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螺旋の乙女 〜乳白色のセラミックパンク〜  作者: 麻澱灰


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動くタンパク質と非同期トラップ

視点:ベルタ

春の訪れとともに活力を取り戻し、人間の子供の足では到底追いつけない速度で逃げ去る獲物たちを前に、おにいさんは「静かな狩り」を教えます。それは自ら走るのではなく、重力や木のしなりといった自然の力を借り、時間と数で確率の勝負を仕掛けることでした。

「おにいさん、あそこにトカゲがいるよ!」


指差す先、岩の上で日向ぼっこをしていたトカゲは、わたしが足を踏み出すよりも速く、稲妻のような速さで岩の隙間に消えてしまった。


「ああっ、また逃げちゃった……」


勢い余って地面についた手を払い、むう、と唇を尖らせた。

雪がとけてすぐの頃はもっと簡単だった。あの頃のトカゲやカエルは、まだ眠たそうに動きが鈍くて、わたしの小さな手でも簡単に捕まえられたのに。


今はもう、お日様がキラキラして、空気もふんわり温かい。

草も木もぐんぐん伸びるこの季節、トカゲたちもすっかり元気を取り戻しているみたいだ。岩の上でピカピカと背中を光らせていたかと思うと、影が動いた瞬間に、もうそこにはいない。


おにいさんに教えてもらうまで、トカゲやヘビを食べるなんて考えたこともなかった。でも、おにいさんが焼いてくれたお肉は、鶏の肉みたいに白くて、とってもいい匂いがした。お腹が空いて死んでしまいそうだったわたしを助けてくれた、大事なごちそうだ。


「トカゲさん、もう冬みたいにゆっくり歩いてくれないね。わたしの足じゃ追いつけないよ」


春の生き物たちは、雪解けのときはのそのそと動いていたのに、いまはびっくりするほどすばやい。追いかけ回しても、こちらがつかれるだけだ。


おにいさんは、わたしが泥だらけになってトカゲを追いかけている間も、一度も腰を上げなかった。ただ、川辺で拾ってきた平らな石と、先を黒く焼き固めた松の棒、そして水に浸して柔らかくしてから細く裂いた柳の皮を、手元に並べてじっとしている。


わたしが気が済むまで追いかけて無理だと肩をすくめると、おにいさんはようやく立ち上がった。向かったのは、草が不自然に倒れて細い道になっている場所だ。


おにいさんは、そこに焼き固めた棒を立て、その上に重たい石を絶妙なバランスで立てかけた。


「なにそれ?」


それは、今にも崩れそうで、それでいてピタリと止まっている。石の重みを、細い棒一本が必死に支えている。その棒の先には、柳の皮で編んだ細い紐が、地面に置かれた「エサ」へと繋がっていた。


もし、なにかががエサを引っぱったら?

わたしの頭の中に、大きな石が「ドスン!」と地響きを立てて落ちる光景が浮かんだ。

追いかけ回さなくても、生き物が自分で自分の上に石を落とすようにできているんだ。


おにいさんが作ったのは、小さな石と細い棒。でも、もしこれが、もっともっと大きかったら?

わたしの頭の中では、罠が巨大化していく。


まずは、さっきのトカゲよりもずっと速い野ネズミ。エサの匂いに誘われて、棒の隙間に頭を突っ込む。その瞬間、石が落ちて「ぺしゃん」となってしまう。

それから、耳の長い野ウサギ。ぴょんぴょんと跳ねてきて、おいしそうな葉っぱを一口かじる。すると、ウサギの背丈よりも大きな岩が、空から降ってくるみたいに背中にのしかかる。


「うふふ、うりぼうもだ」


泥んこになって走るイノシシの子供だって、この罠なら逃げられない。大きな丸太を支えた棒を、鼻先でちょっと突っつくだけでいい。重たい木がどっしりと落ちて、うりぼうは動けなくなる。

最後には、森の奥で木の葉を食べている、あの大きな女鹿。

ベルタの背丈よりもずっと高い場所に、山みたいな大岩が浮いている。女鹿が首を伸ばして、仕掛けられた草を食んだ瞬間――。


ドスン!


大きな音がして、土が舞い上がる。

あんなに速く走る鹿も、おにいさんの仕掛けの前では、日向ぼっこのトカゲみたいにゆっくりになっちゃうんだ。


ベルタは自分の小さな手を握りしめた。

一生懸命追いかけて、転んで、逃げられて。あんなに疲れることをしなくても、おにいさんの「形」があれば、森中の一番おいしいところが、みんなお鍋の中に飛び込んでくる。


おにいさんは相変わらず黙ったまま、最後に柳の紐の緩みを調整している。その横顔を見ながら、ベルタは次に「ドスン!」と音がするのが待ち遠しくて、じっと獲物の道を睨みつけた。


さらに少し離れた場所では、おにいさんが地面にしなやかな柳の枝を突き刺した。

枝をぐいっと力一杯曲げて、それを小さな木片で地面に固定する。その先には、柳の皮で作った輪っかが、踏みつけたらすぐに締まるような形で横たわっている。


わたしは、おにいさんが押さえつけている柳の枝が、恐ろしいほどの力で「戻りたがっている」のを感じた。。もし、あの小さな木片が外れたら、枝はムチみたいに空を打つだろう。


もし、この輪っかの中に誰かが足を入れたら?


ベルタの頭の中で、しなやかな柳の枝が、巨大な弓のように弾けた。


まずは、野原をぴょんぴょん跳ねる野ウサギ。柳の輪っかに前足を乗せた瞬間、地面の木片が外れて、枝が「びよん!」と空を飛ぶ。ウサギの真っ白な体は、地面から引き剥がされて、青い空の中でバタバタと泳ぐみたいに吊り下げられる。


「あはっ、あなぐまだって、きつねだって!」


足の短いあなぐまも、ずる賢い顔をしたきつねも、おにいさんの仕掛けには勝てない。

地面を嗅ぎ回っていた鼻先が、輪っかをくぐる。次の瞬間には、悲鳴を上げる暇もなく、逆さまになって木にぶら下がっているんだ。


想像はどんどん大きくなって、最後には大きなイノシシまで空に舞った。

ドスドスと地面を揺らして走る、あの恐ろしいイノシシ。それが柳の枝が跳ね上がる力で、まるで鳥みたいに高く、高く持ち上げられる。足をバタつかせても、もう地面には届かない。

走って、転んで、汗をかいて獲物を探すベルタのやり方とは、ぜんぜん違う。おにいさんが作っているのは、生き物の「動き」をあらかじめ計算して、そこへ置いておく罠。

おにいさんは一言も喋らない。けれど、その指先が柳の皮を縛り、石の傾きを調整するたびに、わたしにはおにいさんが森の生き物たちの明日を、もう捕まえてしまったように見えた。


おにいさんの動きには、焦りが全くなかった。

自分が動く代わりに、仕掛けに働かせる。


「これで捕まえられるの?」


わたしが覗き込むと、おにいさんは少し首を傾げ、身振り手振りで教えてくれた。一つや二つじゃダメだけど、たくさんあれば、どこかで誰かがつかまるかもしれないということのようだ。

おにいさんは、獲物の稲妻のような速さを追いかけたりはしない。その代わりに、たくさんの罠を仕掛ける「数」と、獲物が通りかかるのをじっと待つ「時間」で戦おうとしていた。

おにいさんは罠を仕掛け終えると、場所を忘れないように、木の幹に小さく削り跡をつけたり、石を積み上げたりして、自分たちにしかわからない印を付けていく。


「おやすみ、罠さん。しっかり働いてね」


その夜、暗い森の中に残してきた「身代わりの手」のことを考えた。わたしが温かい場所で眠っている間も、おにいさんが作った石や枝は、冷たい夜気の中でじっと獲物を待ち続けてくれる。寝ている間にお肉が捕まるなんて、なんて素敵で、不思議なことなんだろう。


明日が待ち遠しくて、わたしは何度も寝返りを打った。


翌朝。

お日様が顔を出すか出さないかのうちに、わたしは飛び起きておにいさんの裾を引っぱった。昨日の印を頼りに、一つ目の罠へ駆け寄る。


「あれ?」


そこには、昨日と同じように、石を支える松の棒が静かに立っていた。エサもそのまま。

二つ目、三つ目……柳の枝が跳ね上がっている場所もあったけれど、そこには千切れた毛が数本残っているだけで、獲物の姿はなかった。


「いないね、おにいさん」


ベルタの肩ががっくりと落ちる。あんなに大きな石が落ちる音や、空に舞い上がるイノシシを想像していたのに、森は昨日と変わらず静かなままだ。


けれど、おにいさんはちっとも残念そうにしていなかった。作動して空っぽになった罠を、また黙々と、昨日よりももっと丁寧に作り直している。

その迷いのない手つきを見ていると、沈んだ気持ちも少しだけ軽くなった。


「……そうだよね。罠さんは、今日も明日も、ずっと待っててくれるんだもんね」


わたしはおにいさんの真似をして、印のそばに落ちていた枯れ枝を拾い、少しだけ位置を直してみた。魔法が効くまでは、もう少し時間がかかるみたい。でも、おにいさんと一緒なら、いつかきっと、あの「ドスン!」という音が聞こえるはずだ。




次回、おにいさんの長い一日


【作中技術解説】

労働の非同期化:人間の直接的な労働時間を、道具や仕組み(システム)によって「時間軸から切り離す」行為です。獲物の「速さ」という個別の能力に対し、罠の「数」と設置「時間」という統計的なアプローチで対抗する姿勢は、場当たり的な狩猟から、計画的な資源管理へと移行する文明の分岐点を示しています。


落石式罠:おにいさんが作った石の罠は、持ち上げた石の「位置エネルギー」を「殺傷エネルギー」へと変換する装置です。


跳ね上げ式くくり罠:柳の枝を曲げて固定する罠は、木材の繊維が持つ「弾性エネルギー」を利用したものです。柳の皮は水に浸すことで柔軟性と強度が増し、乾燥すると締まる性質があります。


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