筋蒔き
視点:ハンス
播種時期のぎりぎりに大麦をまき始めたベルタとおにいさんを見て伝えるのを忘れていたと気まずくなるハンス。罪滅ぼしではないが手伝いを申し出ると、見たことが無い方法で種まきをしていて農民として何故かを考えてしまう。
俺の畑の種蒔きが終わってしばらくたった。ふとおにいさんの畑へ目を向けると、あいつがベルタと一緒にまた妙なことを始めていた。
二人は平籠を抱え、畑の地面に何かを熱心にばら撒いている。
遠目に見ると、それはただの茶色い土の塊、いや、そこらに転がっている土くれにしか見えなかった。
気になって、俺は二人のもとへと歩み寄った。
「よお、ベルタ。何まいてるんだ?」
俺の声に、ベルタが籠を大事そうに抱え直して、きらきらした目を向けた。
「ハンスおじさん! 大麦とエンバクをまいてるんだよ!」
「は? いや、土だろそれ」
どう見てもただの土くれだ。種らしきものは見当たらない。
すると、ベルタは自慢げに人差し指を立てて、その「土くれ」の秘密を教えてくれた。
「ちがうよ、おにいさんと一緒に作ったの! 泥とね、の灰と、あと森の奥で拾ってきた朽ちた葉っぱをすごーく細かくして、ぜーんぶ混ぜて丸めたんだから!」
「泥と、灰と、腐った葉っぱ……?」
わけがわからない。そんなものを畑に撒いて何になるんだ。
だが、おにいさんの行動はさらに奇妙だった。ベルタがその土くれを小麦のまばらな区画に落としていくと、おにいさんはその後ろから、それらを自分の足でぎゅっ、ぎゅっと踏みつけて歩いているのだ。
その歩き方は、まるで見えない一本の線を綱渡りしているかのように、一直線だった。
一直線に土を……いや、麦をまいているのか?
そこで、俺はハッと息を呑んだ。
(しまった……! 大麦の時期には、もう遅すぎる!)
頭を殴られたような衝撃だった。みんな自分の畑のことで手一杯だった。大麦の種蒔きに適した時期はとうに過ぎかけている。
ぎりぎり今なら間に合うかもしれないが、俺はベルタにその時期を教えてやるのを、すっかり忘れていた。
いや、それだけじゃない。
おにいさんの畑の、さらに向こう側にあるベルタの休耕地が、ふと目に留まった。
あそこは今、青々とした雑草で埋め尽くされている。
(あ……春の牛耕も、教えてやるのを忘れてた……!)
胸の奥がキリキリと痛んだ。
この村では、春になると皆で牛を出し合い、硬くなった休耕地を深く耕すのが決まりだ。なのに、俺も含めて村の誰もが、この二人にあいつらの分の牛耕の順番を回すのを忘れていたのだ。孤児のベルタとおにいさんのことなんて、誰も気に留めていなかった。
それなのに、この二人は雪どけのすぐ後に、我が家の畑の脇に深い溝を掘って、いつまでも残るぬかるみを消すのを手伝ってくれたのだ。
いつもなら春先になっても土が冷たい水のままで、足を踏み入れるだけでずぶずぶと沈むような酷い場所だった。それが、あいつらの言う通りに溝を繋げただけで、驚くほどきれいに水が引いていった。あんなに早く畑から水が抜けた年は、俺が生れてから一度だって無かった。
そのおかげで、実際に俺の小麦は、まわりの奴らの畑よりも一段高く、青々とした立派な葉を広げて育っている。もしあのまま水が溜まっていたら、今頃は根腐れを起こして黄色く萎びていたはずだ。
あの水抜きの溝掘りなんて、おにいさんに言われなければ俺は一生気づかなかった。それどころか、あいつは見たこともない頑丈な木のへらや、土を掻き出すための道具まで惜しげもなく貸してくれて、弱音一つ吐かずに、ただもくもくと一緒に泥を掘り上げてくれたのだ。
罪悪感と申し訳なさが一気に胸の奥からこみ上げてきて、俺は居ても立ってもいられなくなり、自分の不甲斐なさを隠すように慌ててベルタの持つ籠を覗き込んだ。
あんなに我が家の畑のために尽くしてくれた二人に対して、俺は自分のことばかりに必死で、おにいさんたちの窮地に気づきもしなかった。その申し訳なさと情けなさで、顔がカッと熱くなる。
「……なにか手伝ってやるよ。俺のところは、春の牛耕も種蒔きも全部終わってるからな。今は体が空いてるんだ」
ぶっきらぼうに、少し怒ったような声になってしまったのは、自分への腹立ちを隠せなかったからだ。
すると、ベルタはそんな俺の気まずい様子なんてまるで気に留めず、パッと花が咲いたように顔を輝かせた。
「本当!? じゃあハンスおじさん、これ、向こうの端っこにある木杭の目印まで、真っ直ぐ落としていって! 後ろからおにいさんが踏んづけていくから!」
「おう、任せろ」
ベルタからずっしりと重い籠を強引に受け取り、その中身を大きく無骨な手で一掴みする。
よく見ると、ただの汚い土くれに見えた塊の表面には、大麦の種籾がほんの少しだけ顔をのぞかせていた。泥や灰、それに黒い葉の破片にまみれてはいるが、粒の大きさや形の揃い方を見れば、これがただ適当に丸めた泥ではないことが、俺のような農夫の目にはすぐに分かった。むしろ、混ざりものの奥にある大麦の生命力が、泥の殻を破らんばかりに凝縮されている。何をするにも抜かりのないおにいさんのことだ、この土くれの配合にも、きっと俺たちには思いもよらない、緻密な計算があるに違いない。
俺はしっかりと前を向き、畑の向こうの端にぽつんと立つ、あの歪な木杭の目印をじっと見据えた。村でも一番に畑を耕し、毎年まわりの連中より一歩早く、そして美しく種を蒔くのが俺の自慢だ。一度進むべき直線が決まれば、俺の身体は迷わない。
一歩進んでは、手の中の土くれを正確に地面へと落とし、また一歩進んでは、寸分狂わぬ歩幅で次を落とした。
後ろからは、おにいさんがフニ、フニ、と、湿った土を踏みしめる規則正しい音を立てて、俺が落としたばかりの種をご丁寧に踏みつけていく。
おにいさんの足取りを背中で感じながら、俺は目を凝らして足元の小麦の隙間を観察していた。一見するとただ踏みにじっているようだが、あいつの足が通った後は、土くれがちょうどよく潰れ、ひょろひょろだった小麦の根元を引き締めるように綺麗に収まっている。踏む強さも、深さも、まるで計ったかのように一定だ。
大麦の種籾を泥と灰の温床で包み、それを弱った小麦の上から、あえて人間の体重で踏み込んでいく。
ただの出遅れた泥縄の種蒔きじゃない。これは、この貧弱な土壌と、遅すぎた季節を力技でひっくり返すための、あいつなりの「戦い方」なのだ。一体どこでそんな知恵を仕入れてくるのか、相変わらず何でこんな突飛なことを思いつくのかはさっぱりわからないが、その一歩一歩の確実さだけは、同じ農夫として嫌というほど理解できた。
「おにいさん、本当にこれでいいのかよ……?」
背中に向かって声をかけるが、おにいさんは「ありがとう。ハンス。助かるます」と、変なしゃべり方で穏やかに微笑むだけだ。
種籾に泥と灰と腐葉土をまぶして、ひょろひょろの小麦の上から、わざわざ足で踏みつける。
何でこんな面倒で奇妙なことをしてるんだか、俺にはさっぱりわからない。
だけど、俺の落とした頼りない土くれを、一歩一歩、まるですごく大切な宝物でも扱うように踏み固めていくおにいさんの背中を見ていると、不思議と「これでいいんだ」と思えてくるのだった。
次回、多種混合シードボール
【作中技術解説】
コーティング種子:ハンスが観察した「土くれ」は、現代農業におけるコーティング種子(ペレット種子)の理論を、8世紀の身近な素材で再現したものです。カリウムやミネラルを含む「灰」、微生物や有機質が豊富な「腐葉土」、そして接着剤兼保水材としての「泥」を混ぜ合わせることで、時期が遅れて栄養が不足しがちな大麦の初期生育を爆発的に助ける温床を作っています。
条播:ハンスが目印に向かって寸分狂わぬ歩幅で進むことで、紐を張る手間を省いた完璧な「一直線の筋蒔き(条播)」が完成し、作業効率と発芽の均一性を同時に高めています。
鎮圧:土くれを足でじんわりと踏み潰すことで、種子と土壌を密着させ、毛細管現象によって下層の水分を種へ集中させて急速な発芽を促します。




