プロローグ:凍りついた檻
山深い宝仙寺の朝は、まだ夜が明けきらぬ午前四時の、刺すような静寂から始まる。
冬の名残を孕んだ冷気が本堂の古い畳から這い上がり、修行者たちの素足を容赦なく震わせる。通常、週に一度、六十二歳の住職が下界から山へと戻ってくるとき、その静寂は文字通り、地鳴りのような怒号によって切り裂かれるのが常だった。
「何をノロノロしているんだ! そんな心構えだから、いつまで経っても雑念が消えんのだ! 靴を揃える、畳の縁を踏まない、それだけのことがなぜできん!」
本堂に響き渡る重低音の咆哮に、全国から集まった十五名ほどの体験修行者たちが一瞬で身をすくめ、血の気を引かせる。その張り詰めた空気は、修行というよりは、どこか逃げ場のない檻のようでもあった。
しかし、住職がお寺に不在の残りの六日間、その絶対的な権力者の「代わり」として道場を仕切り、全責任を負わされているのは、二十二歳の私――「リーダー常住」だった。
本来ならこの役割は、もっと年配の修行僧が務めるべきものだ。しかし今年に入ってから、ベテラン常住が次々と体調を崩し、残されたのは私と二十一歳のサブリーダー、そして二十二歳の新入りの三人だけ。住職から「お前でいいか」と半ば投げやりに任された、消去法のリーダーだった。
「動かない。腰を立てて。呼吸に集中しろ」
薄暗い堂内を巡回しながら、私は意識的に声を一段と低くし、ドスを利かせた凄みのある声色で指導を行っていた。自ら立候補したわけではない。しかし任されたからには、この重責を全うしなければならない。もし自分がここで少しでも甘えを見せたり、頼りない姿を晒したりすれば、お寺の規律は一瞬で崩壊する。住職がいつ戻ってきても恥ずかしくない空間を維持しなければならない。その一心で、私は毎分毎秒、肩肘を張り続けていた。
恐怖と威圧で空間を支配する。それが、私に分かる唯一の、そして「住職に認められる」リーダーシップの型だった。周りの体験者たちが私を恐れ、私の足音が近づくだけでビクついているのは痛いほど分かっていた。だが、手本である住職が毎日怒鳴り散らしている以上、私にはこれ以外のやり方が分からなかった。
孤独とプレッシャーで、私の心の糸はいつ切れてもおかしくないほどにパンパンに張り詰めていた。二十一歳のサブリーダーは、そんな私の高圧的な態度に露骨な反発を示し、二人の間には常に冷たい氷河期のような沈黙が流れていた。新入りの常住に至っては、私の目を直接見ることすらできず、話しかけるときは必ずうつむいて小声でぼそぼそと喋る。
そんな硬直したお寺の日常に、ある日、五十一歳の男がやってきた。名前は安岡。
引き締まった体躯に、どこか世慣れたビジネスパーソンの怜悧で落ち着いた雰囲気を纏った男だった。お寺には毎日のように、都会の競争社会に疲れて癒やしを求めに来る人間がやってくる。彼もそのうちの一人、少し身綺麗で物珍しい「おじさん」だろう。私は最初、そう高を括り、彼の存在を無視しようとしていた。
しかし、彼は初日から、私の頑ななプライドを、静かに、しかし容赦なく逆撫でし始めた。
安岡はお寺の厳格なルールに文句一つ言わず、それどころか、誰もが最も嫌がる便所掃除を自ら買って出た。そして、七日間の滞在中、毎日黙々と一人で便器の前に膝をつき、タイルの目地までピカピカに磨き上げ続けたのだ。そこに「認めてほしい」という下心や、自分を痛めつけているような悲壮感は一切なかった。ただ、毎朝の歯磨きと同じように、己のルーティンとして淡々と義務を遂行する。
(なんなの、あのおっさん……。部外者のくせに、いちいち癪に障るな)
私が必死にプレッシャーと戦って維持している道場で、彼はあまりにもナチュラルに、私よりも一歩先回りの行動をとってみせる。そのブレない個の自律心が、私の未熟さを間接的に責め立てているようで、私は安岡の存在が最初、たまらなく不愉快で、そして恐ろしかった。
ただ一つ、違和感があったとすれば――初日の朝、私が自己紹介と共に諸注意を読み上げたとき、安岡は一瞬、はっきりと目を見開き、そしてすぐに俯いた。その表情は、まるで幽霊でも見たかのような驚愕に満ちていた。
(何だ、あの反応……。私の若さに呆れてるのか?)
そう思い込み、私は彼への不快感をさらに強くした。




