#012
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いちばん簡単で、いちばん明白な思想こそが、
いちばん理解しがたい思想である。
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「あ、言い忘れていました。人にその御姿が見えているのか否か、懸念していた様子でしたがご心配なさらずに。問題なく、間違いなくあなた様の勇敢な御姿ははっきりと見えておりますよ。私奴の節穴な眼ですら、眩しいほど輝いた勇姿を捉えることができております。いやはや、この歳になると物忘れが益々酷くなりますな。失礼、私語は慎むべきでした。それでは、神産巣日神――いや、現世でこの名を口にすることは無礼かもしれませんね。では、またお会い致しましょう、二条 名木様」
神留さんが去り際に残した言葉だった。
皮肉なのか、それとも神を崇拝する精神による言葉なのか。
僕は思う。
間違いなく、前者だろう……。
怯えたウサギのような僕の姿を彼がそう捉えているのなら、それは本当に節穴な目だ。
『敵』でもなく『味方』でもなく、『中立』か――
それはそれで何だかすっきりしない立場だ。
神留さんにどう対応すればいいのか、どんな態度を示すべきなのか曖昧になってしまいそうだ。
しかし、『中立』的な立場が故に、こうして僕に有益な情報を教えてくれたのだから、今はとりあえず彼の言葉を信じるしかないだろう。
たとえ、裏切られることがあったとしても。
背後の一突きに見舞われる羽目になったとしても。
神留さんの言葉を鵜呑みにし、疑わずに僕は家路に着いた。
まぁ。
その情報の信憑性は一先ず置いておこう。
しかし、それを言ってしまえば、神留さんが僕に対してわざわざ嘘を吐くことにメリットがあるとは思えないので、いずれにせよそれを信じるしかない。
三年前の放火事件を乗り越え、その際に新築した絢爛な一軒家。
二階建て(屋根裏部屋有り)。
重厚な玄関扉を体を使うようにして開け、家に這入る。
這入って。
「おっっそい!!クズ野郎!!」
「…………」
僕の気配を予め感じていたのか、姉の幟季が吼えた。
玄関マットの上で、両腕を胸の高さで組み仁王立ちしていた。
その様、そしてその面構えはさながら金剛力士像のようだ。
「弟が帰ってきたときは笑顔でお出迎えしろよ……」
「あー、……は?どうして私があんたみたいな奴のためにそんなことをしなくちゃいけないんだい?どうしてあんたなんかのために?どうしてあんたなんかのために?」
「僕に弟としての権利はないんですか!?人間としての権利はないんですか!?」
強制無条件、権利剥奪。
白旗、降参。
「まぁ、言い過ぎたよ。すまない、すまない。別にあんたを嫌って言ったわけじゃないんだ。何だろう、ほらよくあるだろう?小学生が好きな女子に対して意地悪する――みたいな」
「確かにそれは小学生あるあるだけれど、僕は女の子じゃないし、小学生でもないんだぞ」
「おや、そうだったの?」
「…………」
冷静な口調で首を傾げる幟季だった。
その思い込みの激しさは本日も健在である。
「冗談はさて置き、おかえり名木。いや、めんそーる!」
「めんそーる?」
「何だ、知らないのかい?沖縄の方言で、『ようこそ』って意味だぜ」
「だぜ、って何だよ、だぜって。いや、そうじゃなくて――自慢げな顔をしてる中悪いが、それは『めんそーる』じゃなくて『めんそーれ』だよ!どこをどう間違ったらそんな誤用ができるんだよ!」
「あれ、そうなの?」
「そうだよ……」
「いやでもさ、沖縄の方言って『さーさー』、でしょう?」
「お前のそれは『すーすー』だ!」
「名木、声が大きい『しーしー』」
幟季は声を潜めて、人差し指を唇に当てる。
「うぜぇぇぇっ!!」
僕の叫び声が家中に響いた。
しかし、何だかんだ、仲睦まじい姉弟の姿がそこにあった。
「――と言うか」
玄関で靴を脱いで、一階のリビングに入って僕はさらに呆れる。
リビングと廊下を隔てた扉で気付かなかったけれど。
「寒っ!?え、何これ、何でこんな極寒アトラクションみたいな部屋になってるんだよ!」
扉を開けた瞬間に顔面を襲った冷気。
熱を込めた衣服を貫いて火照った体に刺さる冷気。
鼻腔が開き、毛が逆立つ寒さ。
「そりゃ、夏だからね。暑さには参る」
「だからってこの室温は異常だろ……」
蒸し暑い外気をさっきまで纏っていたせいか、余計に寒く感じる。
肌が突っ張る。
「まぁそう言うな、弟よ。三種の神器とも言うじゃないか、これは人類の発展した知恵が生み出した賜物なんだから」
「違う!三種の神器にエアコンは含まれていないよ!」
正しくはテレビ、冷蔵庫、洗濯機である。
「あれれ、もしかして名木、高校生になって知らないのかい?」
「……何がだよ」
幟季はわざとらしく鼻につく笑みを浮かべる。
見るだけでどこかむかっ腹が立つ笑みだった。
「カラーテレビ、クーラー、自動車、これらが新・三種の神器って呼ばれてるのを知らないのかい?あはははっ、これは面白い。調子に乗って突っ込んで、玉砕爆砕粉砕か!あははははははっ」
「…………」
え、嘘だろ?
新・三種の神器とか聞いたことないぞ……。
そんなの、今までの教育課程で教わったことないぞ。
いや、僕が忘れ去ってしまっているだけなのか?
「とにかく!そんな豆知識の披露なんていらないんだよ!さっさと室温を上げろ!寒いって言うより、冷たいんだよ!」
「冷たい……?」
「僕が凍りつく前に、さっさとリモコンを渡せ」
「そう、二条 名木の住む家は冷たい家庭内であった――」
「……すごい悲しくなるな、それ」
嫌過ぎるだろ。
冷気を纏った家庭なんて。
冷め切った家庭なんて。
「妻は雪女、夫は雪男、その両者の間に生まれた二条 名木であった――」
「冷たい家庭ってそういう意味だったの!?」
僕は力限り突っ込みを入れて、テーブルの上に無造作に投げられたリモコンを手に取る。
設定温度十六度、風量強。
何を思ってこんな設定にしたのだろう……。
節電するつもりも、地球環境のことも何一つ考えていないのが幟季だった。
何かにつけて『エコ』を強調するメディアや企業も、それはそれでどうかと思うけれど、それにしてもやり過ぎだ。
機械音を何度も鳴らして、設定を一般的なそれに戻し、僕は溜息を吐いた。
はぁ。
はぁ……と。
こうして帰宅し、幟季と会話していると忘れてしまうのだ。
僕が人ではなくなってしまったことを。
神に成り上がってしまったことを。
家に帰れば――家族と対話していれば、以前までの日常はこんなにもあっさり取り戻すことができるというのに、僕はすでに取り返しのつかないような出来事に巻き込まれている。
目の前に、手を伸ばせば簡単に掴める近さに日常があるのに。
その間隙を受け入れているつもりなのに、けれどどこか腑に落ちなくて、納得できなくて、もどかしい。
近いようで遠い、日常。
その距離は絶対的に埋まらない。
「どうしたんだい、何か悩んでいるように見えるね」
幟季はトレイにお茶を注いだカップを二つ乗せて、一つを僕の目の前に置いた。
テーブルを間に挟んで、お互いが向き合う形でソファに腰を掛ける。
「ん、あー……別に、そんなことはないよ」
「……ふぅん?」
幟季は奇妙な表情をする。
感付かれたか、或いは勘繰っているのか、それはわからないけれど、幟季は勘が鋭い方だ。
脳の構造的に女性は直感が働き易かったり、少しの違いが判別できるらしいけれど、そんな科学的な理屈抜きにしても彼女の第六感は案外侮れない。
目を合わせていると見透かされた気分になってしまう。
比賣 咲夜の目もそんな印象を受けたが、それで言うなら、幟季はその上位版のように思える。
「ところでさ――」
幟季は足を艶美に組んで言う。
「――名木、終業式はどうだった?」
僕は返答せずに沈黙した。
その沈黙が何かを物語るには十分だったかもしれないが、僕は心の底から幟季の直感が的を外れることを願ったのだった。




