10. とある老人の話
スカリウム市には、貧しい住民が密集する区画が一か所だけあるわけではなく、古い城壁際や工房街の裏手、河岸の倉庫群の周囲などに、大小いくつもの貧民街が散在している。
演劇はそうした地区や、そのすぐ隣にある神殿の公共広場などで行われているようだった。
――何度か現地の人々に聞き回っていくうちに、よく使われる神殿についてもだいたい分かってきた。
光の始祖神レウカリアの神殿、契約の大神ミトラスを祀る神殿、軍人や退役兵が儀式や休日によく参拝に集まるチュール神殿、貧民への施粥や施療を行っている慈悲の女神エレウサの神殿、それから衛生と清浄を司る女神ヒギュエアの神殿。
これらが、主な開催場所となっているようだった。
ただ、神殿であればどこでもよいわけではないらしい。大きな祭礼を行えるだけの前庭を持ち、そこへ木組みの舞台と布幕を運び込み、観客をある程度集められるだけの空間が必要であるようだった。
その条件を満たす神殿が順番に広場を貸し、その地区の住民へ日程を知らせる仕組みになっているらしい。
ただし、公演そのものは月に何度かあっても、演劇目の学生全員が一度に毎回出演するわけではないようだ。
一日の公演には複数の学年の内の一部が合同で参加するようで、その中でも役者、舞踊、楽器、朗誦、舞台設営、衣装、脚本、神話考証などに分かれるため、実際に一人の学生が舞台へ出るのは、多くても年に六度から八度ほどで、研究や脚本を主とする学生ならさらに少ないようだった。
ガラヌスも外出日と公演日が重なるたびに何度か足を運んだが、エイリシアを見つけることはできなかった。
もっとも、軍学校から許される外出時間では一日中劇を見ているわけにもいかなかったため、ガラヌスが午前だけ見て帰った日に午後の劇へ出ていた可能性もあるし、当然そもそもその日の担当ではなかった可能性も高い。
そこで今度は、舞台を見るだけでなく、観客へ話を聞くようになった。
演目と演目の間には舞台道具の入れ替えで時間が空くため、その間に何度も見に来ている者を探して話しかけていった。
すると、エレウサ神殿の広場で、一人の老人からようやく手掛かりらしい手掛かりを得ることができた。
老人は胸まで届く灰色の髭を無精に生やし、何度も繕った跡のある褐色の上衣を着ていた。
左脚は膝より上から足先までがなく、立ち上がるときには木の杖を使っていた。
彼は、学生舞台が始まる少し前にはいつも同じ石段へ座るらしく、近くにいた者へ尋ねると、彼はこの辺りではよく知られた常連なのだという。
次の演目までまだ時間があったので、ガラヌスは老人の近くまで歩いていった。
「すみません。少し聞きたいことがあるんですが」
「ん?」
老人は顔を上げ、軍学校の制服を着たガラヌスをしばらく見たあと、座っていた石段の隣を杖で軽く叩いた。
「……まあ、とりあえず座って話せ。次までまだ時間はあるからな」
「はい。ありがとうございます」
ガラヌスは愛想よくそう返して、老人の隣へ腰を下ろした。
すぐに本題へ入るのも不自然に思えたので、しばらくは今日の演目や、この辺りではどの神についての公演に人が集まるのかといった他愛のない話をした。
その間にも案外老人はよく喋り、ガラヌスが相槌を打つたびに、話は別のところへ飛んでいった。
――また、話してみると、どうやらこの老人は若いころ軍にいたらしい。
ただ、演習中の事故で左脚を失って以来、軍務を続けられなくなり、現在は市の配給所で仕事をしているのだという。
ここへ来るのも、信仰するエレウサの神殿へ祈りに来るついでらしかった。
頃合いを見て、ガラヌスはようやく本題を切り出した。
「ほう、耳長人の娘を探しおると?」
「はい」
すると老人は髭を撫でながら、舞台の方へ目を向けた。
「何人か見たことはあるぞ。耳長人なんて、そういるもんじゃないし、あの人らは見栄えもするからな。舞台に立てば嫌でも目につく」
「金髪で、目が黒い娘なんですが……」
老人はそこでゆっくりとガラヌスへ顔を向けると、口の端を持ち上げ、いかにも面白いものを見つけたというように、にやりと笑った。
「ほう。なんでまた、そんな娘を探してるんだ? くっくっく……」
ガラヌスは気まずくなって、何も言わずに視線を逸らした。
すると老人は、しばらく肩を揺らして笑ったあと、杖の先で地面を二度叩いた。
「はぁー、悪かった悪かった。若いのをからかうもんじゃないな」
それから宙へ視線をやり、記憶を探るように目頭へ指を当てて、しばらく黙り込んだ。
「……金髪というだけなら難しい。耳長人の髪色は金か銀が多いからな。たまに赤だの青だの妙な色もいるが、金髪は珍しくないのだ。……だが坊主、お前、いま黒い目と言ったな?」
「はい」
「なら覚えてるぞ。あの人らの目の色は青か緑がほとんどだ。黒は珍しい」
ガラヌスは思わず老人の方へ身体を向けた。
その反応がよほど分かりやすかったのか、老人はまた口元を緩めたが、今度は何も言わなかった。
「いつ見ましたか?」
「……あぁー、あれは半年前くらいだったかな。見たのはそのときだけだった。この広場じゃぁなかったな。たしかミトラス神殿の方だった。演目は原世時代の神話で……なんだったか、あれだよ。邪神らと神々が戦争をする以前の悲劇で……主神に背いた王が一族ごと滅びるやつの……」
「『アウェルニ王の破滅』ですか」
老人はそれを聞くと、眉間へ当てていた指を離し、ぱちんと鳴らした。
「そうだ、それだ! あの娘はそれで、確か王妃の侍女をやっていた。主役じゃぁなかったが、ずっと舞台にはいたぞ。四番手か五番手くらいの重要な役だったな。それで、あの演目は二年生のものだった気がする」
ガラヌスは思わず目を見開いた。
半年近く探しても断片的な噂しか得られなかったのに、たまたま話しかけた一人の老人から、いつ、どこで、何の演目に、どの役で出ていたのかまで、一度に情報が出てきた。
まさかここまで具体的な話が急に得られるとは思っていなかった。
「……なるほど。ありがとうございます」
ガラヌスがそう礼を言うと、老人はすぐに「ただな」と付け加えた。
「彼女が次にいつ出るかまでは知らんぞ。神殿が教えてくれるのは開催の日と場所だけでな。何をやるか、誰が出るかは当日まで伏せられている。毎回同じ顔ばかりじゃないしな。これ以上知りたいなら、演劇目の学生を捕まえて聞くしかないだろう」
「……なるほど、分かりました。それだけ分かれば十分です。ありがとうございました。では」
ガラヌスがもう一度礼を言い、帰校時刻もあるので立ち上がろうとすると、
「おいおい、待て。年寄りの話はもう少し聞いていくもんだぞ」
老人が杖を横へ伸ばし、ガラヌスの行く手を遮るように呼び止めた。
「坊主を見てると、懐かしいことをいくらか思い出してな……」
老人は杖へ両手を重ねると、舞台よりさらに向こうへ目を向けた。目の前の広場ではなく、もっと遠いところを眺めているようだった。
「そうだ、わしがお前くらいだったころはな――」
うわぁ、始まった。
ガラヌスは内心でそう思った。
軍学校でも、上級生に捕まれば、これと似たようなことはよくあった。
自分の代の訓練はもっと厳しかった、教官は恐ろしかった、自分たちの級にはこんな変わり者がいた、休み時間に高い階の窓から外へ出ようとして落っこちたやつがいたと、聞いてもいない内輪話を延々とされることがある。
しかも、こういう話に限って途中から話し手同士で盛り上がり始め、「そういやあいつ、こんなこともやったよな」「あったあった」と、聞いている側はほとんど会話の置物のようになることも珍しくなかった。
もっともガラヌスも、すでに適当なところで頷き、適当なところで驚き、話が終わるまで聞いているように見せる方法くらいは身につけていた。
「俺、ちょっと忙し――」
そう言いかけたところで、ガラヌスは言葉を止めた。
老人の目が、ほんの一瞬だけ寂しそうに細くなったのが見えたからだった。
その瞬間、自分が今しようとしていたことが、頭の中に駆け抜けた。
――自分が欲しい情報を持っている間だけは熱心に話を聞き、用が済めば、相手が自分より立場の低い老人だからと適当に切り上げて去る。
これは、自分がずっと嫌ってきた種類の人間がやることではないのか。
そう気付いた瞬間、背中に生ぬるい何かが這い上がるような感覚がした。
さらに気持ちが悪かったのは、自分が老人を見下そうと思っていたわけでも、傷つけようと思っていたわけでもないことだった。何の悪意もなく、ただごく自然に、自分にはもう利益がないから帰ろうとしていた。
同時に、軍学校へ入ったころの、自分へ嫌がらせをしてきた連中の顔が浮かんだ。
そう考えると、嫌がらせをしていた連中と自分との間にも、決して越えられないような大きな境があったわけではないのではないかという妙な考えが、ガラヌスの中で急に思い浮かんだ。
それらがほんの一瞬のうちに頭をよぎると、ガラヌスは立ちかけていた身体を戻し、再び石段へ腰を下ろした。
「……それで、若いころは何をしてたんですか」
「おぉ、聞く気になったか」
先ほどまでわずかに細くなっていた老人の目は、すぐに三日月のように曲がり、満足そうに髭を撫でた。
「それでな、わしが軍へ入ったばかりのころは、そりゃもう真面目だったんだぞ。今のわしを見ても信じんだろうがな。朝は誰より早く起きて、訓練じゃ誰より前へ出てな……」
そこから聞かされた話は、ガラヌスが思っていたよりずっと長かった。
老人は若いころ軍に入り、本気で出世するつもりだったらしい。
兵から下士官へ上がり、できれば士官選抜を受け、いつかは佐官になり、運がよければ将官にまで上り詰める。功績を積み、貢献点を得て、傑人へ列せられ、最後には平安地で暮らす。
若いころの自分にとってそれは、努力していけば当然たどり着ける未来に思えていたという。
しかし、ある日の演習中、弩砲から誤って飛び込んできた太矢が左脚を深く貫いた。
傷はほどなく腐り始め、結局、千切れけていた脚を切り落とすことになった。
――そしてそれ以来、軍務を続けることはできなくなったそうだ。
軍を離れたあとには、身体への負担が少ない仕事が行政から割り当てられた。
その後職場を点々とし、今は市の配給所で、穀物や施粥を受けに来た者の札を確認する仕事をしているのだという。
「ありがたい話ではあるんだぞ。脚のない男を野垂れ死にさせるんじゃなく、座ってできる仕事をくれるなんてな」
そこで一度、老人は言葉を切った。
「だが、ああいう仕事じゃ貢献点は増えんのだ」
老人は自分のない脚を杖で軽く叩いた。
「身体にこういうのがあれば、左遷される点の基準そのものは少し下げてもらえる。だがゼロになるわけじゃない。こっちは点を稼ぐ仕事ができないのに、減る方は気にし続けなきゃならん」
大天国では、例えば借金を滞納すれば罰点が付き、生産性の低さを理由に解雇された場合にも、同様に罰点が付く。
所帯を持つにも一定の生活評価と貢献点が要るが、結局、老人はそれにも届かなかったそうだ。
「罰点が付かぬように、何があってもいいように、なるべく金は使わんようにした。酒も滅多に飲めん。遊びや賭け事なんぞ論外だ。服は破れりゃ自分で繕った。腹が減れば神殿の炊き出しに並んだ。そんなことをしてたらな、いつの間にか何も成せないままにこの歳になってしまった」
老人は広場の向こうへぼんやりと目を向けながら、淡々と言った。
「いまじゃ、ここの芝居と、毎日の祈りと、神殿の手伝いが小さな楽しみだ。炊き出しの飯もそんなに悪くはぁない」
それから彼は、舞台の上で大道具を運んでいる学生たちを眺めた。
「本当はな、もっと軍で上へ行きたかった。人を何百人、何千人と動かして、大天国の役に立って、あいつは立派な軍人だって言われたかった。うまい物を食って、きれいな女房をもらって、子供が何人かいて、スカリウムのいいところに家を持って......」
老人はそこで少し間を置いた。
「あと少し違ってたら、そうなってたかもしれんかったのにな。今でもあの矢を恨んどるよ」
やがて舞台の向こうで鐘が鳴り、次の演目を知らせる声が広場へ響いた。
次は、契約の大神ミトラスにまつわる古い逸話を扱った『オレステスの裏切り』という演目らしい。
舞台の上では学生たちが最後の大道具を運び終え、観客も少しずつ前へ集まり始めていた。
「だがな、坊主。運ってのは、人間が全部どうにかできるもんじゃない」
老人は手にしていた杖を、石段の脇へ立て掛けた。
「わしらは神さんじゃないんだ。努力したって外れるときは外れるし、何もしなくても拾うやつもいる。……だから、お前はいまのうちに、いまの生活をちゃんと味わっとけ。今のお前にしかできんことも、その歳のお前にしか会えん相手もいるだろうよ」
そこで老人はガラヌスを横目で見ると、また口の端を持ち上げた。
「まあ、なんだ。黒い目の耳長娘を探して街を歩き回るような暇があるうちは、存分にやっとけ。わしは応援してるぞ、お前の恋路を」
「……そういうのじゃないです」
「お前は頑固なやつじゃのぉ~」
老人が歯を見せて笑ったので、ガラヌスは返す言葉を探すのをやめ、舞台の方へ顔を向けた。
彼の歯は半分以上抜け落ちていた。
やがて次の演目が始まり、広場の人々の視線が一斉に舞台へ向かっていったが、ガラヌスの頭にはしばらくの間、老人がさっき言った言葉が残っていた。
――今のお前にしかできんことも、その歳のお前にしか会えん相手もいる。
なぜなのかは自分でもよく分からなかったが、その言葉だけは、深く心に残った。




