第1話 退屈な迷宮 1
「……退屈じゃ」
その一言が響いた瞬間、広大な迷宮全体が小さく震えた。
天井からぱらぱらと砂塵が舞い落ち、眠っていた魔物たちが一斉に身を縮める。しかし、それもすぐに静寂へと戻った。
誰も驚きはしない。
これくらいは日常茶飯事だった。
世界最古にして最凶。原初の迷宮──ラビリントス。
神話の時代より存在し、その最深部へ到達した者は一人としていない絶対不可侵の大迷宮。
その最奥。
巨大な神殿の中央に据えられた祭壇の上で、一つの七色に輝く球体だけが静かに宙へ浮かんでいた。
始まりの迷宮核。
迷宮そのものの意思。
原初の迷宮ラビリントス。
そう呼ばれているモノ。
数万年前まで、この迷宮には毎日のように挑戦者が訪れていた。
神々に選ばれた勇者。
名を馳せた英雄。
己の力を信じる魔王。
神の一柱や竜王ですら、この迷宮へ挑みそして散っていった。
彼らは知恵を巡らせ、罠を潜り抜け、幾多の魔物を倒し、最奥へと向かう。
その果てに待つ絶望を見る事こそが、ラビリントス最大の愉しみだった。
だが、それも遠い昔の話。
今では迷宮へ近付く者すらいない。
人々は恐れ、神話として語り継ぎ、誰も挑もうとはしなくなった。
そして、そのうちに……忘れ去られてしまった。
仕掛けた罠には埃が積もり、強大な魔物たちは欠伸を噛み殺しながら日々を過ごす。
迷宮とは、本来踏破されるために存在する。
挑戦者がいて初めて迷宮は迷宮なのだ。
挑む者のいない迷宮など、ただの墓石と変わらない。
「……退屈じゃ」
ラビリントスは二度目の呟きを漏らした。
その時だった。
ぴちゃ、ぴちゃ、と湿った音が神殿へ近付いてくる。
「ラビリントス様ぁ! おっはようございまっス!」
暗闇から姿を現したのは、半透明の藍色をしたスライムだった。
迷宮最古の眷属にして、ラビリントスが知恵と魔力を授けた忠実な僕である。
「グラか……どうした?」
「ご報告ッス、先ほど第一階層に侵入者を確認したッス!」
その一言で、七色の迷宮核が僅かに輝きを増した。
何百年ぶりだろう…….ようやくこの長い退屈が終わる。
「ほう……面白い。どこまで進んだ」
「第一階層ッス!」
「ふむ。 何人だ? 今回の挑戦者はどこまで来れるかのぅ。 クックック……」
「えっと、1人で入って来て……既に死んだッス!」
神殿に沈黙が落ちた。
数秒。
いや、それ以上だったかもしれない。
ラビリントスは何も答えない。
「ラ、ラビリントス様……?」
「帰れ」
「えぇぇぇぇぇぇっ!?」
グラはぷるぷると震えた。
「期待させおって……」
「す、すみませんッス! たぶん迷い込んだ村娘とかだったッス!」
「第一階層で力尽きるとは……嘆かわしい」
昔なら第一階層など散歩にもならなかった。
神代の英雄、英傑達はラビリントスの様々な趣向を凝らした階層を突破し、強大な力を持った階層主達を撃破してきたし、ただの村人でも第一階層で力尽きるような軟弱な者はいなかった。
それが今では入口で命を落とす。
人類はそこまで衰退したということか。
ラビリントスは深くため息を吐いた。
「本当ッスね、オイラが人間に擬態して強い冒険者を呼び込むッスか?」
「莫迦者! 迷宮が自らどうぞ攻略して下さい、財宝もありますよ。なんて宣う気か!」
「ぴぃー! ごめんなさいッス!」
その時、不意に一つの考えが頭をよぎる。
「……待て」
「はいッス?」
トボトボと帰りかけたグラがラビリントスの呼びかけに動きを止める。
「さっきの侵入者は息絶えたばかりと言ったな?」
「あい! つい先ほどッス!」
ラビリントスは静かに笑った。
クク……
何万年ぶりだろうか。
退屈を忘れるほど愉快だった。
「なるほど。そういう手があったか」
「ラビリントス様?」
「我は勘違いしておった」
七色の迷宮核が静かに宙へ浮かび上がる。
神殿全体の魔力が共鳴し、空気が震え始めた。
「我はずっと待っておった、強者が現れるのを。しかし違う! 待っていてもやって来ぬのなら──」
七色の光が神殿を満たす。
「我が探しに行けばよい」
グラは数秒固まった。
「…………え?」
「地上へ赴き、この我を愉しませる英雄を探す」
「オイラが呼び込むのと何が違うッスか? それにラビリントス様は迷宮そのものッスよ?」
「貴様が有象無象を連れて来るのとは訳が違う! 我が! 直接選ぶのじゃ! 選別し見込みのある者には褒美を与える。 そうして育てた英雄がどこまで来れるか試すのだ!」
「…………」
沈黙の後、グラは飛び跳ねるように歓声を上げた。
「さ、さすがラビリントス様ッス! 何万年もそんな発想が浮かばなかったのが不思議なくらいッス! でもどうやって地上へ行くッスか?」
「うむ、我に考えがある」
七色の迷宮核がフワフワと動き始める──
「侵入者の下へ案内せよ」
「はいッス!」
グラを先頭に、ラビリントスがゆっくりと神殿を離れる。
何万年ものあいだ、一度も動くことのなかった迷宮の主が、自ら玉座を降りた。
世界中の英雄を喰らい尽くすために──




