#011
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俺のような人間は、百万人の生命を犠牲にするくらい屁にも思っていない。
◆
「本当に戻って来れたのか……?」
一連の不可解な出来事を身をもって体験したせいで、今まさに自分の目が捉える光景が半信半疑でならなかった。
あのモノクロのような世界から一瞬にして現実に帰ってきたのだ、無理もないだろう。
青い空だ。
青々しい空だ。
さきほどまで僕がいた夜の世界とは違う――けれど、ここは本当に僕の知る日常の世界なのだろうか。
これもまた、何かの力によって生み出された別の世界ではないのだろうか。
今の僕にはその疑いを晴らす的確な解答を知らない。
仕方のないことだろうが、勘繰りが止まらなかった。
そう言えば、と。
僕は辺りを見回して、比賣と白い彼女がいないことに気付いた。
そもそも、人ならぬ身である彼女らは日常の世界に存在することができるのだろうか。
いや、それを言ってしまえば僕だって同じか。
僕もまた、人ならぬ身。
人より遠い存在で、上位の存在だ。
神なのだ――神産巣日神と言う名を継承してしまっている。
不運にも、であるけれど。
しかし、確かに僕は日常のそこに存在している。
日常の世界の中に、いる。
かと言って、僕があの事故で普通では見えない彼女を視認してしまった時と同様に、僕の姿が一般人には見えない可能性もあるだろう。
僕の姿が見えないのであるならば、例え日常に帰って来れようが結局意味を持たない。
自覚するにはおよそ時間が掛かりそうではあるけれど、僕は『人間』ではなくなってしまったのだ。
この姿が見えないのだとしたら、それは頷くには十分な理由だ。
僕は歩みを進めて考える。
どこに行くでもなく、行く当てがあるわけでもなく、そぞろ歩きで思考する。
そもそも、僕はどうしてあの時――白い彼女が目の前で車に轢かれた事故を見ることができたのだろうか。
「幽霊を見ることができる人間がいるように、神様を見ることができる人間もおる――」、そう彼女は言っていたけれど、しかし、僕は神職でもなければその補佐でもないし、どころかその道に詳しくもない平凡な只の高校生なのだ、その僕が一体全体どうして『神』であった彼女の姿を捉えることができたのだろうか。
考えれば考えるほど、謎は深まるばかりである。
例えば、僕に先天的な『何かの力』が備わっていて、そのせいで見えてしまったとか――いや、そんな都合の良いことがあるとは思えない。
そんな根拠のない推測はするだけ無駄なことなのかもしれない。
そうだ。
それなら、その疑問を解決するために訊けばいいではないか。
白い彼女と僕を救った比賣 咲夜に訊いて、僕が置いている身の状況やありとあらゆる不可解な現象を説明してもらうべきだ。
いや、説明してもらわないと困る。
突如、神に成り上がったと宣告され、まるで御伽噺のファンタジーな世界で繰り広げられる惨劇に見舞われ、そして理解が追いつかないままに日常の現実へと戻ってきた――思い返して、どう唸って思考しても結局、わからないのだ。
どうしてこんなことが起きてしまったのか。
どうしてこんな目に遭ってしまったのか。
過ぎたことを振り返ることに意味はない、そんなキメ台詞は僕には通用しない。
少なくとも、現在進行形で継続する点において、僕はそれが過ぎたことであっても確認しなければいけないだろう。
まぁしかし、確認しようにも白い彼女も比賣も姿を消してしまっているのだからどうしようもない。
「はぁ……」
僕は道中で溜息を吐きつつ、踏み出す足の方向を変えた。
「とりあえず、家に帰ろ……」
比賣が神楽坂を撃退した時にも吐いた言葉を使うなら、疲れた。
激痛を耐え抜いて疲労したと言うより、不可解な現象を目の当たりにし過ぎて精神が磨り減った感じだ。
悩み過ぎ。
考え過ぎ。
いや、けれど、もし僕の姿が誰にも見えないのなら安易に帰宅するのはまずいか……。
なんて。
そんな風に先行きを懸念して、足取りを止めた時だった。
耳元から伝わる距離で背後から声を掛けられる。
神楽坂との遭遇が瞬時に脳裏を過ぎり、僕は反射的に体を反転させて身構えた。
身構えて。
そこに慎ましく立っている人物が神楽坂 美耶子でないことを知る。
「ふふふ、よほど美耶子との一件が色濃く刻まれているようですね。大丈夫ですよ、安心してください。あなた様に危害を加えるつもりなど毛頭ありませんから」
灰色のジャケットに灰色のスラックス。
上下を統一した色彩の中で胸元に際立つ血色のハンカチ。
若いとは決して言えない、見知らぬ男性だった。
「僭越ながら、宮司をさせて頂いている神留 古鳴です。どうぞ、以後お見知りおきを」
容姿に見合った丁寧で落ち着いた口調。
絵に描いたような紳士の態度だ。
「えっと……」
誰だ、この人。
神留 古鳴?
聞いたこともない名前だ。
「この度、新しくカミムスビの名を継承されたそうで、ご挨拶に伺った次第です。それと、私奴の立場を明確にするためにも必要不可欠な邂逅でしょう」
「えっと……カミムスビ――…………っ!!」
僕は彼のその言葉を聞いて、体を再度百八十度反転させる。
反転させて。
「お、お、お待ちを!」
神留 古鳴と名乗った男の制止を背中で黙殺して、走り出す。
走って。
走る。
猛ダッシュ。
くそ……。
日常に戻ってきたと安心していた。
日常の僕の知る現実世界だからと気を緩めていた。
そうだ、そうなのだ。
もうすでに、僕の日常など破綻している、崩壊している。
脆くも、ほんの数時間という短い間に崩れ去ってしまったのだ。
あの夜の世界――『常夜』だけでなく、現実世界――『現世』まで僕のことを狙う輩がいるのだ。
神留 古鳴。
あいつは自分のことを宮司と言った。
宮司と言えば、それは神職ではないのか?
僕は住宅街を駆け、嫌な汗を体全体で感じながら考える。
神楽坂 美耶子もまた自分のことを巫女だと言った。
神に仕える身、神に身を費やす神職。
そんな彼女が僕を襲った――不安定な存在である僕が荒魂とやらを背負い、災厄を呼ぶことを懸念して、防ごうとした。
それなら。
さっきのあいつも同じ狙いがあるのではないだろうか。
神楽坂と同じように、僕の存在を懸念してそれを未然に防ぐべく、殺すつもりではないのだろうか。
いや。
こんなの自問することではない。
わかりきっているのだ、間違いなく、僕は狙われている。
僕が荒魂になれば、世界を揺るがすほどの災厄を呼ぶ――それほどまでの甚大な影響を及ぼすのなら、神楽坂以外の神職が僕を狙うことに十分頷ける。
まさか、神楽坂一人の独断先行ではないだろう。
それを指揮する者もいるのかもしれないし、こうして僕を狙う実行犯が複数いるのかもしれない。
しれない、と言うか。
僕を狙う二人目の刺客からまさに今逃亡しているのだ。
後ろを数回振り返り、彼が追って来ていないということを確認して、僕は立ち止まった。
あれだけ本気で走ったというのに息切れすらしなかった。
これも神の力せいなのだろう。
確かにそれを言えば、神様が走って息切れを起こすなんて滑稽で哀れだ。
笑い話にもならない。
それにしても、僕は考えを改めなくてはいけない。
一度神楽坂を撃退したからと言って、安堵していた。
もしかすれば、この先一生、僕はこうして狙われ続ける羽目になるのだろうか。
「いやはや、何とお早い御足でしょう。不躾ながら、こうして後を追うような真似をしてしまいました。この非礼は何卒お許しください」
「なっ……!」
再度後方を確認し、その視線を正面に戻したところで目の前には頭を垂れる神留 古鳴がいた。
突然の再登場に僕は思わず恥ずかしくなるような声を上げてしまう。
「先ほどの私奴の発言に少々不備があったようで、誤解を招いたのならお詫び致しましょう。あなた様に危害を加えるつもりは毛頭ありません、どころか、私奴はあなた様の敵でもありませんよ」
「……?」
彼は理解を促すように、ゆったりとした口調で再度同じ言葉を吐いた。
「神留……さん、あなたは『敵』じゃないんですか?」
「『敵』ですか。ほほう、それは中々言い得ているようで、しかし妙ですね。私奴は神に仕える身、崇め奉る神を『敵』などと卑下するなど到底できません」
「…………」
僕は半信半疑で神留さんの言葉を聞きながら沈黙する。
疑い深いと言えばそうかもしれないが、何より、僕は神楽坂との一件を経験しているのだ、簡単に信用するわけにもいかないだろう。
「美耶子はあなた様のことを『敵』とし宣戦布告したそうですが、私奴は違います」
「なら、神留さん、あなたは僕の味方なんですか?」
神職の巫女である神楽坂が僕のことを『敵』と言った。
しかし、同じ神職に当たる神留さんはどうして僕のことを『敵』と呼ばないのか。
「ふふふふふ、ふふ、ひひひひひ――」
彼は。
神留 古鳴は引き攣った不敬な笑みを浮かべる。
その奇妙な笑みは今まで僕が感じてきた紳士なイメージを全て払拭するに十分なものだった。
と言うか。
ただただ怖い……。
「あぁ、失礼しました。つい取り乱してしまいました」
「い、いえ……」
何だろう。
神留さんの腹の内側から伝わるドス黒い気配は。
「味方、ですか。確かに的を射ていますが、しかし、概ね間違いでもあります。私奴はあなた様の『敵』でも『味方』でもありません。そうですね、『中立』とでもしましょうか」
そう言いながら、またも不敬な笑みを浮かべる神留さんだった。
僕はその身の毛が立つおぞましい笑みに不信感を募らせながら訊く。
「曖昧ですね、それってつまり、場合によっては傾く立場ってことですよね?」
「中々聡明ですよ、あなた様。荒魂を背負うことになれば、私奴はいつでもあなた様のお力添えができるよう尽力致します」
「…………」
僕が荒魂になったら、神留さんは僕に力を貸してくれる――ということか。
ん?
え?
ちょっと待て、おかしくないか。
それってつまり――
「ふふふふふ、ふふ、ふひひひひ――」
僕は彼の微笑みの背後に悪魔を見た。




