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第097話 選ばされる男

 選択肢が二つしかない時点で、それはもう誰かの罠だった。


 俺は、答えられなかった。


 全員を救いたい。


 そう言うのは簡単だ。


 だが、方法はない。


 世界中の刻印を壊す手段も、登録システムを壊して混乱を起こさない方法も、まだ何一つ分かっていない。


 それなのに、目の前には五人を救える道がある。


 解放者の家を守れる道がある。


 確実で、現実的で、手が届く。


 だから俺は沈黙した。


 その沈黙を、エルヴィアは責めなかった。


「迷うのは当然です」


 彼女は言った。


「貴方は無責任な理想家ではない。目の前の命を見捨てて、大きな言葉だけを選べる人ではありません」


「俺を分かったように言うな」


「分かります」


 エルヴィアは穏やかに答えた。


「貴方は、助けられる相手を助けずにはいられない」


 その言葉は、否定しきれなかった。


 俺は助けたい。


 五人を助けたい。


 解放者の家を守りたい。


 その願いが、エルヴィアの提示した管理者継承と結びつきかけている。


 ロゼッタが記録帳を閉じた。


「条件だけを見れば、受ける価値があります」


 部屋の空気が揺れた。


「ロゼッタ」


 セリアが低く呼ぶ。


「誤解しないでください。私は受けるべきだと言っているのではありません。契約条件として魅力的だと言っています」


 ロゼッタは俺を見た。


「五人の刻印解除、拠点保護、敵対組織からの干渉遮断。商人として評価するなら、極めて強い条件です」


「危険は?」


「甚大です。レオン様が管理者権限を受諾する。世界全体の登録制度を維持する。保護対象が、保護という名で再分類される。契約としては、利点も危険も最大級です」


 イリスも苦しそうに言った。


「技術的にも、五人だけを解除する方が現実的です。世界契約全体を壊すより、ずっと成功率が高い」


「イリスまで」


「だから怖いんです」


 彼女は涙目で俺を見る。


「嘘ならよかった。無理ならよかった。でも、できます。たぶん、レオンさんならできる」


 できる。


 その言葉が、俺をさらに沈める。


 できないなら諦められる。


 できるから迷う。


 セリアが盾を床へ置いた。


「現実的だからこそ、危険だ」


 彼女はエルヴィアを見る。


「大司教の提示は、罠としてはよくできている。罠という言葉が不服なら、選択肢としてよくできていると言い換えよう」


「不服ではありません」


 エルヴィアは静かに答えた。


「人は、罠と知っていても選ぶことがあります。中にあるものが必要なら」


 ミュールが俺の袖を掴んだ。


「レオン」


「何だ」


「ミュールは助かりたい」


 胸が痛んだ。


 彼女は続ける。


「命令、嫌。夜爪、嫌。首が熱くなるの、嫌。だから、助かれるなら助かりたい」


「ああ」


「でも、ミュールのために、他のミュールみたいな子を残すのも嫌」


 その言葉は、静かに刺さった。


 ミュールは自分の救いを否定していない。


 だが、自分だけの救いで終わることも拒んでいる。


 ナギが頷いた。


「道を選ぶのは、レオン一人じゃない」


「でも、権限を継ぐのは俺だ」


「だからこそ、一人で決めるな」


 ナギの声は静かだ。


「道連れなら、道を選ぶ時も隣にいる」


 俺は五人を見た。


 セリアは現実的だから危険だと言う。


 ミュールは助かりたいが置き去りにしたくないと言う。


 イリスは技術的に可能だから怖いと言う。


 ロゼッタは契約条件として魅力的で危険だと言う。


 ナギは道を一人で選ぶなと言う。


 誰も簡単に答えを出さない。


 だから、俺も答えられなかった。


 エルヴィアはその沈黙を見て、柔らかく微笑んだ。


「それは優しさです」


 その瞬間、俺は彼女が何をしているのか分かった。


 彼女は俺を責めない。


 俺の迷いを肯定する。


 俺の沈黙を優しさと呼ぶ。


 そうやって、管理者になる道へ少しずつ歩かせようとしている。


 悪意ではなく、理解で。


 脅迫ではなく、肯定で。


 俺は奥歯を噛んだ。


「俺は」


 声が出た。


 だが、続きが出ない。


 俺は、五人だけを救う選択を本気で考えてしまった。


 その事実を、まだ口にできなかった。


 制御室の光が静かに揺れる。


 管理者継承の手順が、俺の右手の先で待っている。


 俺はまだ、答えられない。


 その沈黙を、エルヴィアは優しさと呼んだ。


 けれど五人は、違うものとして見ていた。


 俺の沈黙は、優しさだけではない。


 逃げでもあった。


 選ばなければ、五人を裏切らずに済む。


 答えなければ、世界を見捨てずに済む。


 だが、選ばないまま時間が過ぎれば、地下中枢はまた命令を送る。


 五人の刻印は完全には消えていない。


 解放者の家も無防備なままだ。


 俺が答えないこともまた、誰かを危険に晒す。


 それが分かっているから、余計に声が出ない。


 エルヴィアはその沈黙を待つ。


 待つことに慣れている人の姿だった。


 彼女はおそらく、これまで何人もの人間に同じような選択を見せてきたのだろう。


 すぐに拒む者。


 すぐに受け入れる者。


 迷って壊れる者。


 その中で、俺の沈黙を優しさと呼ぶ。


 彼女にとって、俺の迷いは失敗ではなく、管理者に必要な資質なのかもしれない。


 迷うから、苦痛を減らそうとする。


 苦痛を減らそうとするから、管理を受け入れる。


 その道筋が、見えてしまう。


「レオン様」


 ロゼッタが呼んだ。


「今、契約判断をするには情報が不足しています」


「そうだな」


「ですが、情報が不足しているから判断しない、という選択も危険です。相手はその間に条件を増やせる」


「どうすればいい」


「一人で考えないことです」


 彼女は短く言った。


 それは答えではない。


 だが、今の俺には必要な言葉だった。


 俺は一人で考え始めていた。


 五人を救うか、世界を救うか。


 自分が管理者になるか、ならないか。


 自分の責任として。


 それがもう、エルヴィアの作った盤面だった。


 ミュールが俺の袖を引く。


「レオン、目が遠い」


「遠い?」


「ミュールたちを見てるのに、見てない」


 その言葉で、俺ははっとした。


 俺は五人を救うことを考えていた。


 だが、目の前にいる五人そのものを見ていなかった。


 救う対象として見ていた。


 それが、どれほど危ういか。


 ナギが言う。


「道を考える時、足元を忘れると落ちる」


 イリスが続ける。


「私たちは、計算条件ではありません」


 セリアが盾を持ち直す。


「救うかどうかを選ぶ駒でもない」


 五人の言葉が、少しずつ俺を制御室へ戻す。


 エルヴィアの言葉ではなく。


 中枢の光でもなく。


 目の前の声へ。


「俺は」


 もう一度言おうとした。


 だが、やはり言葉は詰まる。


 俺は本気で迷っている。


 そして、その迷いを五人に見られている。


 恥ずかしかった。


 怖かった。


 でも、隠すよりましだ。


「俺は、五人だけを救う道を見た」


 ようやく言えた。


「見て、欲しいと思った」


 エルヴィアの微笑みが深くなる。


 だが、五人の表情は違った。


 怒り。


 痛み。


 納得。


 悲しさ。


 そして、覚悟。


 その全部が、この先で俺へ向けられることになる。


 エルヴィアは、俺がそれを言ったことに満足したようだった。


「認められるのは、よいことです」


「何が」


「自分が救いたい相手を優先したいと思うことを」


 彼女は静かに言う。


「人は、世界よりも隣人を選びます。それは恥ではありません。むしろ自然なことです」


「その自然さを利用するのか」


「利用ではありません。基準にするのです」


 エルヴィアは五人を見る。


「彼女たちは貴方の隣人です。名も、痛みも、声も知っている。なら、まだ見ぬ誰かより重く感じるのは当然です」


 また、反論しづらいことを言う。


 俺はまだ出会っていない奴隷の顔を知らない。


 まだ出会っていない実験体の声を知らない。


 まだ出会っていない剣奴の痛みを知らない。


 でも、五人の痛みは知っている。


 だから五人を選びたくなる。


 それは冷酷ではない。


 人間らしさだ。


 エルヴィアは、その人間らしさを管理者への入口にしている。


「もし俺が五人を選んだら」


 俺は聞いた。


「他の人たちはどうなる」


「今まで通りです」


 その答えは、残酷なほど正直だった。


「今まで通り、売られ、命令され、分類されるのか」


「少しずつ改善できます」


「少しずつ?」


「一度にすべてを変えることはできません。ですが、管理者として権限を持てば、苦痛制御の制限、不当売買の監査、保護対象の拡張は可能です」


 現実的な言葉。


 段階的改善。


 監査。


 保護対象の拡張。


 それは綺麗な革命ではない。


 だが、すぐに死ぬ人を減らせるかもしれない。


 その可能性まで、彼女は提示する。


 俺は壁に手を伸ばしそうになり、止めた。


 ミュールが袖を掴む。


「今の匂い、危ない」


「ああ」


 俺は認めた。


「危なかった」


 ロゼッタが言う。


「エルヴィア様の条件は、短期救済と長期改善を同時に提示しています。非常に強いです」


「褒めるな」


「褒めていません。警戒しています」


 イリスが小さく言った。


「でも、技術的には筋が通っています」


 セリアが苦い顔をする。


「筋が通っているからといって、正しいとは限らない」


「はい」


 イリスは頷く。


「でも、筋が通っているものを否定するには、こちらも筋を通さないといけません」


 その通りだった。


 俺たちにはまだ、エルヴィアの現実論を超える筋がない。


 命令しない。


 同意を取る。


 誰も置いていかない。


 大事な言葉はある。


 だが、それを世界規模の制度にどう変えるかは見えていない。


 だから俺は選ばされている。


 理想と現実の間で。


 五人と世界の間で。


 優しさと支配の間で。


 エルヴィアは、俺をその場所へ立たせた。


 そして、俺が沈黙するのを待っている。


 その沈黙こそが、彼女の言う優しさであり、俺にとっては危うさだった。


 だが、俺一人が選ばされていると思ったこと自体が、最初の間違いだった。

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