「小さくなってる」
わたしは言った。おにいさんは頷いた。
八角形だった角が少し丸くなっている。よく見ると分かった。棒を転がした時の感じも違う。最初は少しがたがたしていた。今は滑らかだ。
わたしは面白くなってきた。棒を手に取り、目の前で転がしてみる。
ころころころ。
転がる。どこかに引っ掛かる感じが減っていた。
「ほんとだ」
わたしは笑った。おにいさんも少し嬉しそうだった。
作業は延々と続いた。わたしは途中で水を飲みに行き、戻ってきた。おにいさんはまだ削っていた。さすがに飽きるかと思ったが、今度はさらに形が変わっていた。
角がほとんど見えない。遠くから見ると丸い。近くで見ると、まだ少しだけ平らな面が残っている。わたしは指でなぞった。さらさらだった。
「もう円になったね!」
おにいさんは首を振る。まだらしい。
どこまで行けば丸になるのだろう。わたしにはよく分からない。けれど、おにいさんには分かるらしい。
おにいさんは、棒を溝にのせて、何度も何度も同じ場所を回して確かめている。
その日の午後、わたしはずっと横にいた。珍しいことだった。普段なら途中でどこかへ行ってしまう。でも今日は違った。少しずつ形が変わる。それが面白かった。
太い枝を削って木の棒を作る時にも似ている。最初はごつごつしている。でも少しずつ綺麗になる。その変化を見るのは楽しい。
夕方近くになる頃には、棒はもう完全に丸く見えた。少なくともわたしにはそう見える。
おにいさんは最後に何度も測っていた。溝に乗せる。転がす。高さを見る。また転がす。わたしはその様子を眺めた。
高さを計るための針の先は、もうさっきからずっと同じ高さを指しているように見える。けれどおにいさんは、時折はっとした顔をして、目に見えないほど薄く刃を当てていた。
やがて、おにいさんは大きく息を吐いた。そして棒を持ち上げる。終わったらしい。
「できた?」
わたしが聞く。おにいさんは力強く頷いた。
わたしは棒を受け取った。思ったより重い。両手で持って平らな石の上に置く。そして押した。
棒は真っ直ぐ転がった。
ころころころころ。
止まらない。少し離れたところまで転がっていきおにいさんが手で止めてくれる。
わたしはおにいさんから受け取った。また転がす。やっぱり転がる。ただそれだけだ。
わたしは首を傾げた。
「これ、すごいの?」
「とてもすごい」
おにいさんを見ると、珍しく大きく頷いた。本当に嬉しそうだった。
わたしは棒を見た。つるつるしている。綺麗だ。丸い。でもやっぱり、ただの棒にしか見えない。
わたしはもう一度転がした。ころころころ。
夕日の光を受けながら、白い棒は真っ直ぐ転がっていく。おにいさんは満足そうにそれを眺めていた。
横から見ると平らな石と円い棒の隙間は全くない。どれだけころがしても隙間に夕日が差し込んだりはしなかった。
おにいさんを見ると見たことない程、誇らしい顔をして笑っている。
何がそんなに嬉しいのか、わたしにはまだ分からない。けれど、これだけは分かった。
おにいさんが何日もかけて作ったたくさんの焼き物の道具は、これを作るために用意していたのだ。道具の道具を作るおにいさん。
ということはこの円い棒も何かの道具になるのはほぼ間違いなく、これはわたしが遊んでいいものではないのだ。
「おにいさん、円いおもちゃつくって」
わたしは円い棒を返してそうお願いしてみた。
「いいですよ」
あっさりと応えてくれた。木の棒を溝において同じように削り始めた。さっきよりずいぶんはやい、あっという間だった。
高さをはかる針を横にあてがって木をくるくるまわして印をつけている。まわしても印がうごかないからなんだか特別だ。
印に同じように円くて細い棒を付けてくれた。
「はい。コマです」
「コマ?」
コマは知っている、糸をつむぐのに使う道具だ。わたしは仕事の道具ではなくおもちゃがほしかったのに。
「はい」
おにいさんは平らな石の上でコマを回した。いや立てたのだろうか、回っていないのに立っている。
「あれ?」
おもわず触ると弾かれてしまった。
おにいさんはコマを拾いに行って、また回してくれた。
今度は触る前によく見た。うわ、これ回っている。
止まるまでじっと眺めていたけどなかなか止まらない。
ようやく首を振り始めてようやくとまった。
なんだこれ?どんぐりを回すとかくらいはしたことはあるし糸つむぎのコマを触ったこともあるけど、なんだこれ?
「ベルタ。どうぞ」
おにいさんは平らな石以外の道具を片付けながらわたしにコマを渡してくれた。
「えい」
わたしがやると最初は少し首を振る。しかしすぐにピタリと止まったかのように回るようになる。
なんだこれ?なんでこんなに回っているんだ?
わたしは夢中で回し続けた。気づいたのは目の前のコマが見えなくなったからだ、いつの間にか日が沈んでいたようだ。
おにいさんは笑いながら食事を用意してくれた。かまどの火がぼんやりとした明かりだ、これが消える前に食べないと。
寝る準備を終えてわらに潜り込む。目をふさいでもあのコマが回り続けている。
コマを作るための道具じゃなかったのにこんなにのすごいコマができた。
おにいさんが本当に作りたいものができたらこのコマよりおもしろいだろうか。
眠りに落ちるまでわたしはコマを弾くように指を動かしてしまっていた。
次回、安息日
【作中技術解説】
マスターバー:真円度標準器。一切の幾何学的な歪み(ルーロー多角形)を排除し、360度どこから測っても均一な直径を持つように削り出された、真円の基準となる棒です。これが1本完成することは機械工学において決定的な意味を持ちます。このマスターバーを基準にすることで、理想的な回転軸、そして人間の手の震えを排除して同じ部品を無限に複製できる旋盤の親ネジを作ることが可能になります。近代工業を誕生させるための「マザーマシンの遺伝子」となる最重要の標準器です。
90度Vブロック:円筒形のワーク(工作物)を安定して支えるための、V字型の溝を持つ測定・保持用の治具です。加工の過程で発生しやすい「ルーローの三角形(おむすび型の歪み)」などの多角形うねりは、60度や120度のV溝では中心の上下動と図形の凹凸が相殺されてしまい、ダイヤルゲージなどで測定しても「完璧な真円」として騙されてしまいます。90度という角度は、これらの奇数角のうねりの「騙しの角度」からことごとく外れているため、図形の歪みを正確に検知してウソを暴くことができる現場の絶対的な基準となっています。
ハイトゲージとゲージブロック:ハイトゲージは定盤の上に乗せ、工作物の高さを精密に測定するための移動式ゲージです。あらかじめ正確な厚みで作られた「ゲージブロック(基準片)」をハイトゲージのベースや測定子にカチカチと積み重ねることで、単位高さとして管理しています。ネジによる連続的な測定に比べ手間はかかりますが、手の感覚(隙間ゲージとしての抵抗感)を頼りに、絶対に嘘をつけない確実な高さを測ることができます。




