第一章:牙を剥く怪物
安岡の圧倒的な「個の自律」は、朝食直後の追い込み時間「ヒート(HIIT)」において、お寺の全員に決定的な衝撃を与えることになった。
二十分間の過酷な肉体追い込み。お寺の裏手に続く、心臓が破れるような急勾配の砂利の坂道を、全力でダッシュして上り、下りは歩いて呼吸を整え、再びトップスピードで駆け上がるという地獄のメニューだ。
今回の修行体験者は、安岡を含めて常時十五名ほどが在籍していたが、そのうちの半分は五十代から六十代の中高年だった。そのため、お寺側も配慮し、ヒートには三つのコースが用意されていた。運動習慣のない人や足腰の弱い人用の「徒歩コース」、体力に自信のない人用の「坂道ショートコース」、そして現役バリバリの若者や常住用の「坂道ロングコース」だ。
五十代から六十代の参加者たちがショートコースを走ってはこまめに給水を取り、日陰で休憩を挟む中、五十一歳の安岡は一切の迷いなく「坂道ロングコース」へと足を向けた。
その走りは、常軌を逸していた。
上りは、まるで背後に獰猛な飢えた獣でも従えているかのように、牙を剥いて前だけを見つめ、一切の妥協なくトップスピードで坂を駆け上がっていく。太ももの筋肉が軋み、砂利を蹴り上げる音が鋭く響く。そして下りは、驚くほど冷静に、冷徹な機械のように心肺をコントロールしながら一歩一歩、確実な足取りで歩いて下りてくる。二十分間の制限時間中、彼は一秒たりとも自分を甘やかさず、ペースを落とさなかった。ただ自分自身という壁と戦い、己の魂を削り出すように走るその姿は、ストイックという言葉を生ぬるく感じさせ、見る者に畏怖すら抱かせた。
その安岡の狂気じみた走りに、若さのプライドを激しく燃やしたのが、十八歳の体験修行者だった。元ホストという異色の経歴を持つ彼は、母親に無理やりこの寺に連れてこられ、最初の三泊を母親と共に過ごした後、一ヶ月間の修行を一人で課されていた。歓楽街の虚飾の世界で、夜の街を泳ぎ、口先だけで中身のない大人を嫌というほど見届けてきたはずの少年は、安岡の「言葉ではなく、行動だけで周囲を圧倒するむき出しの生命力」に、強い対抗心を燃やしたのだ。
「あのおっさんに負けるわけねえ」
少年はロングコースに飛び込み、安岡を追い抜く勢いで、誰よりも血気盛んに坂道を疾走していた。安岡の背中を捕らえようと、何度も何度も全力で四肢を駆動させていた。
しかし、安岡の修行期間の最終日。気がつくと、あの十八歳の少年は、肩を落とし、トボトボと「徒歩コース」を一人で歩いていた。
「どうしたの? 今日は走らないの?」
私が声をかけると、少年はきまり悪そうに頭を掻き、腫れ上がった足首を恨めしそうに見つめた。
「……安岡さんを意識して、負けたくなくて無理して毎日走ってたら、足首やっちゃいました。痛くて一歩も走れねえレベル。あのおっさん、マジでバケモノっすよ。なんであの年齢で、あんな壊れないで走り続けられるんだよ。ていうか、あの人、ずっと俺のこと見てなかった? 走り終わった後に『君はいい走りをしていたね』って言われたとき、なんか……めっちゃ怖かったっす」
「……見てた?」
私の脳裏に、ヒート中の安岡の横顔が浮かんだ。確かにあの男は、自分の走りに没頭しながらも、時折、周囲の若者たちのフォームを観察するような眼差しを向けていたような気がする。
少年は完全に安岡の背中に圧倒され、自分の未熟さを思い知らされると同時に、言葉を失うほどの畏敬の念を抱いていた。私の中で、「癪に障るキモいおっさん」という評価の裏に、得体の知れない「怪物」としての圧倒的な輪郭が混ざり始め、私の心の中の焦燥感は、日に日に大きく膨れ上がっていった。




