第四章:青空に響く爆音
七日目の朝、安岡は颯爽と荷物をまとめてお寺を去っていった。
普段は滅多に人を褒めないあの頑固な住職が「あの人には生きた知恵がある。経験値が違う」と本気で惜しみ、三十五年アメリカに住んでいたという、人を見る目が誰よりもシビアな年上の女性修行者は、安岡の荷物をまとめる引き締まった背中を凝視しながら、こう言葉をかけた。
「あんた、完全に常識の枠から抜けてたわ。また会いたいわ」
誰もが安岡という男に魅了され、激しい喪失感を抱える中、彼は一言の昔話も、自慢話も、説教も残さず、ただ静かにお寺に鮮烈な足跡だけを残して山を下りていった。
その日の昼下がり。私は、二十二歳の新人常住と共に、例の駅前のコーヒーショップにいた。安岡が去った後の静けさを埋めるように、冷たい珈琲をすすりながら、新人と修行の思い出を語り合っていた。店内に流れるジャズのBGMが、どこか切なく耳に届く。
「いやあ、安岡さん、最後まで本当にかっこよかったですね」
新人がしみじみとした口調でストローを回し、グラスの氷をカランと鳴らす。
「あ、そういえばリーダー、安岡さんの大学受験の話には、まだ続きがあるんですよ」
「続き?」私はカップを唇から離し、不思議そうに聞き返した。「どんな話?」
「それがですね、安岡さんが高校三年生の夏に、E判定だった大阪都立大学を志望校に変えて、あんな凄まじい過去問逆算ハックを始めた本当の理由なんですけど……実は、高校時代にめちゃくちゃ好きな女の子がいたらしいんですよ。で、その子と同じ大学に行きたいっていう、超不純な動機だけで猛勉強したらしいんです。いつも完璧で隙がないように見えて、若い頃は一人の女のために人生の進路決めちゃうような、熱いっていうか、執念深いところがあるんだなと思って」
「へえ……不純な動機ねえ。人間味があっていいじゃない」
私は苦笑した。あのストイックの権化のような男にも、そんな青く泥臭い時代があったのかと、少し胸が温かくなった。
「あ、それから」新人が思い出したように珈琲を一口飲んだ。「安岡さん、去り際に言ってたんですよ。『お寺に来た初日、リーダーの顔を見た瞬間、心臓が止まるかと思った』って。リーダーの顔が、その『高校時代に自分をコテンパンに振った女の子』に、生き写しなくらいそっくりだったらしくて。だから最初の数日は、リーダーと目を合わせるだけでめちゃくちゃ緊張したって笑ってました。『二十年以上経っているのに、まさか山奥の寺でリベンジマッチをするとは思わなかった』って、ずっと笑ってましたよ」
カラン、とカップの中で氷が虚しく音を立てた。
私の手元で、珈琲の表面が小さく揺れている。
その瞬間、それまでの全てが崩れた。同時に、それまで自分が必死に蓋をしてきた何かが、堰を切ったように溢れ出してきた。
私は、あの男のことが、ずっと「癪に障る」と思っていた。
いや、違う。
「癪に障る」と思い込もうとしていたのだ。
なぜなら、それ以外の言葉で彼を形容してしまったら――例えば「格好いい」とか「頼りになる」とか、もっと根の深い何かで彼を認識してしまったら、私の何かが決定的に変わってしまう気がしたから。
私は彼の背中を追いかけるように、毎朝のヒートで彼の走る姿を目でなぞっていた。
私は彼がサブリーダーに囁いた「四つの動機付け」の話を聞いたとき、その知性に胸を撃ち抜かれた。
私は作務の後、「すごく楽しかった」と口にしたとき、無意識に彼の顔を探していた。
私が「ウイスパー指導」を自然に身につけられたのは、彼が教えてくれたからではなく――彼のようにありたかったからだ。
ああ、そうか。
私は――。
「リーダー? リーダー! 大丈夫ですか? 顔、真っ白ですよ」
新人の声で我に返る。私は冷え切った珈琲を一気に喉に流し込み、震える手でこめかみを押さえた。
「……なんでもない。ただ、あの人、もう二度とこのお寺に来ないでほしいって、心の底から願っただけ」
それは嘘だった。
心の底では、もう一度会いたいと思っていた。しかし、その「もう一度」が実現したとき、自分がどんな顔をすればいいのか、何と言えばいいのか、それがまったく分からなかった。
だって、私はたった七日間、彼の背中を見ていただけの、彼にとってはたまたま「昔フラれた女の生き写し」だっただけの、取るに足らない存在なのだから。
私はカップを置き、立ち上がった。
「戻ろう。夕方の座禅の準備がある」
新人が何か言いかけたが、私はそれ以上聞かなかった。振り返らずに、コーヒーショップのドアを押した。
風が冷たかった。




