落とし穴
視点:ハンス
B層の粘土を掘り終えて残りの穴をどうするのか疑問に思うハンス。どうやら落とし穴にして獣を生け捕りにするというが。
今日で畑に穴を掘って粘土をとる作業は終了らしい。俺たちは互いにやり遂げた顔になった。
穴の深さは、大人の背丈ほどある。俺が背を伸ばして立っても、頭がようやく地上に出る程度だ。そして横幅も、俺たちが入れるほどには十分な広さがある。
この穴を見下ろしていると、不思議な感慨が込み上げてきた。これまで、俺たちが開墾してきた土は、何とか牛を使っで耕せる表土だけだった。だが、やつは違った。地面を「面」ではなく「深度」を持つ立体として捉えている。この深さの先には、雨水が染み込み、長い年月をかけて硬く締まった粘土の層が眠っている。ただの土の塊だと思っていた地面が、まるで宝の眠る地層のように見えてくるから不思議だ。
「そういえば、これ、どうするつもりだ? 掘りっぱなしにするのか?。この粘土を運び出した後は、埋め直すのか?」
「いいえ。ハンス。埋めない」
平然と言い放つおにいさんに、俺は呆れて笑うしかなかった。
俺は穴掘りの柄を握りしめ、半ば詰め寄るような姿勢で問い質した。いくら何でも、このまま放置するわけにはいかないだろう。いや、この穴はベルタの管理している畑にあるから問題ないといえばそうかもしれないが。子供が遊んでいて落ちたらどうなる? 足を折るだけでは済まないかもしれない。夜道で牛や馬が踏み抜いたら、その足は即座に使い物にならなくなる。
「落とし穴。獣落ちる」
「だから落ちたら危ないって言っていいるだろう……落とし穴?」
俺は思わず耳を疑い、聞き返した。獣を捕まえるのか? それも、この村のすぐ近くの畑の端で?
普通、獣を捕まえるとなれば、もっと森の深くへ向かって追い込むか、あるいは弓矢を持った大人たちが何人もで囲い込むのが筋だ。それなのに、こんなところで? 穴に獣を落とすなんて、下手な仕掛けをすれば獣を怒らせるだけだし、最悪の場合、猪の牙で自分が怪我をすることになる。
だが、おにいさんはそんな俺の常識などどこ吹く風、といった様子で指を立てた。
「獣、落ちる。死なない」
ぶっきらぼうな言い回しだが、確信に満ちている。どうやら、穴に落としてから槍で突くような、血生臭いやり方をするつもりはないらしい。生け捕りにするのだと、やつは言っているのだ。
俺は言葉を失った。
生け捕り。その言葉の響きが、妙に心に引っかかる。獣が暴れれば、どれほどの力がかかるか分かったものじゃない。それをただの「穴」で、どうやって大人しくさせるというのか。やつが描こうとしているのは、獲物をただ仕留める狩猟ではない。もっと別の、獲物を『捕獲し、保持する』という冷徹なまでな管理のような何かに思えてならなかった。
俺の背筋に、冷ややかな汗が伝う。やつは目の前の穴を、ただの土の窪みとは見ていない。獣を管理し、自分の都合の良いタイミングで食糧へと変えるための「檻」として、この地層の底を掘り抜こうとしているのだ。
「そうか、死なないのか」
「死なない」
「……はあ、わかったよ。もう勝手にしろ」
俺は肩を回すと、深いため息をついてスコップを再び持ち上げた。どこからどう見ても狂気の沙汰だ。しかし、やつが掘り出したこの穴の底からは、まるで何かを予言するかのように、硬く締まった良質な粘土が顔を覗かせている。ここまで付き合って、最後の一仕事を見届けないという選択肢は、俺の性格上、ありえなかった。
どうやら、おにいさんはこの巨大な穴の内側の壁を、もう一度きれいに削り直すつもりのようだ。
「何をする気だ? 掘り終わったんじゃないのか」
俺が尋ねると、やつは無言で手招きをした。おにいさんが手に取ったのは、木片を研いで作った即席のヘラだ。それを使って、やつはまるで焼き物の器を成形するように、荒削りだった穴の壁面を滑らかに均し始めた。
ただの土壁ではない。やつは壁に薄く水を打ちながら、ヘラを滑らせていく。そうすることで、土に含まれる微細な粒子が表面に引き出され、乾燥した後に硬い皮膜を作るのだ。その手つきは驚くほど繊細だった。かつて冬の夜長に見た、職人の仕事と同じだ。
「壁を固めるのか。なるほど……これなら、獣が這い上がろうとしても爪が食い込まないというわけか」
俺も倣って、反対側の壁を削り始める。表面が整うにつれ、土の匂いが変わり、ひんやりとした重厚な空気が底に溜まっていくのを感じる。俺たちの作業は、ただの穴掘りから、精密な細工へと切り替わっていた。
「おい、ここをもっと削るぞ。……少しでも凹凸があると、そこを足がかりにされるからな」
俺は夢中になっていた。これはただの落とし穴じゃない。俺とおにいさんが作り上げているのは、村の誰も見たことがない、自然という猛獣を飼いならすための「物理的な結界」なのだ。
「生け捕りにしたところで、どうするんだ? 飼える奴なんてこの森にはいないだろうに」
俺は作業の手を休め、額の汗を拭いながら皮肉っぽく問いかけた。
「猪は凶暴だし、鹿だって壁を越える。せっかく生け捕りにしたところで、餌をやって慣らすなんて、村の誰もやったことがない。結局、数日もすれば脱走されるか、食い殺されるのがオチだぞ」
おにいさんは手元を動かし続けたまま、短く返した。
「いいです」
「いいです、って……お前な」
俺は苦笑するしかなかった。やつは何か、俺には見えない『先』を見ているのかもしれない。
……いや、待てよ。本当に飼える獣はいないだろうか?
俺は穴を仕上げながら、ふと想像を巡らせた。もし、本当にこの穴に何かが落ちて、それが死なずに、かつ大人しくしていたらどうなる?
例えば、迷い込んだ子猪なら、少しずつ餌付けをして、木の実を与えれば……あるいは、怪我をした小動物なら、村の納屋に囲いを作って置いておけるかもしれない。冬の凍てつく夜、囲いの中で獣が息づいていれば、それは単なる『在庫』以上の存在になるんじゃないか。ただの害獣が、村の守り神にすらなるかもしれない。
そんな突拍子もない空想が頭をよぎったが、おにいさんの冷徹な横顔を見ていると、そんな情緒的な考えは霧散してしまった。やつにとっての『飼う』は、おそらく愛情や家畜化といった類のものではない。もっと機械的で、もっと徹底された『管理』だ。
「まあ、何が落ちようと、俺には関係ないか」
俺は仕上げの杭を打ち込み、穴の縁に土を盛ってカモフラージュを施した。
空はすでに茜色に染まり、農村の一日は終わりを告げようとしている。おにいさんは、ようやく満足したように立ち上がった。泥だらけの指先を草で拭い、完成したばかりの「罠」を一瞥する。
「はい。獣。おちる。まちます」
そう言って、やつは村へと続く道を歩き出した。俺はもう一度、その穴を振り返った。夕闇の中に沈んでいくその深淵は、まるでこの村の明日を飲み込もうとしているかのように、静かに口を開けていた。
何が落ちるのか。それとも、何も落ちないのか。
「まあ何かつかまるといいな」
「はい。いいです。ハンス。穴掘りありがとう」
片手をあげて俺は家路についた。
次回、土器
【作中技術解説】
落とし穴: 単なる落とし穴ではなく、獲物を傷つけずに確保する「捕獲装置」です。壁面を泥で滑らかに仕上げ、摩擦係数を極限まで下げることで、獣が垂直に近い壁面を蹴って脱出することを物理的に防ぎます。
生け捕り: 獲物を即座に殺さず、穴の中で生かしておくことは、食糧の「鮮度」を保つための原始的かつ合理的な在庫管理です。解体という労力と消費のタイミングを獣側に委ねず、村側の都合でコントロール可能にします。




