第二章:逆算する男
四日目の昼。お寺の短い自由時間。
二十二歳の新人常住は、お寺の重い門を出るなり、文字通り「抜け殻」のようになって駅前のコーヒーショップへと駆け込んでいた。彼は、住職の連日の不在による私からのピリついた空気、そして何より、日に何度も訪れる座禅や作法の食事中に課される「正座」の激痛のせいで、心身ともに完全な限界を迎えていた。店内の隅の席に深く腰掛け、冷たい珈琲をすすりながら、ただ二、三時間、意識を無にして泥のように座ることだけが、彼の唯一のストレス発散であり、生命維持活動だった。
しかし、その日の夕方、お寺に戻ってきた新人の顔には、明らかな生気が戻っていた。
「リーダー! 安岡さんに正座のコツを教えてもらったんです!」
新人は興奮を抑えきれない様子で、作務衣の裾を揺らしながら私に話しかけてきた。
「僕が毎日、足の痛さで顔を歪めてるのを、安岡さん、ずっと静かに観察してくれていたみたいで。『君は重心が後ろに寄りすぎているから、背筋を伸ばすだけじゃなくて骨盤を少し前に立てて、わずかに荷重を前方へ逃がすと楽になるよ』って、具体的な身体の構造を教えてくれたんです。さっきの座禅で試したら、信じられないくらい痛くなくなりました……! それだけじゃなくて、僕、コーヒーショップに行く前に、安岡さんの大学受験の話を聞いたんですけど……あの人、マジで頭の次元が違います」
「大学受験?」私は眉をひそめ、新人の顔を見つめた。
新人の話によると、昼前の休憩時間、安岡の無駄のないスマートな佇まいに圧倒された新人が、「大阪都立大学に受かるなんて、安岡さんって元々めちゃくちゃ頭がいいんですね!」と、半ば諦めにも似た感嘆の声を漏らしたのだという。すると安岡は、フッと皮肉げに、しかし穏やかに笑ってこう返したらしい。
『いや、やり方を変えただけだよ。僕はみんながやっている、テスト前一週間の詰め込み勉強というものが昔から大の苦手でね。中学一年の最初の定期テストで、二八七人中、なんと二七八番目だったんだよ』
「ええっ!? あの安岡さんが、後ろから九番目だったの!?」私は思わず大きな声を上げていた。
『そこで僕は気がついて、自分のやり方を変えたんだ。テスト前の詰め込みを一切やめて、毎日少しずつ、自分で計画を立てて、常に同じ勉強量を維持した。テスト前だからといって勉強量を増やさない。それを中学三年間、淡々と、狂わずに続けた結果、卒業するときには学年で四番になっていたんだ』
新人は、安岡の冷徹な語り口を真似るように、声を潜めて目を輝かせている。
『だけど、高校に入るとそのやり方すら通じなくなってね。高校三年生の夏、大阪都立大学を志望校に決めて最初の模試を受けたら、結果は当然のようにE判定だった。合格の可能性は絶望的。だから、ここでもまたやり方を変えたんだ。「教科書の内容を隅から隅まで深く理解する」という愚直で真面目なアプローチを綺麗に捨てて、「いかに限られた時間で、効率よく点数を稼げるか?」という、試験をハックする思考に切り替えたんだよ』
安岡の受験戦略は、二十二歳の新人常住にとって、これまで出会ってきたどの大人からのアドバイスよりも、強烈なロジックとして脳裏に突き刺さったという。
安岡は志望校を決めたその日に、大阪都立大学の過去問題集――いわゆる赤本を買いに走り、解けないことを承知で時間を測って解いてみた。当然、最初はほとんど点数が取れない。しかし安岡はそれを「自分の現在地」として冷徹に受け止め、そこから合格ラインに必要な最低点数を割り出し、現在の自分の実力との「ギャップ」を正確に計算したのだ。
センター試験と二次試験の点数配分、それぞれの科目の配点比率を徹底的に調べ上げ、どの科目をどれだけ底上げすれば最短ルートでそのギャップを埋められるか、勉強時間の配分を完全にシステム化した。そして、過去三年間の問題の中に網の目のように潜む「共通する頻出要素」だけを重点的に狙い撃ちし、無駄な勉強を徹底的に削ぎ落としたのだという。
「それがめっちゃ頭いいんすよ!って僕が興奮してたら、安岡さん、さらにサラッと言ったんです」と新人は声を震わせる。
『ちなみに、一日の勉強時間はどれくらいだったんですか?って僕が聞いたら、「うーん、二時間から二・五時間くらいじゃないかな? でも、盆も正月も関係なく、毎日必ず学校に行ってその時間だけ勉強してたね」って。一日の時間は短いのに、圧倒的な客観性と戦略、そして継続力だけでE判定から逆転合格したんですよ!』
新人の話を聞きながら、私の胸の中を占めていた「癪に障る」という感情は、いつの間にか、敗北感に近い驚愕へと完全に書き換えられていた。
安岡という男は、ただストイックに身体を痛めつけているだけの変人ではない。自分の現在地と目標のギャップを冷徹に計算し、最小限の力で最大の成果を出す「仕組み」を作れる男なのだ。その生きた知恵が、正座の痛みに苦しむ新人の骨盤の角度の指導にもそのまま応用されていた。彼はただ、そこにいるだけで、お寺の若者たちの視点を裏側からハックしていた。




