マタイの福音書3章4節またはバッタを食べる
視点:ハンス
畑を荒らす忌み嫌うべき害虫が、お兄さんの不気味な理詰めによって「飢えをしのぐ資源」へと反転する瞬間を体験する。
それを見たのは、どこまでも広がる小麦畑の縁に佇んでいたときだった。
夏の入口特有の乾いた風が吹き抜け、まだ青い穂が一斉にざわざわと音を立てて波打っている。遠くの方では村の女たちが一列に並んで腰を曲げて雑草を抜き、男たちは畑の境界に組まれた古い木柵の補修をするために、手斧の音を響かせていた。いつもと何も変わらない、貧しくも平穏でありふれた一日のはずだった。
しかし、その青い絨毯のような小麦の列の間で、一つだけ明らかに周囲の農作業とは違う奇妙な動きをしている小さな影があった。
ベルタだった。
まだ八歳の小さな体が、大人の背丈ほどもある小麦の茎をかき分けながら狂ったように走っている。最初はただ子供らしく虫でも追いかけて遊んでいるのかと思ったが、俺はすぐにそれが間違いだと気付いて目を凝らした。
彼女の小さな手には目の粗い布を柳の枝に張った網のようなものがあり、それを大きく振り回すたびに、緑色の小さな塊がいくつも激しく宙へ跳ね上がっている。そして次の瞬間には、彼女が腰に吊り下げた大きな布袋の中へ、吸い込まれるように次々と消えていくのだ。
俺は持っていた鍬を地面に突き立て、しばらく無言でその光景を眺めていたが、やがて視線を畑の傍らに戻した。そこには、ベルタの動きをじっと見守っている一人の男が立っていた。
「おい。ベルタは何を躍起になって追いかけてるんだ」
おにいさんは、一瞬だけ俺の方へ目を上げたが、すぐに手元の作業に戻りながら当たり前のように答えた。
「バッタ。捕まえる」
「バッタ?」
俺はあからさまに不快そうな顔をして、深く眉をひそめた。農夫なら誰でも知っている、小麦の葉を容赦なく食い荒らす最悪の厄介者だ。見つければその場で踏み潰すか、大声を出して畑の外へ追い払う。それがこの村の、いや、どこの農村でも当たり前の決まりごとだった。
「そんなものを、わざわざ捕まえてどうする気だ」
「食べる」
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、俺は強い嫌悪感から思わず一歩後ろへ引いた。
「おいおい、冗談だろ。あれを食べるのか?」
俺の困惑を余所に、畑の中ではベルタがまだ機敏に動き回っていた。網を鋭く振り下ろし、小麦の茎を丁寧に手でかき分け、時折地面へ深くしゃがみ込んでは、また次の獲物を見つけて力強く走る。その一切の無駄がない一連の動きは、子供の遊びなどでは断じてなかった。それは生きるために獲物を追い詰める、飢えた獣さながらの緊密な狩りの動きだった。
男は俺の冷ややかな視線に気付くと、腰に下げていた小さな袋の中に手を入れ、そこから奇妙なものを取り出した。
それは、からからに乾いた小さな茶色の塊だった。全体的には枯草の色をしているだけであんまり違和感はなかった。
「バッタ。食べる」
そう言って、取り出した塊を自分の口の中へ躊躇なく放り込んだ。
「おい」
俺は思わず声を出したが、おにいさんは気にする様子もなく奥歯でそれを噛み砕いた。静かな畑の縁に、ぱき、と乾いた軽い音が響き渡る。
「……本当にお前、それを今、食っているのか」
「はい。食べます」
袋の中からもう一つ同じ塊を取り出すと、今度は俺の目の前へ真っ直ぐに差し出してきた。
受け取るべきか、それとも突き返すべきた、俺の胸の中で激しい葛藤が起きた。しかし、目の前の男が平然とした顔で咀嚼を続けている以上、少なくとも即死するような毒ではないのだろう。ここで怯えては何か負けたような気がして、俺は意を決してその奇妙な塊を受け取り、口の中へ放り込んだ。
恐る恐る奥歯に力を込めた瞬間、乾いた音を立ててそれが口の中で砕けた。
さく、と驚くほど軽く、小気味よい割れ方をした。
想像していたような不快な生臭さや、気持ち悪い触感は一切なかった。ただ、じっくりと熱を通された草と土の間のような、どこか香ばしい匂いが鼻の奥にふわりと残る。決して贅沢なご馳走ではないが、不快ではなかった。むしろ、一日の厳しい農作業を終えて激しく腹が空いているときならば、十分にありがたい食べ物だと思えるだけの味がそこにはあった。
「……食えるな、これは。おい、本当に普通に食えるぞ」
驚きのあまり、気づけば俺は声を大にしてそう言っていた。男は自分の加工が正しく伝わったことに満足したのか、小さく深く頷いた。
そのときだった。小麦の騒めきを割って、畑の奥からベルタがこちらへ戻ってきた。
八歳の小さな体にはおよそ不釣り合いなほどに大きな麻の布袋を、細い肩にしっかりと食い込ませて背負っている。その袋は底の方まで何かがぎっしりと詰まっているらしく、外側から見ても明らかに重そうで、無骨に形が歪んでいた。
俺はそれを見て、思わず目を細めて彼女の手元を凝視した。
「おい、ベルタ」
思わず声をかけると、ベルタは足を止め、自慢げにその重そうな袋を両手でぐっと持ち上げてみせた。ずしり、と水分を含んだ生きた虫の塊が擦れ合うような重みが、見ているこちらにまで伝わってくる。
俺はあまりの量に、しばらく言葉を失って立ち尽くした。
「……おい、そんなに大量のバッタが、その袋の中にいるのか」
おにいさんはベルタの頭に優しく手を置きながら、静かに頷いた。
「ベルタ。とても上手」
その言葉を聞いてベルタは誇らしげだった。
俺はベルタが抱える重い袋を凝視する。これまで自分たち農夫にとっては、ただ小麦を脅かすだけの憎むべき敵であり、見つけ次第踏み潰すだけの不快な存在でしかなかった虫が、今は全く別の姿をしてそこに存在している。
「本当に、これは腹の足しになるんだな」
確認するというより、今まさに自分で食べた感想だったが、おにいさんはやはり表情を変えないまま、確信を込めてまた深く頷いた。
ベルタはそれ以上何も言わないまま、重い袋の紐を小さな肩にかけ直し、再び青々とした小麦の波の中へと迷いなく戻っていった。その小さな後ろ姿の動きには、一分の躊躇も迷いもなかった。最初からそこにある目的だけを見据えて、自分の役割を果たそうと動いているようだった。
俺はしばらく黙って、彼女の頭が見えなくなるまでその背中を見送っていた。
おにいさんにもうひとつ貰ってしげしげと眺めた。焼いて軽くなっているし足も羽も頭もとってある。だからなのかこの正体がバッタだと分かった後でも、見た目の忌避感はあまりわいてこない。
口に放り込みかみしめると、さく、と心地よい軽い音が、今度は頭の中にまで響く。
草の青い匂いが鼻に抜け、胃の中に確かな熱が落ちていく。
これは間違いなく食べ物だった。
その日から、ベルタは相変わらず毎日畑に出て、網を振るってバッタを追い続けていた。
おにいさんを見つけて俺は声をかけに行く。
途中でバッタが飛んでいたので素手で捕まえておにいさんに渡す。
「これも食べられるようになるのか?」
「はい。もちろん」
「ははは、じゃあ息子にバッタを捕まえさせようかな」
「いいです」
遠くからベルタの気合の声が聞こえて俺はおにいさんと笑った。
次回、アングルブロック
【作中技術解説】
バッタの下処理:糞抜き、下茹で、足羽頭を外す、焼き干す。
糞抜き: 捕獲後、一定時間おいて体内の未消化の草(泥臭さの元)をすべて排泄させる。
下茹で: 熱水で一気に茹で上げることで、殺菌と同時にタンパク質をカチッと凝固させる。
足羽頭を外す: 口当たりを悪くし、人間には消化吸収できず胃腸の負担となる「キチン質(殻の成分)」が多い後ろ足、羽、頭部を一つずつ手作業で丁寧に取り除く。
焼き干す: 最後に熱を入れながら極限まで水分を飛ばして乾燥させる。
妥当な処理をすることで、ハンスが驚いた「さく、と軽い音」がする香ばしい保存食になります。
マタイの福音書3章4節による文化的正当性:新約聖書の一節であり、洗礼者ヨハネが荒野で「いなごと野蜜」を食べて暮らしていたという有名な記述です。キリスト教化が進む8世紀のフランク王国において、この聖書の記述があるおかげで、農民たちにとっても「聖人が食べていたのだから、絶対に食べてはいけない禁忌(罪)ではない」という安心感が生まれ、技術を受け入れるための強力な免罪符(文化的正当性)として機能しています。
期待される栄養価:乾燥重量の約6割以上が純質なタンパク質という驚異的な栄養の塊となります。頭や足を落とした下処理済みのバッタ約20~30匹(個体の大きさで揺れあり)で、鶏卵1個分(タンパク質約6g)の栄養価に匹敵。鉄分や亜鉛、脳の発達に不可欠な良質の不飽和脂肪酸も豊富に含まれており、肉や卵が極めて希少な8世紀の農村において検討する価値があります。




