幼穂形成期
視点:ベルタ
小麦の幼穂形成期が迫り焦るおにいさん。絶対に失敗できないので鶏糞や羊糞の生まきはできない。安全度がたかい肥料を用意しなければ。
いつもの様に小麦畑を見に行ったらおにいさんが深刻な顔をしていた。そんな顔をされると不安になってくる。ハンスおじさんと溝をたくさん掘ってぬかるみがなくなっていたから、周りの畑よりむしろいいくらいに見える。
そんなわたしの顔を見て何か説明しようとしてくれているのはわかったけど、どうやら難しいことのようですぐに諦めていた。
説明をしようとしてくれただけでもわかることがある。そういう時はいつも何か大事なことをしようとしている時なのだ。
枝や石を拾いながら家に帰るとおにいさんは水桶を持ち出してくる。たくさんつくってくれた桶の一つを選ぶとおにいさんはそれにおしっこし始めた。
いったいどうしたのだろうか。おまるはすでにあるのにわざわざあたらしく桶をつかうのか?
「ベルタ」
わたしに小さめの桶を渡してくる。何かわからず首を傾げるとおにいさんも首を傾げていた。
水汲みの仕事も終わっているのでわたしはおにいさんにおそわりながら木の棒で編み物をしている。かぎ針一本でてのひらの大きさにできるようになった。むふー。わたしはとても上手に違いない。
魚の焼き干しをかじりながら黙々と作業をする。へびの方がおいしいけどこの焼き干はしょっぱいから気に入っている。
おしっこがしたくなったからかぎ針を置いておまるに向かう。
「ベルタ」
さっき渡してきた桶をまた渡される。
「おしっこ?」
「オシッコ」
どうやら桶におしっこを貯めろということらしい。かんたんに言ってくれるけどものすごく難しいよこれ。
「……ん」
なんとか桶に入れることができた。おにいさんはそれをもって大きな桶に移していた。
さっき編んだ布で拭きながら聞いてみる。いったい何に使うのか。
「小麦」
まったくわからない。そんな話は聞いたことがない。けどおにいさんはまだ上手くはなせないし、わたしも多分よくわからない。
おにいさんの話はわからないことの方がおおい。わからなくても意味があると信じてやろうと思う。
毎日欠かさず小麦畑へ足を運んでいる。
まだ背丈の低い緑の葉が、春の風に揺れて「さらさら」と乾いた音を立てている。
すると今日、おにいさんが一本の小麦をそっと手にとり、茎の根元を指で確かめて、パッと顔を輝かせました。
「ベルタ。おしっこ」
昼下がりの強い日差しの中、おにさんと一緒に、家の裏に並べた桶から、数日間、わたしたちで貯めてきた、あのおしっこを持ち出した。
おにさんはただ真剣な目をして、松脂を塗った重い桶を担ぐだけ。その足取りは、とても慎重で、一滴たりとも地面にこぼさないようにしている。
わたしは、ひつじに水桶を持たせて静かについていった。
畑に着くともってきたおしっこと川の水を混ぜ始めた。
パシャ、パシャ。
木の棒でかき混ぜる音が響く。お水の方がずいぶんおおいのでまざったあとは普通の水に見える。水まきをするのならふつうに水をまけばいいし、となりの畑を見たけれど水まきはしなくてもいい気がする。
わたしはひつじといっしょに、その様子をじっと眺めた。
おにいさんは、コップが付いた棒を手に取ると、麦の根元に、まるで器にスープを移すような丁寧さで水をまいていく。
一滴も地面のすきまに逃したくない。そんな気もちが、おにいさんから伝わってくる。
ひしゃくですくい上げた水は、夏の強い光を透かして、きらきらと輝いていた。おにいさんはそれを、麦の根元の、ほんの小さな土のくぼみ目がけて、糸を引くように細く、優しくそそいでいる。
トトト、と、乾いた土が水を吸い込む小さな音がする。
(小麦さん、美味しいのかな。おしっこなのに)
ひつじが「メェ」と短く鳴いて、わたしの服の裾を食んだ。
でも、わたしは動けなかった。
おにいさんの動きには、まるで村の教会のミサで見る儀式のような、不思議な決まりごとがあるみたいだった。右へ、左へ、また右へ。腰をかがめ、杖のような長いさじの様な棒をつかい、一点を見つめて水を置く。
おにいさんが一歩進むたびに、麦の葉が風もないのに、ほんの少しだけ震えているように見える。嫌がっているのだろうか?喜んでいるのだろうか?それとも何も感じていないのだろうか?
普通の水まきなら、桶からバシャリといっぺんにぶちまければいい話だ。でも、おにいさんはそんな乱暴なことはしない。村の誰もしないことを、まるであたりまえのことのようにおしっこの水を小麦畑にまいている。。
おにいさんのおでこからは汗が流れている。
それが目に入っても、おにいさんは瞬きひとつせず、ただひたすらに小麦の根本を見ている。その顔はとても真剣だった。
見たことも聞いたこともないことをおにいさんはやっている。
わたしは、ひつじの首をぎゅっと抱きしめて、見守るしかない。
おにいさんがまいているのは、わたしたちが毎日捨てているはずの、ありふれた、汚いはずの液体だ。
それなのに、おにいさんはいいもののようにそれをまいている。
空を飛ぶ鳥も、森の獣も、そして村の大人たちも知らない。
わたしはただ、手桶の中の水をこぼさないように抱え直した。
おにいさんがまき終えるまでに、この新しい水を届けなきゃ。
何をしているのかは、やっぱりまだわからない。
おにいさんの汗が土に染みるのを見るたびに、大事な事をしている気分になってくる。
もし、おにいさんがやっていることが、本当にとっても大事なことなのだとしたら。
このあと、いったいどんなことが起きるんだろう。
わたしの頭の中で、小さな空想がふくふくと膨らみはじめる。
(おにいさんのまいたおしっこで、麦さんたちがびっくりして、わさわさって動き出したりして……)
明日になったら、畑の小麦が空まで届くくらい大きくなっているかもしれない。
お日さまの光をたっぷり吸い込んで、麦の茎がどんどん太くなって、まるでお城の柱みたいに丈夫になるの。
そうなったら、刈り取った「わら」だけで、ふわふわで金色の、おっきなわらのおうちがつくれちゃう。
風が吹いてもびくともしない、冬になっても全然寒くない、おにいさんとわたしだけの、とびきり豪華なおうち。
(それから、麦の穂は……そう、わたしの顔よりもおっきな、パンの形をした実がなるんだ)
焼かなくても、そのままもぎ取れば、お花のような香りのする焼きたてのパン。
村のみんなが、それを見て目を丸くする。
「……待っててね、小麦さん。いま、新しいお水も持っていくからね」
わたしは空想の「わらのおうち」の屋根を思い浮かべながら、おにいさんのもとへ、一歩ずつ慎重に歩き出した。
次回、三面摺り
【作中技術解説】
幼穂形成期の追肥:麦が茎の中で穂の赤ちゃんを作るこの時期は、最も窒素肥料を必要とするタイミングです。ここで適切な栄養を供給することで、一穂あたりの粒数を最大化させ、収穫量を劇的に向上させます。
希釈による濃度障害の回避:未発酵に近い尿は各種濃度が高く、そのまま撒くと植物の根を痛める「肥料焼け」を起こします。川の水で数倍に薄めることで、植物が安全に吸収できる濃度に調整しています。
株元施用:全体に漫然と撒くのではなく、根が集中している場所へピンポイントで注ぐことで、貴重な肥料成分の流亡を防ぎます。




