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エピローグ:七年後の爽風

それから七年が経った。


私はあの寺を離れ、今は都内の小さな会社で中堅の管理職をしている。あの日々が決して無駄ではなかったことは、毎日の業務で痛感している。部下の話をよく聞き、無理に叱らず、それぞれの強みを活かした役割分担をする。


とはいえ、私はもう「ウイスパー」を意識してやっているわけではない。いつの間にかそれが自分のスタイルになっていた。誰かに教わったという意識すら、薄れかけている。


あの七日間のことを思い出すのは、年に数回あるかないか。


ただ――たまに、ふと、思い出すのだ。


坂道を牙を剥いて駆け上がる背中。便所掃除に黙々と取り組む姿。骨盤の角度を指導する穏やかな声。「リーダー、これで問題ないでしょうか?」と私を立てたあの完璧な距離感。


そして――


もし、あのとき私が「昔フラれた女の生き写し」などではなかったら、私は彼に何と言えたのだろう。


その問いは、長い時間をかけて、自分なりに答えを出していた。


答えはシンプルだった。


「私は彼にとっての『あの女』ではない」――ただ、それだけだ。


かつての私は、その事実に傷つき、もどかしさに溺れ、何も言えずに俯いていた。


でも今は違う。


たとえ彼が私の顔にあの女の面影を見ていたとしても、それは彼の勝手な過去の投影にすぎない。私の人生は、彼の過去のリベンジマッチの舞台装置ではない。


私は私だ。


ある日の夕方、新宿の駅前で人混みを歩いていると、不意に前方から見覚えのあるシルエットが近づいてきた。


白髪が混じった髪。引き締まった体躯。どこか世慣れた、落ち着いた歩き方。


一瞬で、心臓が止まるかと思った。


全身の血が引く感覚。そして同時に、全身の血が沸き立つ感覚。


――まさか。


そんなはずがない。東京は広い。何かの偶然だ。商談帰りの疲れた脳が見せた幻覚だ。


でも、足は止まっていた。


相手も気づいたらしい。数歩先で立ち止まり、私の方を見た。


その顔は――やはり、彼だった。


歳を重ねた。白髪は増え、顔の線はより深くなっていた。しかし、あの眼差しは変わっていなかった。何を見透かしているのか分からない、冷徹でいてどこか優しい、あの目。


彼は私の顔をじっと見つめた。


七年ぶりだった。


かつての私なら、ここで言葉を失っていた。何と言えばいいのか分からず、ただ俯いて、彼が去っていくのを見送るだけだった。


でも、今は違う。


私は背筋を伸ばし、はっきりと彼の目を見据えた。


「安岡さん」


私の口から、自然に声が出た。


彼は何も言わない。ただ、少し首を傾げて、私の次の言葉を待っている。


その無言の態度は、七年前と何も変わっていない。相変わらず、何を考えているのかさっぱり分からない男だ。


でも、それでいい。


「私、あの後ずっと考えてたんです」


私は続けた。


「もし安岡さんが私の顔に、昔フラれた女の面影を見ていたとしても――それは安岡さんの過去の問題であって、私の問題じゃないって。やっと分かりました」


彼の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「私は私です。安岡さんが勝手に重ねた『あの女』じゃない」


はっきりと、そう言った。


彼は黙ったままだった。ただ、じっと私を見つめている。


私は息を吸い、最後の言葉を紡いだ。


「だから――私なら、安岡さんを振りませんよ」


言った。


言ってしまった。


自分の口から出た言葉に、自分が一番驚いている。心臓がどくんどくんと鳴っている。顔が熱い。けれど、後悔はなかった。


それが、私の本当の気持ちだったから。


彼は――


少し間を置いて、にやり、とした。


あの頃と同じ、何を見透かしているのか分からない、冷徹でいてどこか優しい、そんな笑みだった。


何も言わなかった。


ただ、にやりと笑っただけだった。


そして、小さく会釈をし、再び歩き出した。西へ。振り返らずに。


――相変わらずだ。


何を考えているのか、さっぱり分からない。


もしかしたら、私の言葉を聞いて、昔フラれた傷がようやく癒えたのかもしれない。


もしかしたら、まったく別のことを考えていたのかもしれない。


もしかしたら、何も考えていなかったのかもしれない。


でも、それでいい。


彼が何を考えていようと、もう私には関係ない。


私が言いたいことを言った。それだけだ。


私は背筋を伸ばし、彼が去った西とは反対の、東へと歩き出した。


風が吹いていた。


爽やかな、心地よい風が。


振り返らなかった。それは彼と同じ。


ただ一つだけ違うのは――私の心の中には、爽快な風が吹き抜けていたということだ。


あの七日間がくれたもの。


もどかしさと、恋心と、悔しさと、感謝と。


それらすべてを、私は自分のものにした。


スマートフォンを取り出し、画面を確認する。


部長からのメッセージだった。


「明日の朝礼の資料、まだ? 夕方までに回して」


私は「すみません、今仕上げます。本日中に送ります」と返信した。


資料は、もうとっくに完成している。あとは確認して送信するだけだ。


明日の朝礼は、ウイスパーなんて使わなくても、ちゃんと伝わるだろう。


だって私は――


あの人に出会えた、あの日の私のままじゃないから。

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